攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

徳川家康 の検索結果:

【戦国軍師入門】太原雪斎――家康にも影響を与えた、今川家の軍師僧

…に倒れ、そのあとを継いだ氏真は家を守ることができず、今川家は滅亡してしまう。まさに雪斎こそが今川家の命運を握っていたのかもしれない。 また、彼が果たした歴史的役割として、もうひとつ、重大なものがある。それは松平元康、のちの徳川家康に影響を与えた、という点だ。先にも触れた安祥城攻めの際に改めて今川家の人質となった彼の後見役を務めたのが雪斎だった。今川家を支えた当時有数の軍師から教育を受けたことが、のちに長い忍耐の末に天下を掴んだ家康の戦略に、大きな影響を与えたことは間違いない。

【戦国軍師入門】大坂の陣――天下の大坂城を裸にした謀略

…れが「大坂の陣」だ。徳川家康は「関ヶ原の合戦」に勝利してその後の天下を主導する立場に着くが、豊臣秀吉の子・秀頼と天下の堅城・大坂城は未だ残っていた。幕府を作って日本全体を支配しようという家康の企みにおいて、やはり豊臣家は最大の障害として残っていたのだ。 一方の豊臣側としても、本来臣下であるはずの家康が我がもの顔で采配を振るっているのは我慢のならないことだった。しかも徳川側はあの手この手の方法で豊臣家を挑発し、合戦をそちらから起こさせようとする。 こうした謀略の中で最も有名なの…

【戦国軍師入門】石垣原の戦い――黒田官兵衛、最後の賭け

…)、石田三成の挙兵と徳川家康の動向を聞いた官兵衛(当時は既に出家して如水と呼ばれていた)は今こそまさに最後の賭けに出る時、と行動を起こす。この時彼は東軍として挙兵したのだが、実は心中では九州を占領したのちに中央に攻め上がり、一気に天下を奪い取るつもりだったのだ。官兵衛は決戦には1カ月はかかるとふみ、それなら自分がつけ込む隙は十分にあると考えたのだ。これこそまさに、かつて秀吉が恐れた男の面目躍如といえる。 しかし、黒田家の兵は既に家督を譲ってある息子の長政が連れて行ってしまった…

【戦国軍師入門】関ヶ原の合戦――100人を倒すより1000人に裏切らせる

…天下分け目の合戦だ。徳川家康の率いる東軍と、石田三成の(名目上の指揮官は毛利輝元だったが)率いる西軍は美濃(現在の岐阜)の関ヶ原にて大いに戦い、激戦の末に軍配は家康の東軍に上がった。 ところがこの戦い、戦場での両軍の布陣だけを見ると西軍の方がはるかに有利だった。そもそも西軍の方が数が多い上、東軍は西軍に取り囲まれる形で布陣していたのだ。実際、明治時代に日本陸軍の軍事顧間として来日したドイツのクレメンス・メッケル少佐が、この布陣の様子を見てすぐに西軍の勝ち、と断言したという話が…

【戦国軍師入門】秀吉の四国征伐――官兵衛の策略でスピード勝利

…・長久手の戦い」では徳川家康相手に苦戦しつつも、その後に家康が旗印としていた織田信雄を懐柔して相手を押さえ込み、さらに朝廷に近づいて関自の座を得る。こうして着々と天下統一の道を進む豊臣秀吉は、ちょうどその頃土佐(現在の高知)の長宗我部元親がほぼ統一したばかりの四国に矛先を向けるのだった。 長宗我部家は以前から秀吉に敵対する動きが目立ち、この時も阿波・讚岐・伊予(それぞれ現在の徳島・香川・愛媛)の三国を返上するようにという要求を当然の如く却下する。そこで秀吉は弟の秀長を総大将と…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく⑧――わずかな兵に乗っ取られた城・稲葉山城

…戦いの前哨戦で落城。徳川家康の娘婿にあたる奥平信昌(おくだいら のぶまさ)が領主となったものの、彼が居城として別の新しい城(加納城)を築いたため、この城は廃城となった。 この稲葉山城をめぐる最も興味深いエピソードといえば、龍興の代に家臣によるクーデターで短期間とはいえ乗っ取られてしまったことだ。実行者は竹中半兵衛。豊臣秀吉の軍師、「秀吉の両兵衛」の一方として名高い半兵衛だが、彼はもともと斎藤氏の家臣で、この事件を起こして主家を離れた後に、秀吉と出会うことになる。 1564年(…

