攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

明智光秀 の検索結果:

【現在1764城!】全国の御城印(お城版の御朱印)を販売しているお城の一覧

… 勝龍寺城 御城印 明智光秀最期の城版 勝龍寺城(京都府長岡京市) 勝竜寺城公園管理棟、神足ふれあい町家、長岡京市観光情報センター、長岡京市観光案内所、長岡京@Navi 300円 印刷 A6 2022年6月11日 長岡城 御城印 二の丸跡版 長岡城(新潟県長岡市) NPO法人ながおか未来創造ネットワーク、河井継之助記念館 300円 印刷 A6 2022年6月8日 長岡城 御城印 本丸跡版 長岡城(新潟県長岡市) 長岡駅観光案内所、河井継之助記念館 300円 印刷 A6 202…

【家康の謎】家康はなぜ伊賀越えしたのか、他のルートはなかったのか?

織田信長は本能寺で明智光秀の軍勢に襲われ、自害した。本能寺の変である。以後、織田家中は主君の仇討ちと実質的後継者の座をめぐる大混乱に巻き込まれていくことになるわけだが、同時期に人生最大のピンチに追い込まれていた人物がいた。誰あろう、徳川家康である。この時の家康のピンチは、後世「三大危機」として三河一向一揆と三方ヶ原の戦いと並べられることになった。 本能寺の変が起きた時、家康は堺にいた。安土城の信長に挨拶をした後、上方を見物していたのである。わずかな供(34人とされるが、大名の…

【家康の謎】本能寺の変での家康黒幕説ってどんな説?

…、重臣のひとりである明智光秀に討たれてしまう大事件だが、なぜこうなったのか理解し難いところがある。 信長が英雄とみなされるのに対して、光秀はその素性もよくわからない人物であり、英雄を討つのには(あえて言えば)格が低い。そこで「光秀を操っていた黒幕がいるのではないか」という考え方が数多く唱えられてきた。例えば「朝廷黒幕説」「足利義昭黒幕説」などは、光秀と縁の深い勢力が陰謀を企んで信長を排除させたのだ、という考え方だ。突拍子もないところでは「イエズス会黒幕説」などというものもある…

細川玉子さんによる「福知山お城まつり」レポート

…おりました。 父上、明智光秀が祭られた御霊神社は、1918年(大正7年)に、現在の場所へ移転されたそうです。元々は、現在の福知山市商工会館付近にあったとされる、大榎の下の稲荷神社に、父上の霊が合祀されたことが起源となっているとのこと。榎神社は、その旧御霊神社の神木・大榎の跡地に建立された社です。そしてなんと、榎神社の玉垣は住民の方が手作りされたそうです! 福知山の町中でも明智光秀の息吹が感じられ、愛されていることがよく分かりますね😊 その後、我々は、13:45頃~御霊公園舞殿…

細川玉子さんによる京都御城印サミット開催レポート(2日目)

…です。その後、父上、明智光秀の丹波攻略が開始。1575年(天正3年)に八木城は落城し、父上の手で城の改修が行われましたが、本能寺の変の後に、廃城となったといわれております。 内藤氏と申しますと、キリシタン大名としても知られている、内藤如安(ジョアン)様の一族です。父の宗勝様が八木城主として奮戦なされておりましたが、戦場にて討死なされたそうです。ジョアン様の消息は、キリシタンでもあった為、明らかではないそうですが、イエズス会の古文書ではジョアン様を「城主」とも「武将」ともとれる…

細川玉子さんによる京都御城印サミット開催レポート(初日)

…は、25日(土)は、明智光秀、明智光慶、松井康之、小笠原少斎、わたくし細川玉子の五名。 そして、26日(日)は、明智光秀、細川藤孝、細川忠興、明智光慶、松井康之、わたくし細川玉子の六名にて、出陣させていただきました! 此度の開催にいたるまで、主催である森の京都DMO様や、攻城団のこうの団長や、川勝様、本当にご準備など大変だったかと思います。どれだけの方がお越しくださるのか、そもそも来てくださるのか等、不安に思われていたかと思います。さらに、開催日であった25日、26日はお天気…

