攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

美濃 の検索結果:

【現在1782城!】全国の御城印(お城版の御朱印)を販売しているお城の一覧

…2年11月 烏峰城(美濃金山城) 御城印 美濃金山城(岐阜県可児市) 可児市観光交流館 300円 印刷 2022年11月 鷺城 登城記念 万世コミュニティセンター、山上コミュニティセンター 300円 印刷 縦15cm、横10cm 2022年11月27日 丸岡城 重ね捺し御城印 紅葉 丸岡城(福井県坂井市) 丸岡城天守券売所(霞ケ城公園管理事務所)、城小屋マルコ、一筆啓上茶屋、國神神社、一筆啓上 日本一短い手紙の館 300円 印刷 はがき大 2022年11月26日 獅子ヶ鼻砦 …

諏訪原城~武田・徳川が奪い合った数奇な山城~

…正元年)に家臣・馬場美濃守信春(信房)に築かせた山城です。武田勝頼といえば、NHK大河ドラマ「どうする家康」で眞栄田郷敦さんが演じ、大きな話題を呼びましたね。勝頼は、当時徳川家康の勢力下にあった遠江国(静岡県西部)を獲得するため、諏訪原城を遠江国と駿河国(静岡県中部)の国境に築かせました。 1575年(天正3年)に勃発した「長篠・設楽原の戦い」にて勝頼を破った家康は、勢いそのまま諏訪原城を落とし、自身の城としました。武田氏が信仰した戦の神・諏訪大明神から名を取った城名を嫌った…

【家康の謎・番外編】十八松平と十四松平、あるいは徳川家康のルーツとは

…たようだ。慶長年間に美濃岩村藩2万石をもらった後、老中を度々出し、最終的には三河西尾藩6万石だった。他に分家として美濃岩村藩3万石、豊後府内2万石、信濃田野口藩1万6千石があった。 滝脇松平は慶長年間に滝脇村などにもらった6千石を代々継承した。 福釜松平は天正年間に領地をもらい、1100石を継承した。 桜井松平は清康が死んだ際に遺児の広忠を岡崎城から追い出したり、三河一向一揆でも家康に反旗を翻すなど、本家に敵対的な家と言える。しかし降伏して許された。慶長年間に遠江浜松藩5万石…

【家康の謎】家康はなぜ三方ヶ原の戦いで戦ったのか?

…および織田)と武田は美濃や遠江を介して武田領国と接していた。また、かつて家康は対今川・対北条で武田と手を組んだことがあるのだが、約束を破って今川・北条に融和的な姿勢を示したということもあった。つまり、徳川と武田はそもそも戦わざるを得ない関係であったのである。 この時、2万5千と呼ばれる軍勢を率いて遠江へ入った信玄は、浜松城の西北へ広がる三方原の台地を西へ悠々進んだ。対する家康の軍勢はもともとの手勢が8千、信長の援軍が3千と、兵力では明らかに不利だった。しかし逆に言えば、武田軍…

【家康の合戦】大坂の陣(冬の陣、夏の陣)豊臣を滅ぼした家康最後の大戦!

…二条城、越前福井城、美濃加納城、彦根城、江戸城、駿府城、丹波篠山城、名古屋城、丹波亀山城、伊賀上野城、越後高田城などを新たに築き、その他にも城の大改修を進めていきました。いわゆる豊臣包囲網です。 そんな折、1614年(慶長19年)にあの有名な事件が起こります。方広寺鐘銘事件で、大坂の陣の発端と言われています。方広寺は1586年(天正14年)に秀吉が造営したお寺で、1596年(慶長元年)の大地震で大破したものを秀頼が復興させていました。1614年に完成し、8月1日に大仏開眼供養…

【家康の合戦】関ヶ原の戦い 豊臣政権の内部抗争

…一方の三成方は伊勢、美濃へ兵を進め、三成自身は大垣城に在城します。織田秀信の岐阜城、石川貞清の犬山城、竹ヶ鼻城を前線として軍勢が集結しました。このように尾張・美濃の境目で対陣したのが、関ヶ原の戦いの始まりです。しかし、このとき家康は井伊直政や本多忠勝を軍目付として派兵してはいますが、まだ江戸にいて動きを見せません。それは先にも述べた通り、豊臣公儀から外されて軍事指揮権を持っていないために東軍の諸将を指揮できなかったことと、諸将が離反する可能性、つまりは家康討伐の動きに転じる恐…

