攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

松平家 の検索結果:

【現在1766城!】全国の御城印(お城版の御朱印)を販売しているお城の一覧

…田城 御城印 大河内松平家(桜色版) 吉田城(愛知県豊橋市) 吉田城鉄櫓 500円 印刷 2021年3月28日 真武根陣屋 御城印 真武根陣屋(千葉県木更津市) 木更津市観光案内所 300円 印刷 2021年3月27日 佐貫城 御城印 道の駅 季楽里あさひ 300円 印刷 2021年3月27日 佐久良城 御城印 佐久良城(滋賀県日野町) 近江日野商人ふるさと館 300円 印刷 2021年3月26日 厩橋城(前橋城) 御城印 通常印 前橋城(群馬県前橋市) 前橋物産振興協会(ヴ…

攻城団テレビで相撲の歴史について話をしました

…姫路藩酒井家、出雲藩松平家、鳥取藩池田家、阿波藩蜂須賀家、高松藩松平家、久留米藩有馬家、熊本藩細川家などがあります。 またこれらの藩がずっと力士のパトロンになっていたかというとそうでもなくて、あくまでも藩主のパーソナリティというか、相撲好きかどうかで決まったようです。戦乱もなく、江戸詰が基本の江戸大名にとって、趣味や道楽は暇つぶしの観点でも重要になりますが、その対象として茶道や華道と同じように相撲もあったのかもしれません。 なお今回このテーマを取り上げたのは、団員のたまさんか…

諏訪原城~武田・徳川が奪い合った数奇な山城~

…ります。また、家臣・松平家忠(まつだいら いえただ)を中心に、複数回にわたり城内各所に改修工事を施し、牧野城を強化しました。平成21年~27年度にかけて行われた諏訪原城跡の発掘調査では、現在諏訪原城跡にて確認できる堀などの遺構は、ほとんど家康が新たに作らせたものであることが判明しました。家康が「丸馬出」をはじめとする武田流築城術を用いて、牧野城として強化したことは、諏訪原城に戦略的価値を見出していた何よりの証拠であると言えます。 さらに家康は、1576年(天正4年)に今川氏真…

【家康の謎・番外編】十八松平と十四松平、あるいは徳川家康のルーツとは

…る安城(あんじょう)松平家や、本貫の地に残った松平郷(まつだいらごう)松平家、実は松平宗家であった岩津(いわつ)松平家は数えない。そう、実は安城松平家は宗家ではなかったのである。では、どのようにして安城松平家が宗家となり、家康の出現につながっていったのか? その流れを見てみよう。 初代親氏、二代泰親、三代信光 徳川(松平)のルーツは、源義家の孫・新田義重(にった よししげ)の四男・義季(よしすえ)だという。彼が上野国新田荘世良田郷徳川村に腰を落ち着け、「得川四郎(とくがわ し…

福井城へ重ね捺し御城印スタンプラリーの取材に行ってきました

…うのです)福井藩主・松平家の別邸にふさわしい、雰囲気のある池泉式庭園でした。調べると「回遊式林泉庭園」というのが正しいそうです。今度来るときはここでゆっくりしたいと思いました。 collection.kojodan.jp 福井城址(県庁) ふたたび県庁へ戻ります。街なかを陣羽織で歩き回るのは正直恥ずかしいのですが、この日はお祭りということもあり、いつもよりは怪訝な目で見られることは少なかったように思います。 日本100名城のスタンプと同様、週末は守衛室に置いてあります。 守衛…

【家康の謎】大高城の兵糧入れってそんなに大変だったの?

…あるという。 家康と松平家臣団の活躍はまだ続く。もうひとつの任務として与えられていた丸根砦を落とすことについても成功し、さらに鷲津砦攻撃へも参加する八面六臂の働きぶりだった。この武勲と身を挺しての貢献が、家康の命を救うことになる。家康は義元に命じられて大高城へ入り、兵を休ませることになったのだ。この時、戦いは今川方有利で展開しており、もう大高城は前線ではなくなっていた。結果、家康は戦いの中心地から離れたまま、義元の死を聞くことになり、己の新しい運命と向き合うことになったのだっ…

【家康の謎】家康はなぜ今川家でそんなに優遇されたの?