細川玉子さんによる「京田辺伊賀越えスタンプラリー」参加レポート

…皆様もぜひ、スタンプラリーにご参加いただき、京田辺に存在している徳川家康様の歴史にふれていただきたいです。 news.kojodan.jp 此度もお読み下さり、本当にありがとうございました。細川玉子でした! 京都・長岡京おもてなし武将隊つつじ 京都府長岡京市の公式武将隊として活動。勝龍寺城を中心に、明智光秀、ガラシャ姫、細川忠興らの武将や姫が、殺陣(たて)や詩吟、舞を織り交ぜた演武や甲冑劇を行い、長岡京市の歴史・皆様も是非、京田辺市にて神君伊賀越えを体感してみてくださいませ。

知ってる? 水野勝成

…向守といえば裏切り者明智光秀。皆から避けられていた官位にも関わらず、勝成は喜んで日向守を名乗った。以後はその勇猛さから「鬼日向」という仇名で呼ばれることに。 その10. 最高責任者でも一番乗りしたい!! 大坂夏の陣は軍の最高責任者として、息子とともに参加。勝成の性格を知る家康からは「もう責任者なんだから、一番乗りとかそういうのやめろよ」と釘を刺されるも、それを壮大な前振りだととった勝成は、やっぱり自ら先陣に立ち、大坂城に一番乗りを果たしてしまう。このとき敵方に鬼日向の異名が知…

【家康の合戦】小牧・長久手の戦い 家康・人生のターニングポイント

…す。織田信長・信忠が明智光秀により討たれました。中国方面で毛利軍と戦っていた羽柴秀吉はその報せを受けるとすぐさま引き返し、山崎の戦いで光秀を討ち果たします。その後、清須会議で織田家の今後について話し合いが持たれたものの、秀吉と柴田勝家が敵対し、賤ケ岳の戦い、つづく北ノ庄城の戦いで柴田勝家が自害。勝家と共謀した信長三男の信孝も自害しました。こののち、織田家旧領のうち信長の次男・織田信雄が尾張・伊賀・伊勢の三か国を領有し、美濃は池田一族に与えられ大垣城に池田恒興、岐阜城に息子の元…

【サイン本プレゼントあり】「ぶらり徳川家康ゆかりの城跡+忍びめぐり」のご紹介

…跡めぐり』、『ぶらり明智光秀の城&史跡めぐり』に続く、城跡を中心に史跡を楽しむ歴史ガイドブック。 徳川家康は運ではなく、情報(忍者)を持っていたから天下を取れた。まるで現代の情報化社会を先にいっていたような話だが、家康の「城」と「忍び」を通して、家康の実像が見えてくる。本書は、徳川家康に関連した城や忍びの各地スポットや史跡の情報ガイドブック。 NHK大河ドラマ「どうする家康」時代考証・忍者考証陣による「城」と「忍者」特別コラム・小和田哲男「徳川家康がはじめて石垣を積んだのは浜…

細川玉子さんによる神君伊賀越えの紹介

…。勝龍寺城を中心に、明智光秀、ガラシャ姫、細川忠興らの武将や姫が、殺陣(たて)や詩吟、舞を織り交ぜた演武や甲冑劇を行い、長岡京市の歴史・魅力を発信しております。また、福知山市や舞鶴市、亀岡市、京田辺市などの京都府をはじめ、岐阜県、滋賀県、福井県、愛知県、兵庫県などの歴史イベントも盛り上げ、明智家や細川家ゆかりの市町との架け橋となる活動も行っております。 Twitter Facebook 京都と家康様のゆかりの地といえば、二条城などが有名かと思いますが、今回ご紹介させていただき…

歴史ゲーム「太閤立志伝V DX」について榎本先生と語り合いました

…ます)。 織田信長や明智光秀は「本能寺の変」のイベントを起こさないと札がもらえないとか、人物ごとに取得難易度もちがっていたりしていろいろと奥深いです。(なおこのふたりは「本能寺の変」直前のシナリオではじめればけっこう簡単に取れます) 榎本先生は180時間も遊んでるそうで、それだけでもいかにおもしろいゲームかということがよくわかります。もっとも気になる点がないわけじゃなく、たとえば「天下布武」の解釈が古いとか(これは2004年のゲームなのでしょうがないかな)、現在はほぼ否定され…

