本能寺の変 の検索結果:
…と言ってよかろう。 本能寺の変で信長が死ぬと、家康は空白地になった中部へ進出。甲斐・信濃も含めた五カ国、120万石を自らの領地として手中に収める。信長時代の末期には織田政権傘下の大名と化していた徳川だが、信長死後のこの時期には再び独立大名として天下人にもなりうる存在になっていた。しかし秀吉との対立を経て臣従し、豊臣政権における東国の押さえとして重んじられるようになる。北条氏滅亡後の関東八カ国250万石(うち10万石は結城秀康のもの)へ移ったのがそのような豊臣政権内での立場によ…
…において、フロイスは本能寺の変が起きた時の騒ぎとして、明智軍の兵士たちはどうして自分たちが出陣しなければいけないのかを理解しておらず、ついに「信長は家康を殺すつもりで明智に命令を出したのではないか」と結論した、と書いている。 この記述そのものも非常に興味深く、「どうする家康」のストーリー展開のヒントになった部分は大きいと思われるが、大事なのはその記述の一部だ。フロイスはこの文章の中で家康のことを「信長の義弟である三河の国主」と書いているのである。この時代の三河国主が家康のこと…
…るのが蓋然性が高い。本能寺の変翌日の6/3は雨が降っていたので移動距離が稼げなかったのではないか。 といったお話も伺うことができました。 収録前に少し山田先生とお話させていただいたのですが、先生が攻城団をご存知で見てくださってるのがうれしかったです。誠実なお人柄で、お話も上手なのでまだまだ質問したかったのですが、今回は時間が足りなくて聞けなかったことがいっぱいあります。 いま三重大学では文系理系の垣根をこえて、忍者をさまざまな角度から研究されています。その成果がまとまった本が…
…に襲われ、自害した。本能寺の変である。以後、織田家中は主君の仇討ちと実質的後継者の座をめぐる大混乱に巻き込まれていくことになるわけだが、同時期に人生最大のピンチに追い込まれていた人物がいた。誰あろう、徳川家康である。この時の家康のピンチは、後世「三大危機」として三河一向一揆と三方ヶ原の戦いと並べられることになった。 本能寺の変が起きた時、家康は堺にいた。安土城の信長に挨拶をした後、上方を見物していたのである。わずかな供(34人とされるが、大名の正式な行動だから数千人の兵を引き…
本能寺の変――それは日本史上最大のミステリーのひとつ、と言っていいだろう。天下取りまで後一歩と迫っていた織田信長が、ある日突然、重臣のひとりである明智光秀に討たれてしまう大事件だが、なぜこうなったのか理解し難いところがある。 信長が英雄とみなされるのに対して、光秀はその素性もよくわからない人物であり、英雄を討つのには(あえて言えば)格が低い。そこで「光秀を操っていた黒幕がいるのではないか」という考え方が数多く唱えられてきた。例えば「朝廷黒幕説」「足利義昭黒幕説」などは、光秀と…
…われます。 さらに、本能寺の変の際の記録において、「彼はただちに信長の居城と館を占拠し、最高所に登り、 信長が財宝を入れていた蔵と広間を開放すると、大いに気前よく仕事に着手し、 まず彼の兵士たちに、ほとんど労することなく入手した金銀を分配した。」とありますが、この記録から、「最高所すなわち天主に存在する蔵は財宝保管庫であった」と判明するように、天主の装飾だけではなく用途まで明らかになる記録が残っているのは貴重です。(なお、金銀などの財宝が天主に保管されたというのは豊臣大坂城天…
…天正10年)に起きた本能寺の変の際、織田信長の弟である織田長益(のちの有楽斎)は信長の嫡男・信忠と行動をともにしていましたが、信忠は自害した一方で、長益は生き延びています。この史実自体は広く知られていますし、またこのエピソードから長益を「逃げた男」とネガティブな印象で語られることも多いですよね。でもそれは正しい評価なんだろうか、というのが本展のポイントのひとつです。 というのもこの特別展が開催されるきっかけが正伝永源院のご住職・真神さんたちの有楽斎の名誉回復を願ってのことだか…
