攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

前田 の検索結果:

攻城団テレビで南部氏の歴史について話をしました

…信愛が取次を担当した前田利家を訪問しています。余談ですが、このときに信愛が残した覚書(「北松斎手扣」「北松斎覚書」)に金沢城に天守が存在したことが書かれています。 一方、大浦為信は中央工作が遅れたものの、小田原攻めの際には信直より早く陣中に入って秀吉を説得、津軽の所領を安堵するという朱印状を受け取り、豊臣系大名としての立場を許されました。なお「なぜ戦国大名は名字を変えたのか」の回では1593年(文禄2年)に伏見城で秀吉と対面したときから津軽と名乗ったらしいと紹介しましたが、そ…

【家康の謎】家康は関ヶ原の戦いに出陣する前に江戸で誰にどんな手紙を出してるの?

…せた。家康としても、前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行を自分の味方と計算していたにもかかわらず、実際には「内府ちがひの条々」に彼らの名前があったため、大いに動揺したに違いない。 とはいえ、家康も負けてはいない。西軍挙兵の一報を受け取って戦いを決意した後の7月24日から、一度江戸城へ入り、そしていよいよ出陣する9月1日までの間に、122通を超える手紙を出したとされている。家康はこの無数の手紙によって味方の状況を把握し、敵を切り崩して、関ヶ原の戦いの勝利を掴み取ったのである。関…

石川県立歴史博物館で開催中の特別展「御殿の美」を取材してきました

…す。 金沢城は加賀藩前田家の居城であることは有名ですが、どんなお城だったかについては意外と知らない方も多いと思います。ぼくも今回までよく知らなかったのですが、もともとは多くのお城と同じように本丸に天守と御殿があったそうです。それが(これもあるあるですが)天守は落雷で焼失、またその後に本丸御殿も火災により焼失したため、3代・利常の代に二の丸を拡張して、メインの執政エリアとして二の丸御殿を新たに造営しました。 これが1631年(寛永8年) のことです。二条城二の丸御殿が後水尾天皇…

【家康の謎】家康はなぜ石田三成を匿った? 七将襲撃事件は事実なのか?

…そんな中、重鎮である前田利家が亡くなる。押さえを失った武断派諸将のうち七人が兵を率いて石田三成を襲撃するも、三成はあえて徳川家康の屋敷を訪れ、彼に庇護を依頼した。受諾した家康によって武断派七将は押さえ込まれ、一方で三成は謹慎処分となる。これによって家康の動きはさらに活発化した――というのが、いわゆる通説における「七将襲撃」の事件である。 ところで、近年ではこれらの一連の出来事について疑いをもつ意見が出てきているのをご存知であろうか。すなわち「七将による襲撃は根拠史料のない創作…

【家康の謎】家康はなぜ朝鮮出兵に参加しなかったの?

…は中止された。家康や前田利家らが涙ながらに中止を求めたからだという。二人がどうしてそこまでしなければいけなかったかといえば、朝鮮での戦況が芳しくなく、秀吉が赴けば危険だと思われたからだ。 こうして秀吉も自らの出陣を諦め、家康の出陣もセットで中止になった、というわけだ。なお、東国勢の中でも伊達政宗などは結局増援として朝鮮へ渡っているが、家康と利家は渡らなかった。そのため、二人には秀吉が何かしら無謀な行いをしようとした時にそれを押し留める役目が期待されたのかもしれない。 その後、…

【家康の謎】家康はなぜ五大老の筆頭に選ばれたの?

…てみると、徳川家康・前田利家(死後、嫡男の利長に交代)・宇喜多秀家・毛利輝元・小早川隆景(死後、上杉景勝に交代)となり、このうち前田利家は織田政権時代から生き延びた大名であり、宇喜多秀家は秀吉の中国攻めを支えた宇喜多直家の遺児で豊臣・前田とは縁戚関係にある。この二人は秀吉にとって身内カウントであると言っていいだろう。毛利輝元・小早川隆景・上杉景勝は織田政権にとっては本来敵対者であったが、秀吉が政権を掌握する過程において協力関係を結び、臣従することになった。 そして家康は秀吉に…

