攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

大坂の陣 の検索結果:

【殿様の左遷栄転物語】「したたかな男」藤堂高虎の息子 藤堂高吉

…に入った。 その後、大坂の陣での功績により伊勢国内に5万石を、2年後にはさらに5万石を加増され、合わせて32万4千石弱を領する大名となった。これはもともとの築城術の達者という側面もさることながら、機を見るに敏なその才覚に与えられたもの、と考えていいだろう。 翻弄され続けた高吉 この高虎の跡を継ぐものとして、1588年(天正16年)、丹羽長秀の3男・仙丸を迎え入れた。第1章で紹介した丹羽長重の弟にあたる。仙丸はもともとこの時期の高虎の主君である羽柴秀長の養子で、秀長は優秀な仙丸…

【殿様の左遷栄転物語】計算かそれとも私怨の廃嫡か 細川忠隆

…のほうは家を出奔し、大坂の陣において豊臣側について戦い、戦後に父の命で自刃している。 一方、長男の忠隆は本来嫡男であったのが、父・忠興によって廃嫡されてしまった、という経緯がある。なぜかといえば父の命令を無視して、妻を離縁しなかったからである。その背景に、こんな理由があったと考えられている。 忠隆の妻は加賀国の前田利家の息女・千世である。まず、このことが問題だったと思われる――前田家は全国でも有数の大藩であり、また関ヶ原の戦い直前に家康から謀反の疑いをかけられ、人質を差し出し…

【殿様の左遷栄転物語】返り咲きを期待して決断 柳生宗矩

…剣術の師匠)とされ、大坂の陣では秀忠の本陣を守って活躍した、ともいう。 一説には柳生家は近隣の伊賀の忍者たちと親しく、そこから密偵的な仕事をしたのではないか、ともいう。実際、宗矩はのちに「惣目付」という役職につけられているが、これは諸大名や旗本の様子をはじめとする天下のさまざまなことを監視し、報告することが役目で、まさに忍者・密偵的な仕事だ。茶道や華道などの各種教養を通じて大名たちの情報を集めたというのも、そのイメージを強めている。 そのようなところから、各種のフィクションで…

【殿様の左遷栄転物語】死後に仕掛けられた罠 加藤清正

…には、豊臣政権と近く大坂の陣においても豊臣家を援助しようとしたことのある美作派と、幕府体制下に順応していこうとする右馬允派との対立があったようだ。 この騒動については秀忠による裁定が行われた。結果、美作派は大坂の陣の際に大坂側に味方しようとする動きがあったことから、右馬允派の勝訴となった。美作派は流罪となり、加藤家の政権は右馬允派が掌握することになる。事件の遠因として、清正死後に家老たちの所領について幕府から介入があったことから不満が醸成されたという説があり、だとするならば外…

【殿様の左遷栄転物語】幕府に警戒され続けた男 福島正則

…ばず、幕府と豊臣家は大坂の陣で激突する。正則は一度目の大坂冬の陣において「江戸城留守居」を命じられ、実質的な人質になった。これは、豊臣恩顧大名の生き残りである正則を警戒し、戦場に登場させたくなかった幕府の思惑が働いたものと考えられる。 正則自身がこのことをどう思ったかはわからないが、豊臣家を救えないことに忸怩たるものを感じつつ、自らの家を守ることを優先したのではあるまいか。 福島家の命取りになった広島城 豊臣家は大坂城とともに滅んだが、豊臣恩顧大名である正則が幕府から危険視さ…

【殿様の左遷栄転物語】第2章 目指せ「お家再興」 失職したけど地位を回復

…東軍についた。また、大坂の陣において豊臣方に味方した大名はいなかった。それでもなお、幕府から見れば「危険要素」であったのだろう。そのような危険要素を排除するにあたって、何らかの理由(「武家諸法度」違反)をつけての改易処分というのは非常に都合がよかったはずだ。そのような幕府の魔の手から逃れるために諸藩は大いに気を使って、たとえばすでに決まっていた嫡子をわざわざ廃したりした また、改易されたのはそうした豊臣系の外様大名ばかりではない。むしろ徳川一族である親藩大名は「将軍の地位をめ…