榎本先生の最新刊「ナンバー2の日本史」について対談しました

…一)石田三成(十二)徳川家康 第五章 巨大官僚組織・江戸幕府の舵を取った幕閣江戸時代の始まり〈一〉本多正純と土井利勝〈二〉酒井忠勝〈三〉松平信綱〈四〉徳川光圀〈五〉保科正之〈六〉酒井忠清(七)堀田正俊(八)牧野成貞と柳沢吉保(九)間部詮房(十)新井白石門閥譜代も子飼いも活用した吉宗の政治センス(十一)水野忠之と松平乗邑(十二)大岡忠相(十三)大岡忠光(十四)田沼意次(十五)松平定信(十六)寛政の遺老と水野忠成(十七)水野忠邦(十八)阿部正弘(十九)堀田正睦(二十)井伊直弼(二…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく①――「力の差」に圧倒された城・小田原城

…る。姻戚関係にあった徳川家康の仲介があり、北条氏政・氏直父子のどちらかが上洛するという約束を取り付けたものの、同年北条氏が上野の名胡桃城を真田氏から奪ったという報せが入る。これは秀吉の定めた惣無事令を違反しているとして、ただちに諸大名に北条氏討伐のため出陣を命じた。 かくして1590年(天正18年)、秀吉の命を受けた西国や北陸の諸大名が出陣、いくつかのルートを経て関東にたどり着き、支城を落としながら小田原城に迫った。これに対して北条方は、主だった諸将らを小田原城に集め、また下…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】奮戦の舞台②――信玄と家康、虚虚実実の駆け引きが繰り広げられた城・浜松城

…年)、遠江に進出した徳川家康が、三河・遠江二ヶ国の支配拠点として、さらには甲斐の武田信玄と駿河の今川氏真(いまがわ うじざね)との戦いに備えるために築いたのが、三河の浜松城(静岡県浜松市)だとされる。この地に元は引馬城(ひくまじょう・ひきまじょう)という城があったが、これを奪った家康がその西に大規模な平城を築いたのが始まりだ。 浜松城に迫った最大の危機、それは1572年(元亀3年)の武田氏による侵攻だった。信玄は軍をいくつかに分けて遠江・三河を蹂躙した。そして信玄の本隊が浜松…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は⑨――徳川本隊を釘付けにした城――上田城(第二次上田合戦)

…した石田三成に対し、徳川家康は軍をいくつかに分けて中央へ進めた。諸大名は東海道を先発させ、自らは江戸に寄った後にゆっくりと進軍。そして、後継者と決めていた息子の秀忠には徳川氏の本隊ともいえる大軍を預け、中山道を西上させた。信濃方面の西軍派勢力を平定させたのちに、京に向かうのが秀忠の役目であった。 その前に立ちふさがったのが真田昌幸であり、上田城であった。昌幸は会津の上杉討伐軍には参加していたが、三成の挙兵後には離れ、西軍に加担する準備を始めていた。これに対し、秀忠はまず使者を…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は⑧――関ヶ原の戦い当日まで持ちこたえた城・大津城

…のだが、実は早くから徳川家康と通じていたらしい。最初は西軍に従う素振りだった高次だが、家康が会津に出陣するとこれに従い、その後も東軍に味方する動きを見せた。これを知った西軍は大津城を包囲して大砲などで攻撃し、激しい攻防戦が繰り広げられた。 戦いが始まってから数日後、西軍から開城を勧めるため使者が送られてきた。高次にはまだ抗戦する意思があったようなのだが、味方との連絡が取れないこともあり、すでに籠城は厳しくなっていた。周りからの説得を受け入れて高次は開城を決意し、数日間耐え忍ん…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は⑦――囮としての役割を果たした城・伏見城