「守護代ってなに?」の動画を公開しました

…の人)。信長の死後は前田家臣となり、江戸時代になってもそのまま前田家重臣として仕えた。 能登の事情については「マンガでわかる七尾城」に詳しいのでぜひご一読ください。 kojodan.jp kojodan.jp 佐渡守護代 ・ごく短期間ながら、畠山氏が佐渡守護だったこともある。この時の守護代は本間(ほんま)氏。 ・本間氏はもともと相良の武士で、鎌倉時代に佐渡で地頭になり、やがて守護代になるが、当初は年に一度、佐渡へ訪れていた。その後、土着して佐渡の各地に家が分かれ、国衆化してい…

【家康の合戦】大坂の陣(冬の陣、夏の陣)豊臣を滅ぼした家康最後の大戦!

…年(慶長18年)に、前田利長が1614年(慶長19年)に相次いで亡くなり、豊臣に近い大名は福島正則が残るのみとなりました。 家康は将軍になると天下普請(公儀普請ともいう)によって各地に大城郭を築いていきました。二条城、越前福井城、美濃加納城、彦根城、江戸城、駿府城、丹波篠山城、名古屋城、丹波亀山城、伊賀上野城、越後高田城などを新たに築き、その他にも城の大改修を進めていきました。いわゆる豊臣包囲網です。 そんな折、1614年(慶長19年)にあの有名な事件が起こります。方広寺鐘銘…

【家康の合戦】関ヶ原の戦い 豊臣政権の内部抗争

…増田長盛・長束正家・前田玄以の三奉行によって「内府ちがひの条々」が出され、家康は豊臣公儀から排除されました。兵を動かす大義がなくなってしまった家康にとっては、ついてきた諸大名が離反する恐れもあり孤立した状態になってしまったのです。有名な「小山評定」はこのとき起こったとされるわけですが、あったか否かは研究者のみならず歴史ファンの間でも論争となっています。 尾張対陣から、岐阜城の戦い、そして関ヶ原の決戦地へ 東軍が勝利を収めた関ヶ原の戦い決戦地には石碑が建てられている 小山評定が…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…にしていく 閏3月、前田利家死去。家康の影響力が増大(元々は利家が大坂城で秀頼を補佐、家康は伏見城で政を行う役割分担) 石田三成に対する七将襲撃事件。近年は「訴訟事件」とも。三成は蟄居 9月、家康暗殺計画。首謀者は前田利長、共犯は浅野長政、大野治長、土方雄久らが疑われて失脚。家康は西の丸に入り、天守を築く 1600年(慶長5年)、59歳 前田利長は母・芳春院を人質として江戸へ 細川忠興(嫡男・忠隆の正室は利家の娘)も嫌疑をかけられ起請文を提出、翌年に三男(のちの忠利)を江戸へ…

室町幕府で三管四職をつとめた有力守護家はやっぱりすごかった

…躍したことから秀吉・前田利家に仕え、その子の氏置(うじおき)が徳川に仕えて旗本に。子孫が赤松を名乗り直し、旗本寄合になる。→赤松の庶流に摂津国の有馬氏がある。秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでは東軍について、江戸時代には筑後久留米藩に21万石を持った。有馬からさらに別れた流れが徳川忠長から紀伊藩の徳川頼宣へ仕え、有馬氏倫(うじのり)がその紀伊藩から出た吉宗の側近になって、譜代大名になった。 一色氏 ・一色氏は丹後を本拠地にしていた本流が細川忠興に滅ぼされた。庶流からは家康側近として活…

【戦国軍師入門】直江兼続――主家存続に生涯を捧げた文武兼備の智将

…の側近・石田三成や、前田利益(慶次郎)などの牢人衆とも親交があり、人付き合いの広い人物だった。 そんな彼は上杉家に仕えた樋口兼豊(ひぐち かねとよ)の子として誕生する。長じてからは景勝の側近として働き、この頃は樋口与六(よろく)と呼ばれていた。しかし、景勝の側近である直江信綱(なおえ のぶつな)が毛利秀広(もうり ひでひろ)という人物に殺害され、この時直江家には跡取りがいなかった。名門・直江家の断絶を惜しんだ景勝は兼続に跡を継がせることにし、直江兼続がここに誕生したのだ。 以…