【家康の合戦】小牧・長久手の戦い 家康・人生のターニングポイント

…勢の三か国を領有し、美濃は池田一族に与えられ大垣城に池田恒興、岐阜城に息子の元助、美濃金山城に森長可が入りました。 一方で家康は、安土城を訪れたのちに立ち寄った堺で、本能寺の変の報せを受けました。危機を感じた家康は伊賀経由で岡崎城へ急ぎかえりました。家康三大危機のひとつにも挙げられる、いわゆる「伊賀越え」です。からくも逃げ帰った家康は明智討伐に出ようとしますが秀吉が討ったとの知らせを受けるや織田領となっていた上野・甲斐・信濃をめぐって北条と争い(天正壬午の乱)、結果として三河…

【家康の合戦】高天神城の戦い 武田vs徳川の攻防戦!

…垣城・岐阜城に入って美濃を治め、恒興の娘婿である森長可が美濃金山城に入って東美濃を平定しました。このように情勢が刻一刻と変わっていく中で、羽柴秀吉と織田信雄の関係が悪化していき、家康も参戦することとなる小牧・長久手の戦いへと進んでいきます。次回は、小牧・長久手の戦いについて書いていきます。 まとめ 武田と徳川の間で起こった「高天神城の戦い」は3度起こりました。最後に高天神城を攻め落とした家康は遠江を平定することに成功し、その後の五か国領有へとつながっていきました。長篠設楽原の…

【家康の合戦】長篠設楽原の戦い 激突!武田勝頼との三河攻防戦

…す。 一方の勝頼は東美濃や遠江に侵攻するなどして勢力圏の拡大を図っていました。この一連の侵攻で有名なのが高天神城の戦いです。さらに、信玄公の三回忌法要を済ませた勝頼は遠江だけでなく三河へも侵攻を開始しました。武田軍先陣は4月15日に足助城を包囲して降伏させると、岡崎城に侵攻する予定でしたが取りやめて作手古宮城に入り、勝頼本隊の到着を待ちます。勝頼は4月20日ごろ甲府を出陣し、諏訪を経て南下、遠江に入ると二俣城に着陣。家康の居城である浜松城をけん制しながら三河へと進み、作手で先…

【家康の合戦】姉川の戦い 家康の活躍で浅井・朝倉を撃退した戦い!

…って京に戻り、信長は美濃へ、家康は岡崎に帰還しました。 岐阜に戻った信長は、浅井長政を討つために北近江に出陣し、6月21日に小谷城を攻撃します。家康も5,000の兵を率いて参陣しました。しかし堅固な小谷城を攻め落とすのは無理と判断して一日で退却、後方の横山城を包囲しました。信長と家康は龍ヶ鼻(たつがはな)に陣を構えます。これに対し、浅井・朝倉軍は姉川の北に、信長・家康軍も呼応して姉川の南に布陣し、ここに姉川を挟んで両者が激突する「姉川の戦い」が始まったのです。 ちなみに、この…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…行動が活発になる。東美濃、奥三河が武田領に 6月には高天神城が落城。信長の援軍は間に合わず 1575年(天正3年)、34歳 大岡弥四郎事件。信康を担いでのクーデター 未然に発覚して、弥四郎は鋸引きの極刑 3月に信長は家康に兵糧2000俵を送る、家康は長篠城へ300俵を入れる 5月、長篠の戦い 5/1、長篠城が包囲される 5/13、信長岐阜から出馬 5/18、有海原(あるみはら)に布陣、従来「設楽原」と呼ばれてきた場所だが『信長公記』や『三河物語』にはこの記述 @鉄砲三千挺、三…

【家康の城】名古屋城 家康築城術の到達点!