…。 秀吉の死後は一時徳川家康が入ったものの、関ヶ原の戦いで焼失。一度は再建された(大坂城を包囲する城のひとつとしてだったようだ)が、豊臣氏が滅亡すると役割を失い、廃城となる。そしてこの伏見城こそは、関ヶ原の戦いの序盤の舞台となった場所である。家康が「五大老のひとり、上杉景勝が謀反を企んでいる」として出陣し、大坂を空けると、これを受けて石田三成が挙兵。細川藤孝の丹後田辺城に続き、徳川方の拠点として鳥居元忠が留守を守る伏見城を取り囲んだのである。 伏見城はかつて秀吉が築いた堅城で…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は③――落ちなかった支城・長谷堂城

…のことである。中央で徳川家康の率いる東軍と石田三成の率いる西軍がぶつかっていた頃、各地方でも諸大名が東西に分かれて争っていた。時の最上氏当主・義光は東軍につき、そのために西軍側の上杉氏の攻撃を受けることになったのである。上杉景勝の命を受けた側近・直江兼続は山形城を目指して突き進み、まず支城のひとつである畑谷城を抜いた。この際、畑谷城に入っていた江口五兵衛は撤退を命じる主君の命に反して城に籠もり、熾烈な籠城戦の末に玉砕している。そして、この次のターゲットになったのが長谷堂城であ…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑧――名将が命をかけて立て籠もった城・岩屋城

…国の毛利輝元・東海の徳川家康らを配下としていて、その野望はいよいよ九州にも向かおうとしていた。 天皇の権威をバックに「戦いをやめろ」と命令する秀吉に対し、大友氏は喜んで従い、島津氏はこれを無視した。かたや攻め滅ぼされる直前、かたやこのまま順調に行けば九州を統一できる段階であったから、当然といえる。ここにいたって、大友側の課題は「秀吉が動き出す前にどれだけの時間を稼げるか?」となった。島津氏から見れば、もちろんその逆。急いで先制攻撃を仕掛けなければならない。肥後から筑後、そして…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑦――外交交渉で裸にされた城・大坂城

…の戦いで天下の実権は徳川家康に移り、やがて豊臣氏と徳川氏(江戸幕府)の対立が加速。二度にわたる合戦の末に豊臣氏は滅び、大坂城もまた炎の中に消えた。戦後しばらくして、幕府が城の再建に着手する。幕府は大名たちに命じて工事に取り掛からせ、約10年の月日を費やして大坂城を完全に再建した。これは縄張も大きく異なり、かつ江戸時代風の自亜の城である。のちに幕末の動乱や太平洋戦争で崩壊したものが昭和に入ってから再建され、現在はコンクリート製の城がそびえ立っている。 それでは、どのように大坂城…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑤――勇ましくも美しき女武将の活躍した城・安濃津城

関ヶ原の戦いは徳川家康率いる東軍と石田三成が率いる西軍がぶつかった美濃関ヶ原における合戦が有名だが、実際には全国で東軍と西軍に分かれての戦いが巻き起こっており、数々の印象深いエピソードが残されている。もちろん、その中には多数の「籠城戦」が含まれているわけだが、特に面白いものとして伊勢安濃津城(三重県津市)の戦いを紹介したい。なにせ、この戦いでは華やかな女武者が見事な活躍を見せているのだから。 戦国時代の合戦で活躍したのは男性ばかりだと思われがちだが、戦いが女性たちの領域である…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ④――後詰決戦と野戦築城で守られた城・長篠城

…に、今川義元の死後に徳川家康が三河を統一するとほかの三河国人と同じように彼に従い、甲斐の武田氏が三河・遠江に侵攻して徳川氏の領地を一気に切り取る中でその軍門に下る。というようにその時その時の状況に合わせて有利な側につく、典型的な小豪族の立ち回りをしなければならなかったのだ。そのように苦労して立ち回ったものの、武田信玄の死後に奪われていた領国を奪回するために進出を繰り返していた家康の手から逃れることはついにできなかった。1573年(天正元年)に徳川の大軍が長篠城を取り囲んだのだ…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ②――徳川の大軍を押し返した城・上田城(第一次上田城の戦い)

…たので、当然のように徳川家康は領地の明け渡しを命令してきた。もしこのとき昌幸が素直にこの指示に従っていたら、その後真田氏は徳川家臣としてあまり波乱なく戦国時代を生き延び、江戸時代に入っていたかもしれない。しかし、そうはならなかった。 昌幸は「あくまで自分の力で得た領地であり、返還すべき理由はない」と独立大名としての衿持を見せた。理由のひとつには、徳川・北条間の交渉が成立したとしても、残る有力勢力である上杉氏がいて、これを頼ることで十分抵抗することができる、と判断したことがあっ…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】本城の場所は「四神相応」であるべき?