【戦国軍師入門】島勝猛(左近)――不死伝説まで生まれた悲劇の名将

…秀吉の死とそれに続く前田利家の死は、再び戦乱の時代が迫っていることを示していた。豊臣政権の最大の敵を家康と見た勝猛は、何度も彼を暗殺するよう三成に提案したという。武断派との仲も悪い三成では、歴戦の名将である家康にはかなわないと判断したのだ。しかし、あくまで官僚であり、大義名分を掲げて戦えばいいと考えていた三成はこれを却下してしまう。 そうこうするうちに、今度は三成の命が危険にさらされる。加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、池田輝政、加藤嘉明(資料によっては蜂須賀家政)、浅…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく⑩――内部分裂で落ちた城・七尾城

…この城には織田家臣の前田利家が入る。そして、時代の趨勢が泰平に移る中で、山城の例に漏れず廃城となってしまった。 能登畠山氏が滅んだ最大の理由は、当主の発言力が失われて老臣たちが実権を握るようになったことだ。しかも彼らは織田信長派と上杉謙信派に分かれており、中でも専横が目立っていた信長派の長氏(ちょう し)は、他の重臣たちから反感を持たれていた。このような状態の七尾城を狙って、1578年(天正4年)に上杉謙信が越後より侵攻してくる。最初は能登畠山氏との同盟を持ちかけてきたのだが…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】奮戦の舞台①――女性が支えた城・末森城

…与えられた金沢城主・前田利家が、本能寺の変後に織田家臣団同士が相争うようになると、越中の佐々成政の侵攻に備えるためにこの城を築いたとされる(それ以前、能登畠山氏の時代からあったとも)。1584年(天正12年)、いよいよ成政が来襲する。これに立ち向かうことになったのが末森城とその城主・奥村永福(おくむら ながとみ)である。末森城を落とされると加賀・能登間の連絡が断たれるため、永福らは決死の戦いを挑むことになった。 この戦いの中で、活躍した女性がいた。永福の夫人である。名前は判明…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は⑤――独眼竜の攻撃に晒された城・二本松城

…二本松城の南方にある前田沢に陣を敷いた。連合軍の出陣を知った政宗は、伊達軍の半分を二本松城に残し、彼自身は連合軍のもとへ向かう。敵が布陣する前田沢の北に位置する本宮城に入った政宗だったが、兵力の差が大きかった。そこで、翌日の戦いでは常に劣勢のまま、守りに徹することを余儀なくされてしまった。このまま戦いが続けば、政宗はさらなる窮地へ追い込まれることになったろう。 ところが、後世に「人取り橋の戦い」と呼ばれるこの戦いは、ここで終わってしまう。連合軍が引き揚げていったからだ。原因と…

【10大戦国大名の実力】織田家②――尾張における下剋上と弾正忠織田家の台頭

…い人々(彼らの一部は前田利家など、かつて信長とつるんでいた連中だった)を味方に引き入れ、自身の軍勢として育成。その武力を背景に、清洲城の織田信友、岩倉城の織田信賢、そして二度の反逆を企んだ弟・信勝(一般には信行の名で知られる)といった敵対勢力を次々と倒していく。こうして信秀の死の7年後には、信長は尾張ほぼ一国をその手中に収めた。 その後の活躍についてはあまりにも有名すぎる。当時「最も天下に近い男」とうたわれた今川義元を桶狭間の戦いで破り、隣国美濃の斎藤家を滅ぼすと、松永久秀ら…

【10大戦国大名の実力】北条家⑤――小田原評定の行方

…西から、上杉・真田・前田らが北から、九鬼・長宗我部らが海から、と三方から総勢21万に及ぶ大軍が北条家を攻め立てる、史上まれに見る大規模な合戦であった。 この際の北条側の様子を示すものとして、「小田原評定」という言葉が残っている。北条側の諸将が集まって会議をしたがどうするか定まらず、時間ばかりが過ぎていって結局籠城に決まった――というわけで、のちに「なかなか結論の出ない会議」を示す言葉になった、というわけだ。ただ、これが本当のことであるかどうかは少々怪しい。実際の北条氏は婚姻関…