…の抑えとして東海道・美濃路の追分に位置する名古屋に城を築いたのです。名古屋城築城にあたっては家康自身が地選をおこなったり、指示を細かく出すなど、家康肝いりの城ともいえます。1612年(慶長17年)に天守、1615年(慶長20年)には本丸御殿が完成しました。城主の義直はこの年に婚儀を行ったといわれていますが、その最中に大坂夏の陣が勃発するのです。 室町時代に尾張の守護所=中心だった清須城は、政治・経済・物流の中心であり、織田信長・信忠・信雄、豊臣秀次、福島正則らが城主を務めまし…

それなりの戦国大名家は合戦で負けても滅亡しない(ことが多い)

…め、西上野・飛騨・東美濃・駿河を制圧。織田信長・徳川家康とは同盟・対立を繰り返し、晩年に三河へ進出して家康を打ち破るが、その出陣中に病死した。・偉大な父・信玄の跡を継いだ武田勝頼はたびたび東美濃・奥三河・遠江へ兵を出し、家康と戦い続けた。しかし1575年、三河の長篠城を攻撃したところ信長・家康の連合軍によって大敗した。この戦いで武田は信玄の時代以来の有力な重臣たちの多くを失った。また、いわゆる「三千丁の鉄砲による三段撃ち」伝説が有名になったこともあって、武田氏はこの戦いで滅び…

【戦国軍師入門】竹中半兵衛――諸葛亮にも例えられた知性派策士

…いう。斎藤家に仕える美濃の武士・竹中重元(しげちか)の子だ。しかし、斎藤道三をその子・義龍(よしたつ)が殺した際、重元は道三についた。これもあってか、父の死後に斎藤家に仕えるようになった彼は、義龍の急死後に斎藤家を継いだ子の龍興(たつおき)に随分冷遇されたようだ。 そこで半兵衛がやってのけたのが、少数で稲葉山城を乗っ取って見せるという離れ業だった。これによって半兵衛の名は大いに高まった。その後、彼は浅井家のとある家臣を頼って隠居し、稲葉山乗っ取りの話を聞いて出仕を求めてきた信…

【戦国軍師入門】蜂須賀正勝――「野盗の親分」、実は外交折衝の達人

…れは否定されている。美濃の斎藤道三を始めとして幾つかの主に仕えた後、織田信長に仕える。「桶狭間の戦い」にも参加し、戦功を上げていた。墨俣一夜城のために秀吉が正勝に会いに行く……というのは後世の創作である。また、同じように少年時代の秀吉(日吉丸)を矢作橋(やはぎばし)で助けたという逸話も、その当時には矢作橋がないために創作であったと考えられる。この頃は橋が架かっておらず、渡し舟によって人々は行き来をしていたのだ。 1567年(永禄10年)の稲葉山城攻めの際に秀吉の配下となり(一…

【戦国軍師入門】関ヶ原の合戦――100人を倒すより1000人に裏切らせる

…ったが)率いる西軍は美濃(現在の岐阜)の関ヶ原にて大いに戦い、激戦の末に軍配は家康の東軍に上がった。 ところがこの戦い、戦場での両軍の布陣だけを見ると西軍の方がはるかに有利だった。そもそも西軍の方が数が多い上、東軍は西軍に取り囲まれる形で布陣していたのだ。実際、明治時代に日本陸軍の軍事顧間として来日したドイツのクレメンス・メッケル少佐が、この布陣の様子を見てすぐに西軍の勝ち、と断言したという話が伝わっている。しかし、結果はまったく逆になった。そして、その陰には両軍の軍師たちが…

【戦国軍師入門】稲葉山城乗っ取り――軍師・半兵衛、鮮やかなデビュー

…64年(永禄7年)に美濃の国(現在の岐阜県の一部)で起きたこの事件(合戦とは言い難い)の面白いところは、戦国時代のドラマチックなエピソードがしばしば全くの架空、もしくは事実を元にした創作であることが多いのに対し、どうやら実際に起きているらしいことだ。半兵衛は本当に少数の兵だけで、堅城と呼ばれた斎藤家の居城・稲葉山城を乗っ取ってしまっているのだ。動いた兵は少数で、起きた戦闘もごく小規模だが、だからこそのドラマチックさが目立つ。 なぜ半兵衛がこんな事件を起こしたのか、については幾…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城にまつわる面白い話①――秀吉の一夜城・墨俣城

…のが「墨俣一夜城」、美濃の墨俣城(岐阜県大垣市)で、築いたのは木下藤吉郎(豊臣秀吉)である。そもそも以下に紹介する話自体が江戸時代の創作ではないかという説もあるが、城の跡自体は発見されているともいい、少なくとも「墨俣城跡的なものがあり、秀吉がそれを利用して短期間で作ったのでは」というのはそれなりに信憑性がありそうだ。 さて、この城が築かれた頃、秀吉が仕える織田信長は、美濃の斎藤氏との戦いを繰り広げていた。そして、その中で懸念となっていたのが、長良川を始めいくつもの川が合流する…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】悲劇の舞台③――玉砕の舞台になった城・高遠城