…政権が築かれた鎌倉、徳川家康が幕府を開いた江戸、さらには大名たちのほとんども自らの居城を「高山と低地と流水に囲まれた場所」という四神相応に準じる場所に築いている。これは一見、現実的でない神秘主義のように思えるかもしれない。しかし、それだけともいえない部分があるのも一面の事実だ。 川なり海なりといった水があれば人の移動にも、ものの流れにも便利だし(各地に軍団を派遣するのにも有利!)、道もそれに同じだ。背後に山を抱えていれば外敵の進路を制限できるし、詰の城を築くこともできる。長年…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】天守閣と高層石垣の近世城郭――「戦国の城」の終わり

…で天下の実権を握った徳川家康は、江戸城、名古屋城、二条城といった城々を、諸大名たちを動員する「お手伝い普請」「天下普請」によって石垣の城として築く。 またこの江戸時代初期には、全国の諸大名も本拠地の拡張・支城の建設に励み、ある種の築城ラッシュの時代が訪れる(ただし、東国では石材の確保が難しく、石垣の城は珍しかった、とも)。徳川家康と彼が作り上げた江戸幕府による支配が始まってはいたが、まだ大坂城には秀吉の遺児・秀頼がいた。一説には、この頃は江戸幕府と豊臣氏が共存して支配力を持つ…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の変化①経済・政治上の都合から?

…織田信長・豊臣秀吉・徳川家康ら三英傑の時代がやってくると、この事情も少なからず変化する。具体的には、防衛拠点としてポピュラーだった山城に代わって、平城や平山城が一般的になってくるのだ。この流れの延長線上に、私たちがよく知る「天守閣を持つ白亜の城」としての近世城郭がある。 どうして山城が姿を消し、平城や平山城ばかりになっていったのだろうか?そこには、いくつかの理由を見出すことができる。これらのうちどれが正解というよりも、様々な要素が絡み合って変化していった、と考えるべきだろう。…

【10大戦国大名の実力】最後に――「家を守る」ために

…た。ところが、勝茂が徳川家康の養女を継室に迎えたことで元茂は廃嫡されてしまい、その継室との間に生まれた四男の忠直(ただなお)が二代藩主の地位を約束されました。忠直は若くして病死してしまったが、結局その子の光茂が勝茂の跡を継ぐことになります。 もっと複雑なのは池田家のケースです。信長の乳兄弟として彼を支えた恒興、その子で豊臣政権で活躍したものの関ヶ原の戦いでは家康についた輝政の後、家督を継いだのは長男の利隆(としたか)でした。普通ならこれだけなのですが、なぜか弟の忠継(ただつぐ…

【10大戦国大名の実力】島津家③――島津四兄弟による九州統一戦

…が薄くなりがちだが、徳川家康は彼をかなり高く評価していたようだ。たとえば家康は耳川の戦いについて「恐ろしい大将だ」と褒め、また義久自身が「自分自身は大きな働きをしていない」と謙遜すると、「自分の働きでなく勝利を収めることこそ、源頼朝以来のまことの大将の道である」とさらに褒めたという。これに加えて島津家をしっかり後世に残した手腕も考えると、義久は相当の人物だったと考えるべきだろう。 次男・義弘は朝鮮出兵・関ヶ原の戦いで奮戦した猛将であり、小説やゲームなどで題材にされることも多い…

【10大戦国大名の実力】長宗我部家④――負のスパイラルを止められず

…ずに土佐へ戻った後に徳川家康に謝罪した。 ところが、ここで先述した後継者問題の影響が浮上してくる。元親の三男・津野親忠の存在が問題になったのだ。この以前、親忠は先の後継者問題で不満をもち、一度は京都へ脱出しようとしたことなどを咎められ、元親によって領地を没収されていた。しかし、関ヶ原の戦いで長宗我部家が危機に陥ると、親忠が家康派に強いコネをもっていたことが問題になった。「この機会に、土佐の一部もしくは全部が親忠に与えられてしまうかもしれない」と恐れた久武親直らが暴走し、親忠を…