…修が行われましたが、本能寺の変の後に、廃城となったといわれております。 内藤氏と申しますと、キリシタン大名としても知られている、内藤如安(ジョアン)様の一族です。父の宗勝様が八木城主として奮戦なされておりましたが、戦場にて討死なされたそうです。ジョアン様の消息は、キリシタンでもあった為、明らかではないそうですが、イエズス会の古文書ではジョアン様を「城主」とも「武将」ともとれる、様々な表現をしているとのこと。ジョアン様は“八木城の最後の城主”だとも伝わっているそうです。 八木町…
…丹波 分国支配から「本能寺の変」へ』(サンライズ出版)など、多くの著書を執筆されておられます。また、福島館長には我々も大変良くしていただいており、著書を頂戴したこともございます。今回は、山崎城跡について、ご講演いただきました。 父上、明智光秀と羽柴秀吉様が戦った「山崎の合戦」。その際に、羽柴軍が山崎城に陣取ったため優勢となったというお話は、お聞きになられたことがあるかと思います。 また山崎城は、山崎の戦いの後、大坂城を築城されるまで、秀吉様が本拠地とされており、別名「天王山宝…
…たとされる梅雪様は、本能寺の変の知らせを受けると、家康様と別行動を取ります。二組に分かれ、一行の殿(しんがり)を務めたそうです。一日遅れで、家康様と同じ道筋で帰城しようとされていたところ、お亡くなりになられたそうです。 ですが、この穴山梅雪様は謎の多い武将としても知られております。謎と言われる理由は、そのお亡くなり方にございます。 草内(くさうち)で一揆に巻き込まれ、亡くなったとされる説。家康様を疑い、自身の身の危険を感じ、別行動を取ったところを、落ち武者狩りにあい落命された…
織田信長・信忠が本能寺の変で討たれた後、情勢が大きく変化します。そして、それが加速して大きな流れの中で勃発したのが小牧・長久手の戦いです。家康と秀吉による最初で最後の激突、天下人同士の一戦などと称されることがありますが、実態はやや違っています。しかしながら、家康にとっての大きな大きなターニングポイントとして後世語られることにもなった戦い。どうしてこの戦いが起こったのか、そしてその後どのように情勢が変わっていったのかを見ていきましょう。 織田家の危機が生んだ戦い 小牧・長久手の…
…)6月2日に起きた「本能寺の変」――わたくしの父上、明智光秀が主君である織田信長様をお討ちになられた、知らない方はいないであろう、歴史的大事件です。 本能寺の変と家康様にどういった関係が? と思われる方もいらっしゃるかもしれません。実はそこには、武田家との戦が関係しております。 1575年(天正3年)の、長篠の戦いで武田軍に勝利した、織田・徳川連合軍。武田家に仕えていた穴山梅雪様も武田家を離反され、織田徳川の連合軍につきます。内応する条件として、人質の逃亡と甲斐一国の拝領、さ…
…束の間、3か月後には本能寺の変で信長が倒れ、信長家臣団の中から羽柴秀吉が台頭してくることになります。家康は織田軍が攻め進めていた甲斐・信濃を攻めて奪い取り(天正壬午の乱)、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五カ国を領有する大名となります。織田家は信長の次男・信雄が尾張・伊賀・伊勢を、池田恒興と息子がそれぞれ大垣城・岐阜城に入って美濃を治め、恒興の娘婿である森長可が美濃金山城に入って東美濃を平定しました。このように情勢が刻一刻と変わっていく中で、羽柴秀吉と織田信雄の関係が悪化してい…
…うとしていたところ、本能寺の変について茶屋四郎次郎から聞く 家康は当初、そのまま上洛して知恩院で追腹(殉死)することを考えたが家臣に説得された 三河に戻るために伊賀越え 別行動を取った穴山梅雪は落武者狩りにあって討たれる 伊賀越えする? 6/5、岡崎城へ帰着 6/14、弔い合戦のために出陣(山﨑の合戦は6/13) 6/19、秀吉から山﨑の合戦の勝利と帰陣の要請があり、津島から軍を返して6/21に浜松城へ 天正壬午の乱 家康は甲斐・信濃へ軍勢を送って平定を進める 若神子城に着陣…
…信雄との同盟のもと、本能寺の変後に織田家臣団の中で一気にトップに躍り出た羽柴秀吉と激突したのが「小牧・長久手の戦い」です。この戦いでは、犬山城を奪い取った秀吉方が南方へ押し出して三河付近まで攻め込みました(犬山城の戦い、岩崎城の戦い、長久手の戦いなど)。浜松城から岡崎城を経由して小牧山城に陣を張っていた家康はなんとか秀吉方を押さえることに成功しましたが、勝ちきるところまではいかず終戦となりました。その後、万が一、秀吉が襲来した場合を想定して守りを固めることが必要となったのです…