…したからだ。さらに、美濃方面から攻めて来る信忠に備えて高速城の北方に位置する諏訪に出陣していた武田氏当主・武田勝頼が甲斐に戻ったのは、遠江方面の徳川軍に備えて江尻城を守っていた穴山信君(梅雪)が裏切ったからだ。結果、高遠城の盛信はほぼ孤立した状態で1万とも3万ともいわれる信忠軍の攻撃に晒されることになる。 信忠は高遠城に降伏を勧める書状を送ったが、盛信はそれを拒否。その返答を受けて織田軍は高速城を包囲し、一気に攻め込んだ。戦いは乱戦となり、信忠は自ら塀の上で指揮をとったという…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】悲劇の舞台②――悲劇の女城主伝説の城・岩村城

…なのだけれど。信濃と美濃の境目に築かれた岩村城(岐阜県恵那市)は、標高721メートル、高度差でも180メートルという地形を活用した難攻不落の名城であり、「日本三大山城」のひとつにも数えられる。霧が立ち込めるところから「霧ヶ城」の別名もある。古くより遠山氏が城主であり、戦国時代には遠山景任(とおやま かげとう)が織田氏の支援を受けつつ武田氏の攻撃を撥ね返していた。その後この城は動乱の中で幾度か主を変え、江戸時代には松平氏の居城となる。 物語の主人公は景任の妻で織田信長の叔母にあ…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく⑧――わずかな兵に乗っ取られた城・稲葉山城

…進めるための拠とした美濃の岐阜城(岐阜県岐阜市)は、金華山という山に答え立つ山城である。もともとは稲葉山城という名前で、斎藤氏の城だった。築城されたのは1201年(建仁元年)と古く、鎌倉幕府の吏僚であった二階堂行政(にかいどう ゆきまさ)が築城主である。これが美濃守護代の斎藤氏の居城となり、その家臣である長井氏の城となって、長井氏・斎藤氏を下剋上で滅ぼした斎藤道三の居城となる、という経緯をたどった。 ところがこの斎藤氏は道三の孫・斎藤龍興(さいとう たつおき)の代に、道三の娘…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は⑨――徳川本隊を釘付けにした城――上田城(第二次上田合戦)

…るよう命令が入った。美濃の方面の戦局が切羽詰っているため、すぐにそちらに向かわせようとしたのである。しかし結果的に秀忠は間に合わず、関ヶ原の戦いに参陣できなかったという大失態を犯してしまった、というわけだ。 このように、第二次上田城の戦いは西軍側の大勝利となった。わずかな兵で敵の大軍を押さえ込み、大事な決戦に参加させなかったからだ。ところが、秀忠の部隊を欠いた上でなお、家康は関ヶ原の戦いに勝って見せた。これはさすがの昌幸にも読めなかっただろうが、だからといって彼と上田城の活躍…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は⑧――関ヶ原の戦い当日まで持ちこたえた城・大津城

…ころが、これがなんと美濃の関ヶ原で東西両軍が激突したまさにその日の朝のことであった。大津城落城と同じ日に、関ヶ原の戦いは終わったのである。 この出来事については二つの評価とそれにまつわるエピソードがある。ひとつは、「折角粘ったのだから戦いが終わるまで守りきればよかったのに」というものだ。この戦いを見物していた京の人々が「京極さんも不運だな」と噂し合い、家康も城を見て「城はいいが、大名がしっかりしていない」といった意味のことをつぶやいた、などと伝わる。 もうひとつは、「いいや、…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑤――勇ましくも美しき女武将の活躍した城・安濃津城

…いる西軍がぶつかった美濃関ヶ原における合戦が有名だが、実際には全国で東軍と西軍に分かれての戦いが巻き起こっており、数々の印象深いエピソードが残されている。もちろん、その中には多数の「籠城戦」が含まれているわけだが、特に面白いものとして伊勢安濃津城(三重県津市)の戦いを紹介したい。なにせ、この戦いでは華やかな女武者が見事な活躍を見せているのだから。 戦国時代の合戦で活躍したのは男性ばかりだと思われがちだが、戦いが女性たちの領域である城にまで及んだ際には、自らの命を守り、家を守る…