【戦国軍師入門】島勝猛(左近)――不死伝説まで生まれた悲劇の名将

…ある。信長軍団の中で明智光秀の下にいた順慶は、1582年(天正10年)に光秀が信長に反旗を翻して「本能寺の乱」を起こし、秀吉と決戦した際にも近くに布陣していた。ところが筒井軍は動かず、日和見を通した。ここまでは史実だが、実はこの日和見は光秀が負けると見た左近の策だった、という話があるのだ。もし本当だとすると、のちの歴史を考えるに彼の状況を見る目は正しかったといえる。 また、この時代の彼についてはひとつ面白い説がある。実は勝猛は一時期武田信玄の臣下・山県昌景(やまがた まさかげ…

【戦国軍師入門】黒田官兵衛――有能ゆえに疎まれた不遇の名軍師

…陣に駆け込んだ急使は明智光秀の謀反と織田信長の死……「本能寺の変」を告げる。秀吉はこの報告に激しく驚き、ただ泣くことしかできない。しかし、ここで冷静に進言した者がいる。誰あろう、官兵衛だった。 彼は「今こそ天下取りの好機ではないか」と秀吉に告げた。その言葉に我に返った秀吉はすぐに毛利家との講和の手はずを取り、のちに「中国大返し」と呼ばれる神速の速度をもって帰還する。その後の歴史の流れを見るに、まさにこの瞬間こそが織田家家臣の秀吉ではない、天下人・豊臣秀吉の出発だったといえよう…

【戦国軍師入門】秀吉の四国征伐――官兵衛の策略でスピード勝利

信長の仇である明智光秀を討って以来、秀吉の快進撃は続いた。まず「賤ヶ岳の戦い」において旧織田家臣団で一番の実力者だった柴田勝家をやぶり、信長の後継者の地位を確実なものとする。また「小牧・長久手の戦い」では徳川家康相手に苦戦しつつも、その後に家康が旗印としていた織田信雄を懐柔して相手を押さえ込み、さらに朝廷に近づいて関自の座を得る。こうして着々と天下統一の道を進む豊臣秀吉は、ちょうどその頃土佐(現在の高知)の長宗我部元親がほぼ統一したばかりの四国に矛先を向けるのだった。 長宗我…

榎本先生の最新刊「ナンバー2の日本史」について対談しました

…バー2はいたか(十)明智光秀(十一)石田三成(十二)徳川家康 第五章 巨大官僚組織・江戸幕府の舵を取った幕閣江戸時代の始まり〈一〉本多正純と土井利勝〈二〉酒井忠勝〈三〉松平信綱〈四〉徳川光圀〈五〉保科正之〈六〉酒井忠清(七)堀田正俊(八)牧野成貞と柳沢吉保(九)間部詮房(十)新井白石門閥譜代も子飼いも活用した吉宗の政治センス(十一)水野忠之と松平乗邑(十二)大岡忠相(十三)大岡忠光(十四)田沼意次(十五)松平定信(十六)寛政の遺老と水野忠成(十七)水野忠邦(十八)阿部正弘(十…

【サイン本プレゼントあり】「ナンバー2の日本史」のご紹介

…藤原道長、北条義時、明智光秀というのもいいですよね。どの人物も一癖も二癖もあるし、彼らは(光秀はさておき)「実質トップ」と呼べるような存在でしたから。 まだぼくも読めていないのですが、今回はこの「ナンバー2の日本史」を株式会社エムディエヌコーポレーションさんより5冊プレゼントとしてご提供いただきました!(しかも榎本先生のサイン入りです!)応募は簡単にできますので、みなさんふるってご応募ください。 最後にこの書籍の編集を担当された松森さんと著者の榎本先生からメッセージをいただい…

【10大戦国大名の実力】島津家③――島津四兄弟による九州統一戦

…央に赴いて織田信長・明智光秀らと交流をもったというエピソードもある。 さて、状況が目まぐるしく変わっていく動乱の時代において、彼らのようにリーダー以外にも優秀なサブリーダーが三人もいることがどれだけ有利なことかはいうまでもないだろう。特に今のように電話もインターネットもない時代のこと、当主の意思を支配領域の隅々まで浸透させようとしても無理がある。そんなときに、「当主の弟」という誰もが一歩譲らざるを得ない権限によって、「あれはああしろ」「これはこうしろ」と命じられる人物がいれば…