【10大戦国大名の実力】毛利家⑤――元就の呪縛

…、毛利家存続のために徳川家康と内通した吉川広家(元春の三男、病死した兄に代わって吉川家を継承)の暗躍があったとされる。 戦後、輝元は「毛利の領国には手をつけない」という約束を信じ、速やかに大坂城を出て家康への恭順を示す。ところが、家康は「輝元が積極的に西軍側として活躍していた証拠が見つかったため、約束は無効である」として領国の没収およびうち周防・長門の二ヵ国を功労者である広家にあたえることを発表した。これに対して広家は自身に与えられた二ヵ国を輝元に返すよう家康に頼み、毛利家は…

【10大戦国大名の実力】斎藤家③――下剋上から滅亡まで

…秀吉の死後に相争って徳川家康が躍進する隙を作ってしまった。同じように、一から成り上がって主家を乗っ取った斎藤家には、地盤がなかった。だから不安定で、滅亡の原因になった。そういうことなのだろう。 実際のところ、一般のイメージと違って戦国大名には守護や守護代出身が多く、最低でも国人として代々の領地や家臣がいるのがほとんどだ。成り上がって大名になったのは斎藤家や豊臣家くらいで、彼らの勢力は長続きしなかった。このあたり、現代でいうと政治家に近いのかもしれない。政治をやるには三バン――…

【10大戦国大名の実力】織田家⑤――衰退する織田家

…父信長の同盟者だった徳川家康と組み、小牧・長久手の戦いを起こすも、秀吉の勢力に圧倒されて講和の道を選び、秀吉の支配下となる。その後、秀吉による国替えに反対したことを理由に追放され、以後は頭を剃って「常真(じょうしん)」を名乗り各地を転々とした末、秀吉の相伴衆(しょうばんしゅう)となる。 ところで、一度は織田家当主となった幼児、三法師はどうなったのだろうか。信孝の手から秀吉のもとへ取り戻された彼は、秀吉の保護下で成長し、その名を一字受けて「秀信」と名乗り、岐阜城主となる。豊臣政…

【10大戦国大名の実力】武田家⑤――武田家滅亡

…話も少しだけしよう。徳川家康はかつて信玄に敗れたことがあったが、それゆえにか彼のことを深く尊敬したという。そのため、武田家の崩壊後はその旧臣を多数吸収し、軍事制度も武田風に改めた。五男の信吉(のぶよし)に武田家を継がせて復興させようとさえしたが、この子は若くして病死してしまっている。 このような経緯により、武田家は滅亡したと考えるのが一般的だ。しかし、実はその後もいくつかの血筋が存続している。信玄の次男・海野信親(のぶちか。龍芳(りゅうほう))は半俗半僧の修行者だったが、彼の…

【10大戦国大名の実力】武田家③――クーデターにより家督を継承した信玄

…力を減じるとこの同盟を破り、新興勢力の徳川家康と手を結んで侵略し、駿河を手に入れる。また、これに加えて西上野・飛騨・東美濃といった地域も手に入れており、その勢力はさらに巨大なものとなっていった。 そして1572年(元亀3年)、将軍・足利義昭の要請に応えて、信長包囲網の重鎮として上洛のために出陣し、その途上の三河では徳川家康を三方ヶ原の戦いで一蹴してしまう。ところがここで体調が悪化し、信濃へ戻ったものの病状が回復することはないままに翌年、駒場の地でその生涯を終えることになった。

【10大戦国大名の実力】武田家①――名門の長所と短所は背中合わせ

…名の代表格といえば、徳川家康を破り、織田信長を追いつめた、甲斐の武田信玄の名が自然と挙がるのではないだろうか。 信玄に敗れた家康が彼を深く尊敬したことから、江戸時代においては偶像化・神格化が進み、その名将としての評判は現代にまで届いている。彼の配下には後世に「武田二十四将」の名で讃えられたような優れた武将たちがそろい、また戦国最強をうたわれた武田騎馬軍団の勇名も轟いている。だがその一方で、武田家には名門武家であるからこその弱みも存在した。 それは、「力の強い部下が多すぎた」と…

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