【10大戦国大名の実力】佐竹家③――優れたバランス感覚

…急行、自ら三成のいた前田利家の屋敷に赴いて、駕籠に乗せて脱出――と、三成を助けるべく活動している。家康という強大な敵と戦うにあたって、三成も毛利家・上杉家などと合わせて、大大名である佐竹家の力を頼んでいたことであろう。 しかし、その一方で佐竹家の領地は北関東であり、北条家滅亡後の関東一円を支配する徳川家と隣接している。秀吉死後の情勢が徳川有利に傾いていることとも重ね合わせて、表だって西軍に味方するのは危険すぎる、と考えても無理はない。そこで義宣が選んだのは、どちらに味方すると…

【画像73枚】名古屋城・西の丸御蔵城宝館の見学レポート

…いう点です。たとえば前田利常は「松平筑前守」、細川忠興は「羽柴越中守」、池田輝政は「羽柴三左衛門」と「名字+官職名」で書かれています。(上述のとおりじっさいに忠興は名古屋に来ていないのですが、あくまでも藩主の名が記載されるのでしょう) 秀吉や家康は上下関係を明らかにして、自らのファミリーに取り込むために「羽柴」や「松平」の名字を与えているのでこの絵図には大量の羽柴さんと松平さんがいます。かなり字が細かいので単眼鏡などを持参するといいと思います。 絵図の横の壁に実名と記載名の一…

【クーデターで読み解く日本史】西軍の有力者が裏切った本当の理由とは?――関ヶ原の戦い

…る五大老(徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝)と五奉行(石田三成、前田玄以、浅野長政、増田長盛、長束正家)に誓詞(せいし=誓約の書類)を提出させ、まだ幼少の息子・秀頼への忠誠を誓わせた。 ところが、秀吉が死ぬと早速、五大老の筆頭で豊臣政権における最大の大名であった徳川家康が独自の行動を始める。誓詞の中で禁止されていた大名間での婚約を進め、勢力拡大に努めたのだ。このルール違反に対して、ほかの五大老と五奉行は家康に追及を行ったが、この時は大事には至らなかった。秀頼…

【殿様の左遷栄転物語】将軍のブレーン・新井白石

…かけたのは、加賀国は前田家への出仕であった。前田家はいわずと知れた「加賀百万石」の大藩であり、また学問への傾倒が深い家でもあったから、これは学者としては垂涎の就職先であった。 ところが、これを聞きつけた同輩の中に加賀へ母を残している者がおり、白石に頭を下げて自分にその話を譲ってくれるよう頼んだ。白石はこれを快諾、その同輩は無事に前田家に仕えて、順庵は白石の心ばえを涙ながらに喜んだ、と伝わる。このことは白石の人間性を示すエピソードでもあるが、同時にある種の「強運」を感じさせるも…

【殿様の左遷栄転物語】計算かそれとも私怨の廃嫡か 細川忠隆

… 忠隆の妻は加賀国の前田利家の息女・千世である。まず、このことが問題だったと思われる――前田家は全国でも有数の大藩であり、また関ヶ原の戦い直前に家康から謀反の疑いをかけられ、人質を差し出して危機を切り抜けた、という経緯があった。この前田家とのつながりを持ち続けることは、細川家にとってよくない、と感じたのだろう。そのうえ、忠利は秀忠の養女(しかも実際には家康のひ孫に当たる)と結婚していて、ふたりの間には男子も生まれていた。前田家との関係を切り、徳川家との関係を近づける一挙両得の…

【殿様の左遷栄転物語】政争で潰された大名② 宇都宮藩本多家

…。だが、正信・正純親子の貢献に対する評価があったのか、本多家という名門を絶やさないためか、あるいはそもそもこれが陰謀によるものであったためか、正純の孫にあたる正之は旗本に取り立てられて、その血筋が幕末まで続いている。 また、正信の弟・正重によって継承された分家は、一時期、寄合旗本(ふつう無役で3千石以上。名門とされる)に落ちていたことがあるが、やがて大名に復帰し、明治維新まで存続した。正純の弟・政重は宇喜多・福島など諸家に仕え、最終的には前田家中の重臣として厚く遇されている。