【殿様の左遷栄転物語】第1章まとめ コネクションこそがカギ

…を残したり、あるいは大坂の陣という豊臣時代の最後を飾る戦いにおいて散った者たちも無数にいた。本章の主役たちと彼らの違いはいったいなんだったのか――簡単にまとめるのは難しいが、やはり「コネクション」だったのではないか、と私は思う。本章で紹介した再興の成功者たちは、もともと家康や秀忠、あるいは徳川家臣とのつながりがあったり、有力大名を後ろ盾に持っていたりして、そのコネを武器にして家名の復活にこぎつけているように見えるのである。 もちろん、彼らの武勇や智謀、戦功が評価された部分もあ…

【殿様の左遷栄転物語】波乱万丈の再興 木下勝俊と滝川雄利

…ての生き方を続けた。大坂の陣にも幕府方として参戦し、そこでの功績を認められてようやく父の領地である足守藩2万5千石を継承する。以後、木下家は足守藩主として明治維新まで続くこととなる。 3つの政権を渡り歩いた滝川雄利 織田・豊臣・徳川と3つの政権を渡り歩いた滝川雄利もまた、関ヶ原後に一度再興しながら結局所領を失ってしまった大名である。彼の場合は子どもの代になってから、ではあるが。 雄利はもともと伊勢国を支配した北畠家の一族である木造家の人で、主玄という僧侶であった。さて、織田信…

【殿様の左遷栄転物語】15年を経て再興 岩城貞隆

…家臣となる。彼の下で大坂の陣にも出陣し、その戦功によってついに1616年(元和2年)、信濃国は川中島に1万石の所領を与えられ、大名に戻ったのである。改易から15年の月日が経過していた。この再興については、当時の主君である本多正信の回添えがあったのかもしれないし、このころには和解していて資金援助などもしてくれたという兄・義宣も後押しをしてくれたのかもしれない。家康のブレーンとして活躍した僧侶・天海と縁があり、そこから働きかけてもらった、という説もある。 しかし、15年という月日…

【殿様の左遷栄転物語】米五郎左の息子 丹羽長重

…る。 その後の長重は大坂の陣で活躍し、陸奥国は棚倉5万石、さらに陸奥国白河10万石余ヘとたびたび加増・転封を受けた。こうして加増を受ける中で、長重はかつて離散した家臣団を呼び戻した、とされる。ちなみに、棚倉・白河両藩の藩主は丹羽家の後はずっと譜代・親藩大名しか入っていない。この点にも、丹羽家への(及び、丹羽の前に棚倉藩主だった立花家への)幕府の姿勢が見えてくる。 丹羽家は長重の子・光重の代に陸奥国二本松へと移され、この地で幕末の動乱を迎えている。幕末の二本松藩といえば戊辰戦争…

【殿様の左遷栄転物語】天下無敵の勇将 立花宗茂

…15年(元和元年)の大坂の陣――幕府と豊臣家の関係が悪化した結果、冬の陣、夏の陣と二度にわたって幕府勢が豊臣家の本拠地である大坂城を攻め立て、ついに滅ぼしてしまった一連の戦いである。この戦いにおいて、宗茂は二度とも幕府側として参戦している。具体的にどのような活躍をしたかははっきりしない。ただ、少なくとも夏の陣においては秀忠の旗本(この場合は大将を守る親衛隊程度の意味)として参戦し、あまり実戦にはかかわらなかったらしいことがわかっている。 この時期の宗茂についていくつかのエピソ…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府初代・徳川家康――戦国時代を終わらせた偉大なる将軍 1542年~1616年

…にわたって戦われた「大坂の陣」によって滅亡し、「元和偃武」の時代がやってくる。「偃武」とは武器を収めるの意味であり、長い戦国時代が終わったことを意味している。家康はそれを見届けたかのように翌年、亡くなる。「鯛の天ぷらを食べ過ぎたせい」という説が有名だが、実際には胃癌だったようだ。また彼には死後になって「東照大権現」の神号が与えられている。「東照宮」「東照神君」の尊称はこれに由来するものであり、家康は神になった、というわけだ。 移り変わる情勢に翻弄され、長い我慢を続けながら、乾…

【戦国時代の境界大名】奥平氏――家運が開いた運命的な活躍の場とは?