【10大戦国大名の実力】長宗我部家③――九死に一生を得るものの

…の妻の兄・斎藤利三が明智光秀の重臣であったことから、このルートを使って元親は信長に接近。信長に嫡男の烏帽子親を務めてもらい、さらに「信」の一字をもらって信親と命名するなど、深い関係を築いていた。 その一方で信長側の元親に対する評価はけっして高いものではなかったようだ。いわく、「鳥なき島の蝙蝠(こうもり)」――強い鳥がいないからこそ蝙蝠が威張っていられるのだという意味の「鳥なき里の蝙蝠」という言葉にひっかけて、長宗我部家自体の力はたいしたものではなく、四国という有力な大名もいな…

【10大戦国大名の実力】毛利家④――元就の死後

…央へ帰還。信長の仇・明智光秀を倒し、織田家中をまとめて、自身の天下取りへ向けて動き出した。この際、秀吉軍との和睦が成立した直後に「信長死す」の一報を受けた毛利軍内部では、和睦を破って攻撃するか否かで意見が対立したとされる。元春は断固攻撃を主張し、隆景は和睦を守ることを主張した。もしも毛利軍が動いていれば、中央の混乱はなお長く続き、それがついには毛利家の天下取りに結びついていた可能性も十分にありうる。しかし、輝元が元春の積極策に首を縦に振ることはついになかった。 以後、毛利家は…

【10大戦国大名の実力】斎藤家①――下克上の行く末

…、その生き残りである明智光秀は紆余曲折を経た末に織田信長に仕えて活躍し、しかし最後には信長を攻め滅ぼしてしまう。この際、光秀が「時は今 雨が下しる 五月哉」と歌を詠み、「時」と「土岐」をかけたという話が有名だが、これは別の話だ。 「道三伝説は二人分」説 話を戻そう。失うものがないゆえに従来のモラルを無視して積極的に行動し、名前を変えるたびに身分を上げ、ついには一国を盗み取ってしまった彼の行いは、動乱と下克上の戦国時代を象徴する存在とさえいわれる。――ところが、近年発見された史…

【10大戦国大名の実力】織田家⑥――天下人の資質とセルフプロデュース

…て本能寺の変で重臣・明智光秀に殺された。確かに、信長は何度も裏切られているように見える。 ところがじつは彼、家督継承すぐの時期を除き、譜代の家臣にはあまり裏切られていない男なのである。裏切った大名は皆織田家の勢力拡大後に従ったものばかりで、信長は裏切った者たちをすべて倒し、状況を安定化させている。光秀(彼も外様である)のケースだけが例外だったわけだ。 これを実現させたのは、信長が持つ恐怖のイメージだったのではないだろうか。織田家臣は等しく信長を畏怖していた。それはそうだ、裏切…

【10大戦国大名の実力】織田家②――尾張における下剋上と弾正忠織田家の台頭

…り、隣国美濃の斎藤家を滅ぼすと、松永久秀らにより京を追われた足利義昭を奉じて上洛。その義昭と対立して、「信長包囲網」と通称される諸大名の連合軍に周囲を包囲される危機に陥るも、各個撃破によってこれを打倒。近畿を中心に強大な勢力を築き上げると各地に遠征軍を派遣し、天下統一まであと一歩と迫ったところで重臣中の重臣だった明智光秀の謀反により、京の本能寺で倒れた。享年49歳、桶狭間の戦いで出陣する前に信長が歌い舞ったことで有名な「敦盛」の「人間(生)五十年」まで、あと1年での死だった。

日本史における「変」と「乱」について対談しました

…中の織田信長を家臣・明智光秀が謀反を起こして襲撃・殺害した事件 戦国時代 1582年(天正10年) 天正壬午の乱 本能寺の変後に武田遺領をめぐって起きた騒乱。北条氏と徳川氏が和睦して氏直と督姫が結婚 戦国時代 1591年(天正19年) 九戸政実の乱 南部氏一族の有力者である九戸政実が、南部家当主の南部信直(なんぶ のぶなお)および奥州仕置を行う豊臣政権に対して起こした反乱。この乱が鎮圧されたことで秀吉の天下統一が完成 戦国時代 1599年(慶長4年) 庄内の乱 島津氏とその重…