【殿様の左遷栄転物語】米五郎左の息子 丹羽長重

…形で、隣接する加賀の前田利長が家康によって謀反を疑われた際には(実際には、反対派との対決を企図した家康がきっかけのためのスケープゴートとして前田家に目をつけたのだとされる)家康に味方して先鋒に立とうとした。ところが、その後、今度は会津の上杉家が標的となり、それを契機に関ヶ原の戦いが始まった際には出陣しなかったため家康の「敵」と見なされ、その後の戦いにおいて家康側についた前田家と争ったのである。 これについては、利長から「家康の味方をしよう」と呼びかけられて長重もこれに応えたも…

【殿様の左遷栄転物語】天下無敵の勇将 立花宗茂

…、この時期には加賀の前田利長から「10万石で仕えないか」と誘われたが断った、という逸話も残っている。関ヶ原後に他藩に仕えた大名が珍しくないのは前述したとおりだが、宗茂としてはあくまで独立大名として返り咲きたいという思いがあったのだろうか。 この浪人生活にピリオドが打たれたのは、1603年(慶長8年)あるいは1606年(慶長11年)に江戸へ出て、本多正信の手引きを受けて時の将軍・徳川秀忠に謁見したことからだった。まず5千石を受けて旗本の書院番頭となり、その後、陸奥棚倉に1万石(…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府12代・徳川家慶――幕政にかかわらなかった「そうせい」様 1793年~1853年

…の娘を妻に迎えていた前田犬千代丸を擁立しようと画策し、家斉正室に働きかけたものの失敗した、という。ただ、この話はあまりにも無理があるので、忠邦側のプロパガンダと思われる。 このような過去の清算を済ませた上で、忠邦が取り掛かったのが江戸時代三大革命最後となる「天保の改革」である。家慶は直接それらの政治に携わったわけではないが、父の死をきっかけに旧時代と決別する判断を下したことは評価されるべきだろう。また、家慶が忠邦に目をつけたきっかけとして「家臣たちが家慶に花を献上した際、忠邦…

【江戸時代のお家騒動】加賀騒動 30年以上にも及ぶ江戸三大お家騒動のひとつ

…舞台】加賀藩【藩主】前田吉徳、前田宗辰、前田重熙【主要人物】大槻朝元、前田直躬、青地礼幹、真如院 先代「ぜいたく大名」の財政危機を受けて立て直しに挑む 別名「大槻騒動」とも呼ばれるこの事件は、加賀藩前田家の家臣・大槻朝元(おおつきとももと)を中心に勃発したものだ。他のいくつかのお家騒動と同じように、この事件も脚色されて人形浄瑠璃や歌舞伎の演目となっている。その場合、大槻は加賀藩乗っ取りを企む奸臣として描かれることがほとんどだが、実際のところはどうだったのだろうか。 まず、大槻…

【江戸時代のお家騒動】酒井忠徳による財政改革 豪商・本間光丘の起用

…。彼の妻は加賀藩主・前田綱紀の養女で、金遣いが派手だったために雑用金が膨らみ、財政を圧迫させる要因となっていく。 その上、1739年(元文4年)には幕府から日光東照社の修理を命じられ、4万8千両の普請費用が財政をさらに圧迫した。そのため、藩士たちから禄と扶持を取り上げ、その代わりとして雑用金を支給するなどの異例の措置をとらなければならないほど、藩は困窮していたのである。さらに藩を苦しめたのは、多発する凶作だった。早魃、冷害、虫害などにより農民の生活は追い詰められ、年貢の支払い…

【お城の基礎講座】77. 一国一城令(いっこくいちじょうれい)

…ましょう。 加賀藩(前田家) 加賀国、能登国、越中国の三令制国で二城(金沢城、小松城) 鳥取藩(池田家) 因幡国、伯耆国の二令制国で三城(鳥取城、米子城、倉吉城) 福井藩(越前松平家) 越前国に三城、のち二城(北ノ庄城(のち福井城)、丸岡城(のち丸岡藩として独立)、越前府中城) 仙台藩(伊達家) 陸奥国に仙台城と家臣片倉氏の白石城の二城 高松藩(生駒家) 讃岐国の高松城を残してすべてを破却したと報告したが、丸亀城は破却せず樹木で覆い隠して立ち入りを厳しく制限していた。幕府にう…

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