…。それだけではなく、本能寺の変による織田信長の死を受けて、織田家臣団の所領となっていた旧武田領を一気に平定して5か国領有するなど飛躍となるころでもありました。 五か国領有へ(三河・遠江・駿河・甲斐・信濃) 先にも述べた通り、武田の滅亡により織田家臣団が武田領である甲斐・信濃を押さえるための作戦行動を行っている最中に、日本全土を揺るがす大事件「本能寺の変」が起こりました。織田家臣団は旧武田領から逃げるようにして自国へ引き上げていきましたが、その後に甲斐・信濃を取り込んでいったの…
…巡らせるのが特徴で、本能寺の変以後に武田家臣団を取り込んでからは馬出(うまだし)を巧みに利用しています。「岡崎城絵図」(〔日本古城絵図〕 東海道之部(2). 42 三州岡崎城図(国立国会図書館デジタルコレクション))をみると本丸の西側にある白山郭に馬出がありますが、元康が馬出を使い始めたのは浜松城時代以降のため、残念ながら家康が作ったものではなさそうです。先にも述べた通り元康在城時の城の遺構はほとんど残っていませんが、城の周りの複数の川が作り出す地形と低湿地帯を利用した中世の…
…極高次は信長に仕え、本能寺の変では明智に味方したので秀吉の怒りを買ったが、秀吉の側室になった妹の縁で許され、浅井三姉妹のうち一人と結婚し、豊臣政権で厚遇された。 まとめ 改めて「三管四職」とは何か。「ナンバー2の日本史」を書いていた時にも思っていたが、少なくとも中世くらいまで、役職そのものに大きな意味はなかったのではないか。「管領や頭人(所司)を務められるくらい強い家」であることに意味があったのであって、役職そのものにはさほどの意味はなかったように思える。役職についているから…
…田信長や明智光秀は「本能寺の変」のイベントを起こさないと札がもらえないとか、人物ごとに取得難易度もちがっていたりしていろいろと奥深いです。(なおこのふたりは「本能寺の変」直前のシナリオではじめればけっこう簡単に取れます) 榎本先生は180時間も遊んでるそうで、それだけでもいかにおもしろいゲームかということがよくわかります。もっとも気になる点がないわけじゃなく、たとえば「天下布武」の解釈が古いとか(これは2004年のゲームなのでしょうがないかな)、現在はほぼ否定されている「三本…
…年(天正10年)の「本能寺の変」の直前であったともいう。短くて7年、最も長く考えると20年という月日を彼は放浪の中に過ごしたわけだ。これはかなり異色の経歴である。 こうした経歴ながら家康は正信を深く信頼し、様々なことを彼に相談して決めていったという。正信もまたその信頼に応え、内政面や外交面などで様々な提案をしていくのだ。その活躍ぶりたるや、家康が秀吉死後から幕府の成立までに仕掛けた陰謀・謀略の多くが、正信の提案によるものだったと言われているくらいである。 「関ヶ原の戦い」の際…
…と織田信長の死……「本能寺の変」を告げる。秀吉はこの報告に激しく驚き、ただ泣くことしかできない。しかし、ここで冷静に進言した者がいる。誰あろう、官兵衛だった。 彼は「今こそ天下取りの好機ではないか」と秀吉に告げた。その言葉に我に返った秀吉はすぐに毛利家との講和の手はずを取り、のちに「中国大返し」と呼ばれる神速の速度をもって帰還する。その後の歴史の流れを見るに、まさにこの瞬間こそが織田家家臣の秀吉ではない、天下人・豊臣秀吉の出発だったといえよう。 もちろん官兵衛は毛利家との講和…
…に築かれたらしい。 本能寺の変による織田信長の死後、勝家は羽柴(豊臣)秀吉との後継者争いを演じることになった。信長の妹を娶ることになったのも、その延長線上のことである。両者とその支持者による争いが激しくなる中、1583年(天正11年)に「賤ヶ岳の戦い」が起こる。この戦いに敗れてしまった勝家は北ノ庄城に引き返したが、そこに追撃の秀吉軍が迫る。北ノ庄城側に援軍のあてはなく、敵から本格的な攻撃が始められ、城に火を放たれると、勝家は自刃を決意。彼はお市の方に逃げるように言うが、彼女は…