榎本先生の最新刊「執権義時に消された13人」について対談しました

…るし、ふたりが同日に明智光秀に討たれてしまったため、この成功例を見落としがちですが、のちの大御所政治のモデルケースと言えるかもしれません。(そして三法師への移譲は未着手だったので「本能寺の変」後に混乱が起きたのも当然です) そして将軍とは世襲するものである、というのは少なくとも鎌倉時代では「否」でした。ぼくらはついつい江戸幕府の将軍をイメージしがちですが、武家政権におけるトップ=将軍職ができたばかりの頃は制度として確立しておらず、試行錯誤だったため、必ずしも嫡子嫡流である必要…

【クーデターで読み解く日本史】覇王の夢を打ち砕いた三日天下の野望――本能寺の変

…年(天正10年) ○明智光秀 ×織田信長 戦国時代、日本各地で戦国大名同士の争いや内紛、クーデターが巻き起こされたが、そのほとんどは局地的なものに過ぎなかった。彼らの多くはまず自分たちの勢力を守り、あわよくばそれを拡大しようと考えていたのであって、天下取りなどというのは夢物語の話だったのである。 そして、戦国時代も後期に入った頃に織田信長が登場する。元は尾張守護代・織田氏の庶流に過ぎない彼は、駿河の大大名・今川義元(いまがわ よしもと)を倒したことを皮切りに勢力を拡大して上洛…

「全国入城者数ランキング」についての補足動画をアップしました

…かったと思いますが、明智光秀ゆかりの城として特番などでたびたび紹介されたのが大きかったのだと思います。一乗谷城(復原町並=福井県福井市)のほうは「ブラタモリ」の効果と考えてまちがいないでしょう。調べたところ、初回放送が2019年2月2日、アンコール放送が2019年6月20日でした。 無料で入城できるお城も含めた総合ランキングでは、例年通り江戸城(=皇居東御苑の入園者数)が入っています。動画でも取り上げたように玖島城の大村公園は意外でしたが、2018年の数字が461,767人だ…

【殿様の左遷栄転物語】計算かそれとも私怨の廃嫡か 細川忠隆

…・忠興は本能寺の変で明智光秀が信長を倒した際には、明智光秀の娘・ガラシャ(玉)を妻としていたにもかかわらず光秀につかず、光秀を倒した秀吉の味方となった人物である。豊臣政権下においては丹後国宮津に12万石、そして豊後国に6万石の18万石を有した。関ヶ原の戦いでは東軍につき、豊前一国と豊後の一部、あわせて40万石弱を与えられている。 廃嫡に隠された2つの理由 さて、その忠興の跡を継いだのは三男の忠利であった。長男の忠隆と次男の興秋は順番を飛ばされてしまったことになる。この2人はみ…

明智光秀と榎本秋――あるいは麒麟は来たのか(「麒麟がくる」と過ごした一年を振り返り)

…省はさておき、ぼくは明智光秀という武将は過小評価されている、と以前から思っていました。 これまでも織田信長や豊臣秀吉が大河ドラマの主人公になるたびに、光秀は「いい感じのヤラレ役」として登場してきましたが、曲がりなりにも信長を打ち倒した唯一の戦国武将である光秀が凡将なはずはなく、直前まで織田家臣団の中でも筆頭と呼べる地位にあった彼がなにを目指してクーデターを起こしたのか、また有能なはずの光秀がなぜ事件後にあれだけドタバタして、のちに「三日天下」と呼ばれるような短期間で討ち取られ…

明智光秀と森蘭丸――あるいは本能寺の変という終わり

…た宇佐山城は、のちに明智光秀に与えられている。 その遺児はそれぞれ信長の配下として活躍した。例えば次男の森長可は織田信忠配下で1582年(天正10年)の武田攻めに参加して奮闘しており、この時まだ若いながら戦後に小さくない領土を与えられている。蘭丸は信長の小姓についただけでなく武田滅亡後に岩村城を預けられているし、奉行を務めるなどして大いに働いた。また、二人の弟に当たる坊丸・力丸も小姓となっている。 もし、織田政権が信長の時代から信忠へ受け継がれ、重臣たちも柴田勝家や羽柴秀吉、…

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