…のような局面が訪れることはないまま豊臣氏は大坂の陣で滅亡したものの、信昌が家康に信頼されていなければここに配されることはなかったであろう。 かくして、戦国乱世を次々と主替えをすることによって生き延びた奥平氏は、徳川将軍家の忠臣として江戸時代を迎えた。約250年の歴史においてはたびたび転封を経験し、宗家は中津藩奥平家として幕末、明治維新を迎えた。この中津藩は好学の気風が強く、出身者に『解体新書』の翻訳に関わった前野良沢や、慶応義塾を創設した福沢諭吉がいる。 kojodan.jp

【戦国時代の境界大名】水野氏――天下の趨勢を見極めながら動乱を生き抜き、譜代大名の中核に

…の後、関ヶ原の戦いや大坂の陣で活躍した勝成は、最終的に備後・備中で10万石を与えられるまでに出世を遂げた。数代後の子孫である勝岑が後継ぎを残さず死んだので危うく断絶するところであったが、江戸幕府の温情で一族から養子を迎え入れ、能登国羽咋郡西谷(石川県七尾市)1万石での存続を許された。その後、2度の加増を経て下総結城藩主(茨城県結城市)となり、1万8千石の大名として幕末まで続いている。 水野の一族はこれだけではない。まず大名家が合計で四家、他の有名どころとして御三家の一つ紀伊徳…

【江戸時代のお家騒動】牛方馬方騒動 豊臣恩顧の加藤家改易のきっかけとなる

…されたのは、美作守が大坂の陣で豊臣方に内通していたという嫌疑だった。密かに大坂城に援兵を送ろうとしたり、城内と連絡をとろうとしていたというのだ。この訴状の内容が将軍・秀忠の勘気にふれ、牛方は敗訴。加藤父子をはじめとする牛方の者らは、多くが流罪に処せられた。 しかし、藩主である忠広はこの事件に関して罪を問われなかった。それは忠広がまだ実質政治に関わっていなかったことに加え、彼の正室が秀忠の養女であったことも大きい。 その後、右馬允正方や棒庵らが忠広を支える形で政権の中心となって…

【お城の基礎講座】79. 江戸時代の築城

…続き行われています。大坂の陣で焼け落ちてしまった大坂城の再建工事や、二条城の拡張工事、江戸城の増築工事などです。 現在の大阪城の堀や縄張は江戸時代になってから徳川幕府によってつくられたものだ 外様大名(とざまだいみょう)による築城 今までのものは外様大名への備えのための幕府としての築城でした。しかし一方で、外様大名による築城もいくつかあったようです。例えば、丹羽長重が寛永4年(1627年)から白河小峰城(しらかわこみねじょう)を建てました。また慶安元年(1648年)には浅野長…

【お城の基礎講座】77. 一国一城令(いっこくいちじょうれい)

…秀忠です。この法令は大坂の陣(1615年5月)の直後に、幕府に対する反乱や大名同士の戦を封じる狙いがありました。ただし、一つの国を複数の大名が分割して治めている場合は、大名の数だけ城が認められていました。例えば、伊予国(愛媛県)には四人の大名がいたので今治城(いまばりじょう)、松山城(まつやまじょう)、大洲城(おおすじょう)、宇和島城(うわじまじょう)の4城が残されました。 廃城を免れ、いまでも現存している松山城(写真提供:愛媛県) 廃城を免れ、いまでも現存している宇和島城(…

戦国時代、最大規模の合戦は?

…臣家との争いである「大坂の陣」がありますね。 「大坂冬の陣」では徳川軍20万余騎、豊臣軍10万余騎とあり、両軍あわせて30万人。これが今回調べた中では最大規模の合戦ということになります。 半年後の「大坂夏の陣」では徳川軍20万余騎、豊臣軍5万余騎で、規模は小さくなっていますが、これはそのまま豊臣側の弱体化をあらわしているのでしょうね。 『大坂夏の陣図屏風』右隻(大阪城天守閣所蔵) 今回紹介した合戦を表にまとめるとこうなります。 合戦名 規模(両軍の合計) 桶狭間の戦い 2万7…