…方の武将が入ったが、本能寺の変後の混乱を経て徳川氏が手中に収めた。江戸時代には譜代大名が入ったため、城主(藩主)はたびたび変わっている。 武田氏を攻め滅ぼしたのは信長の嫡男・信忠の率いる軍勢であった。しかし、武田方にとって大きな問題になったのは、重臣たちの度重なる裏切りである。もともと織田方が武田攻めに踏み切ったのは信濃の木曽氏が内応したからだ。さらに、美濃方面から攻めて来る信忠に備えて高速城の北方に位置する諏訪に出陣していた武田氏当主・武田勝頼が甲斐に戻ったのは、遠江方面の…
…かし信長・信忠ともに本能寺の変で死に、信長の孫・織田秀信(おだ ひでのぶ)の代に関ヶ原の戦いの前哨戦で落城。徳川家康の娘婿にあたる奥平信昌(おくだいら のぶまさ)が領主となったものの、彼が居城として別の新しい城(加納城)を築いたため、この城は廃城となった。 この稲葉山城をめぐる最も興味深いエピソードといえば、龍興の代に家臣によるクーデターで短期間とはいえ乗っ取られてしまったことだ。実行者は竹中半兵衛。豊臣秀吉の軍師、「秀吉の両兵衛」の一方として名高い半兵衛だが、彼はもともと斎…
…沢城主・前田利家が、本能寺の変後に織田家臣団同士が相争うようになると、越中の佐々成政の侵攻に備えるためにこの城を築いたとされる(それ以前、能登畠山氏の時代からあったとも)。1584年(天正12年)、いよいよ成政が来襲する。これに立ち向かうことになったのが末森城とその城主・奥村永福(おくむら ながとみ)である。末森城を落とされると加賀・能登間の連絡が断たれるため、永福らは決死の戦いを挑むことになった。 この戦いの中で、活躍した女性がいた。永福の夫人である。名前は判明していないが…
…天正10年)、信長は本能寺の変で倒れ、それからあまり時をおかずして安土城も炎上してしまった。信長の息子・信雄が謀反人と戦っている中でうっかり火がついてしまった、いいや信雄は自ら天主に火をかけたのだ、実のところ謀反側がやったのだ、などと諸説あるが、はっきりしない。 間違いないのは、信長が築き上げた世紀の名城がもはや存在せず、その後の歴史にもまったくかかわることがなかった、ということである。信長の死後に織田氏がまったく存在感を発揮せず、歴史の本流に消えてしまったことと奇妙に符合す…
…時期、武田氏の滅亡に本能寺の変での織田信長の死と大事件が頻発し、中部地方は実質的な空白地帯となってしまったからだ。結果、上杉氏・北条氏・徳川氏の三勢力がこの地域に手を伸ばしてくる。これに対し、昌幸は丁々発止のやり取りを繰り広げながら自らの領地を守り、それどころか隙あらば拡張する離れ業を見せた。 それだけ目立てば、やはり危機に陥ることも増えるというもの。1585年(天正13年)、徳川・北条間の交渉で「信濃は徳川、上野は北条」と支配権に対する同意がなされると、真田氏が上野に得てい…
…天正10年)、信長が本能寺の変によって殺害され、四国遠征も白紙撤回されたからだ。奇しくもこの謀反を実行したのは、長宗我部氏と縁の深い光秀であった。結果として元親は危機を脱し、再び四国統一に向かってまい進することになる。 宿敵・十河存保との決戦になったのは、本能寺の変と同年に行われた中富川の戦いである。元親はこの戦いで三好勢に壊滅的な打撃を与え、一気に阿波・讃岐へ侵入。粘る敵に対して両国ともに最後の一城は残した形であったが、実質的に制圧することに成功する。また、伊予に対しても同…
…2年(天正10年)、本能寺の変にて織田信長死す。この報を受けた秀吉は急遠毛利家と和睦をまとめ、急ぎ中央へ帰還。信長の仇・明智光秀を倒し、織田家中をまとめて、自身の天下取りへ向けて動き出した。この際、秀吉軍との和睦が成立した直後に「信長死す」の一報を受けた毛利軍内部では、和睦を破って攻撃するか否かで意見が対立したとされる。元春は断固攻撃を主張し、隆景は和睦を守ることを主張した。もしも毛利軍が動いていれば、中央の混乱はなお長く続き、それがついには毛利家の天下取りに結びついていた可…
…反旗を翻した。そして本能寺の変で重臣・明智光秀に殺された。確かに、信長は何度も裏切られているように見える。 ところがじつは彼、家督継承すぐの時期を除き、譜代の家臣にはあまり裏切られていない男なのである。裏切った大名は皆織田家の勢力拡大後に従ったものばかりで、信長は裏切った者たちをすべて倒し、状況を安定化させている。光秀(彼も外様である)のケースだけが例外だったわけだ。 これを実現させたのは、信長が持つ恐怖のイメージだったのではないだろうか。織田家臣は等しく信長を畏怖していた。…