【10大戦国大名の実力】斎藤家③――下剋上から滅亡まで

…した後なので、喜んで美濃攻めの兵をあげた。織田軍と斎藤軍は森部で激突し、織田の圧勝に終わった。ところが、勝った方の織田軍も斎藤軍の粘り強い抵抗にあって致命傷を与えるまでのことはできなかった。義龍がきっちり美濃の国人衆をまとめあげていたことが、彼の死後にも生きたのであろう。 こうして再び織田と斎藤がにらみ合う状態になったわけだが、どうやら龍興には祖父や父のような才覚が欠けていたらしい。長じてから放蕩にふけったという話もある。実際、彼の代から斎藤氏は少しずつ衰退していくことになる…

【10大戦国大名の実力】斎藤家②――父殺しの義龍

…うのである。 道三は美濃を支配するにあたってこのことをむしろ積極的に利用して権威を確立したが、義龍が長じるとこれが原因となって関係が悪化、ついには両者が対立に至った――というわけだ。じつにドラマチックであることからしばしば小説の題材などに使用されるが、実際の信憑性には疑問が残る。後世の創作であると考えた方がよさそうだ。 一方、別の見方もある。道三が隠居に追い込まれたのは美濃の国人たちの信望を失ったからだ、というものだ。実際、長良川の戦いにおいて道三側についた斎藤家臣団はあまり…

【10大戦国大名の実力】斎藤家①――下克上の行く末

…で名前が挙がるのが「美濃の蝮(まむし)」こと斎藤道三ではないだろうか。一介の油商人から謀略を駆使して一介の主へ成り上がり、人生の最後には息子に背かれて戦場に倒れる様は「乱世の奸雄」としてあまりにも劇的である。また、彼が才能を認めた娘婿・織田信長が後に天下人へと成長していくのも、道三の物語を壮大なものにしている。「道三自身の野望は絶えたが、信長に受け継がれた」というわけだ。 しかし、近年になって新しい史料が発見されたことで、ドラマや小説でおなじみの「道三成り上がり伝説」は修正を…

【10大戦国大名の実力】織田家④――信長の息子たち

…田家の押さえや尾張・美濃の統治を任せられ、数年後には織田軍の総指揮を任せられることも頻繁になった。 このなかで信忠が示した能力は「信長の後継者」として十分なものだった。信長も内外に信忠を後継者としてアピールしており、何事もなければ――もしくは、信長自身に何かがあっても、信忠さえ生きていれば織田政権は存続したはずだ。重臣の中の誰かが主導権を握ろうとしても、信忠が中心に座っていればそれをひっくり返すだけの大義名分は作れない。 しかし、本能寺で信長が倒れた際に、同じ京の妙覚寺にいた…

【10大戦国大名の実力】織田家②――尾張における下剋上と弾正忠織田家の台頭

…や今川氏と戦い、北は美濃で斎藤氏との勢力争いを繰り広げた。しかし、残念ながら信秀自身はそうした勢力拡大が大きな成功を収める前に42歳で死去した。 信長の活躍と死 信秀の死後、いよいよ信長の活躍が始まる。信秀は生前に国内の有力勢力である清洲・岩倉の両織田家や斯波氏を叩くようなことをしなかったため、没後には国内の勢力が次々と離反していくことになった。そのため、家督を継いだばかりの若き信長は尾張国内で自身と対立する他の織田氏や尾張国人との戦いから始めなければならなかった。さらに身近…

【10大戦国大名の実力】武田家③――クーデターにより家督を継承した信玄

…力を減じるとこの同盟を破り、新興勢力の徳川家康と手を結んで侵略し、駿河を手に入れる。また、これに加えて西上野・飛騨・東美濃といった地域も手に入れており、その勢力はさらに巨大なものとなっていった。 そして1572年(元亀3年)、将軍・足利義昭の要請に応えて、信長包囲網の重鎮として上洛のために出陣し、その途上の三河では徳川家康を三方ヶ原の戦いで一蹴してしまう。ところがここで体調が悪化し、信濃へ戻ったものの病状が回復することはないままに翌年、駒場の地でその生涯を終えることになった。

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