【江戸時代のお家騒動】里見騒動ーー大久保長安事件のとばっちりと見せしめの改易

…年)の9月――あの「大坂の陣」の直前である。幕府は来る戦いに備えて諸大名らに改めて忠誠を誓わせるため、忠義の改易を通して「脅し」をかけたのだとされているのだ。実際、忠義の改易の後に50人の上方の諸大名が、秀忠に忠誠を誓う起請文を提出しているという。実は忠隣が処分を食らった後にも、幕府の重臣らに対して同じことが行われており、幕府が重臣や諸大名の統制という政治的な意味を込めて、「見せしめ」の処罰を加えたのではないかと捉えることができるのだ。 忠臣たちは『南総里見八犬伝』のモデルと…

3.江戸幕府における譜代大名の役割

…たのだ。 その後、「大坂の陣」によって豊臣家が滅亡すると、幕府は畿内を譜代大名で一気に固める。1617年(元和3年)には、姫路に42万石の勢力を持っていた池田家を鳥取へと移し、本多忠政を配置している。さらに、周辺の明石や龍野も本多家と姻戚関係にある譜代大名で固めた。実際、姫路は西国の押さえとして最重要視されていた。代替わりなどで藩主が幼少になってしまった場合、その家を転封して本多家、奥平家、結城家、榊原家、酒井家といった有力かつ武断派の譜代大名を配置したほどである。 1619…

3.戦国大名から外様大名へ

…らに別の例を見ると、大坂の陣で活躍した真田幸村(信繁)の兄・信之を初代とする真田家(松代藩)は徳川家との縁の深さからか譜代として扱われ、養子に入った幸貫(松平定信の子)などは老中も務めている。また、豊臣恩顧の大名として関ヶ原の戦いでは西軍につきながら東軍に寝返った中のひとりである脇坂安治(伊予大洲藩→信濃飯田藩)などは、譜代の堀田家より養子を迎えてからは譜代となり、老中も何人か輩出した。 親藩譜代外様という関係性が必ずしも固定のものではなく、その中でも将軍との親密さで動きがあ…

『捨て童子・松平忠輝』――鬼っ子は賢者か愚者か

…と呼ばれた。ところが大坂の陣での振る舞いを問題視されて幽閉状態に追い込まれてしまい、92歳で死ぬまでそのままであったという。 隆慶一郎はこの人物の生涯と逸話に目をつけた。彼の目に映る松平忠輝は「鬼っ子」であった。人間離れした、鬼としか思えぬ絶大なエネルギーを生まれつき持った存在が、よりにもよって天下人の子として生まれたなら、当然周囲との間に確執も生まれるし、時には命を狙われるようなこともある。それは不幸なのか、それとも幸福なのか……。絶大な能力と独自のポリシーを持つ個性的なキ…

『吉原御免状』『かくれ里苦界行』――隆慶一郎の原液

…ヶ原で天下人となり、大坂の陣で豊臣家を滅ぼして、天下に並ぶものなき覇者となった徳川家と、江戸幕府。しかしその覇者をして恐怖せしめ、また天下万民に知られれば徳川を滅びの道を辿らせることになるであろう、その秘密とは、一体――!? 『吉原御免状』および『かくれ里苦界行』は隆慶一郎の小説家デビュー作およびその続編だ。一作目はすでに紹介した通り神君家康の残した御免状を巡る暗闘を、二作目はその戦いで因縁ができた裏柳生との熾烈な戦いをそれぞれ主題とする。デビュー作にはしばしばその作家のエッ…

南山王の居城・南山グスクと、沖縄最南端の具志川グスクを取材してきました

…最後の戦いは、まるで大坂の陣 1423年に南山は滅びますが、この最後の戦いはかなり激しいものだったそうです。尚巴志に滅ぼされた武寧王(旧中山勢力)の人たちや北山の人たちも南山グスクに集まって、尚巴志へのリベンジを果たそうとしていたようですが、まるで「大坂の陣」の際に全国の浪人が大坂城に集まってきたみたいですね。 郷土史によれば、南山軍の勢いは中山軍を押し返すほどで、尚巴志の右腕だった弟もこの戦いで討死しています。 「南山グスクは遺構も石垣くらいで、見学できるエリアも限定的なの…

若武者・木村重成の討ち死に

…国時代の最後を飾った大坂の陣である。1度目の大坂冬の陣の際、若干20歳とも23歳であったともいう若武者の重成であったが、後藤基次(又兵衛)とともに戦功を上げ、また和平交渉の使者となって徳川秀忠の前に現れ、堂々とした振る舞いを見せた、という。 和平が破れ、大坂夏の陣が勃発すると、重成も再び出陣することになる。 しかし、天下無双の大坂城に篭もることができた先の戦いと違い、幕府方の謀略によって城の濠を埋められてしまったこの戦いでは、豊臣方は積極的に打って出るしかない。結果、多くの犠…

大坂の陣、真田幸村の三段突撃

…国時代最後の戦い、「大坂の陣」で名を上げたのはなんといっても真田幸村(信繁)であろう。豊臣秀吉に重用された謀将・真田昌幸の次男である彼は、「関ヶ原の戦い」で父とともに徳川秀忠の軍勢を翻弄したことから、戦後は九度山に幽閉されていた。それが幕府と豊臣家の関係が険悪化すると脱出、浪人として大坂城に身を寄せ、「大坂の陣」に参加することになったのである。 まず幸村は「大坂冬の陣」で大活躍して見せた。大坂城の弱点ともされる南側に「真田丸」と呼ばれる出城を築き、幕府方の大軍を見事に防いで見…

【戦国合戦こぼれ話】桶狭間の戦い―勢いを活かした織田信長

…介した関ヶ原の戦いと大坂の陣において、徳川家康は入念な準備と事前工作によって勝利をつかんだ。しかし、若き家康が今川家臣として参加した桶狭間の戦いは別の展開を見せた。今川義元の大軍を、織田信長の勢いを利した用兵が打ち破ったのだ。 『尾州桶狭間合戦』(歌川豊宣) 駿府・遠江・三河の三国を支配する義元が、2万(兵数はすべて諸説あり)という未曾有の大軍を率いて隣国・尾張に侵攻したのは1560年(永禄3年)のことである。一般には「上洛を目指して」の出陣であったとされているが、近年の研究…

【戦国合戦こぼれ話】大坂の陣―浪人衆の意地

…る。これを総称して「大坂の陣」とし、一度目を「大坂冬の陣」、二度目を「大坂夏の陣」と呼ぶ。 「大坂夏の陣図屏風・右隻」(大阪城天守閣所蔵) 家康は今回も、入念な準備をもってこの戦いに挑んだ。関ヶ原の戦いから15年弱の歳月のなかで幕府による諸大名の支配は進行しており、彼らは誰ひとりとして豊臣家に味方しようとしなかった。 それでも堅固な大坂城と、戦慣れした浪人衆を擁する豊臣方が強いと見るや、家康は新たな工作に取り掛かった。和睦交渉を利用して城を取り囲む堀を埋め立て、防御設備を多く…

【戦国を彩る名軍師たち】いくさを取り仕切ることができなかった真田幸村

…臣方について二度の「大坂の陣」に参加した。 最初の戦いである「大坂冬の陣」において、幸村は大坂城に「真田丸」と呼ばれる特設の砦を作ると、ここに攻めかかる幕府軍に大きな損害を与えた。だが、彼はあくまで「臨時で味方になっている浪人」という扱いであり、豊臣家全体に意見を反映できるような立場ではなかった。そのような状況では兵の数における圧倒的な劣勢を覆すことはできなかったのである。 結局、冬の陣は和睦という形で終わり、その際に大坂城は堀を壊されてその防御力を失ってしまった。間も無く始…

【戦国武将の御朱印集め】織田信長を祀る建勲神社の御朱印をいただいてきました(京都)

…がって改易となり、「大坂の陣」後に大名として復帰するなど、波乱万丈の人生を送っていますが、織田の血脈をこうしてつないだことは評価されるべきでしょうね。 船岡山城として攻城も 冒頭に書いたとおり、いちおうここも城址です。山頂西側には少しだけ広場があるのですが、ここからは京都タワーまで眺望できるので、「応仁の乱」のときは木もなかったでしょうからかなり見晴らしが良かったんでしょうね。 下の写真の左端に京都タワーが見えているのがわかりますか。 散歩ついでにけっこう夕方に出かけたのです…

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