…にいたわけではないことがわかっていただけるのではないか。 では、どうして義元は家康を厚遇したのか。これについて「義元はもともと松平氏の三河支配体制を解体して独自の体制を作るつもりだったが、うまくいかないので従来の体制を利用することにしたのではないか」という説との関係が見出せそうだ。全くの新規体制を作るなら家康はいらないが、従来の体制を利用するなら家康と松平家臣団の関係性を利用した方が効率いい。つまり家康は三河支配のために必要だったからこそ厚遇されたのではないか、というわけだ。

【家康の謎】家康のお母さんはどんな人だったの?

…、その妹で形原城主・松平家広(まつだいら いえひろ)に嫁いでいた於上の方(於丈の方))を松平から引き戻してしまうのである。織田・今川の対立が激化したことも背景にあったようだ。当然、家康はわずか3歳で母親から引き離されることになった。なお『松平記』という史料によると、於大の方を水野氏のもとへ返すにあたっては広忠の家臣が付き従ったが、彼女は「ついてきたら兄に打ち殺される。それではのちに竹千代(家康)に恨まれる」と途中で彼らを帰して家康とその家臣のことを思いやった、という。 結婚・…

【家康の謎】家康のお父さんはどんな人だったの?

徳川家康の父は松平家の当主・松平広忠である。ただ、彼の生涯について語るにあたっては、その父(つまり家康の祖父)・清康について語らないわけにはいかない。清康の行動とその死が広忠の人生に与えた影響は非常に大きいからだ。清康はもともと三河の安城城を拠点にしていたが、同族の岡崎松平氏を攻めて岡崎城を奪い、ここを拠点とした。以来、合戦を繰り返して勢力を拡大し、もともとの西三河だけでなく東三河、さらには尾張にまで進出。織田信秀(信長の父)とも戦っている。 ところが、清康はその戦いの中で突…

【家康の合戦】桶狭間の戦い 家康の大きな転機となった戦い!

…と名乗っていました。松平家は今川家の家臣として尾張と接する西三河を領有していましたが、元康は今川家を支える武将候補として大いに期待されていたのです。桶狭間の戦いのとき元康は19歳で、尾張へ進軍する今川軍の先鋒として三河勢を率いていました。そして、大事な任務を帯びていたのです。それが「大高城兵糧入れ」です。1560年(永禄3年)5月18日夜、元康が1000人の兵を率いて織田方に包囲されていた今川方の拠点・大高城に兵糧を搬入した任務のことです。 ここで、桶狭間の戦い前夜の情勢を整…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…の年表 プロローグ)松平家の歴史=家康誕生前後 松平氏は家康の祖父・清康の時代に飛躍、安城から岡崎へ しかし清康が阿部弥七郎に殺される(守山崩れ)と衰退 →背景には織田家内の争いに松平一族も巻き込まれたか 広忠は桜井松平信定に三河から追放され、今川氏を頼って帰還を果たす 水野信元が織田信秀についたので、今川への忠義を示すために於大の方と離縁→離縁の理由は別の説もあるが、いずれにせよ政略結婚その後、広忠は田原城の戸田康光(初名は宗光で松平清康の偏諱を受ける)の娘を娶る 今川義元…

【家康の城】駿府城 家康初となる石垣づくりの近世城郭!

…ています。なぜなら、松平家忠は天正15年9月17日に「駿河の御城御普請がある」と連絡があり、天正16年5月12日には「天守の材木手伝い普請」を行い、天正17年2月17日には「小天守の手伝い普請」を担当しているためです(いずれも「家忠日記」より)。このような記録や発掘調査の結果から今よりも小規模であったことは明らかですが、家康初期の駿府城の姿を見ることはできません。さらなる発掘調査や研究の結果によって家康築城期の駿府城の姿が明らかになることを期待しましょう。 最先端技術の駿府城…

【クーデターで読み解く日本史】寵臣の末路はいつの時代も同じ――田沼意次の追い落とし

…ながら、意次の画策で松平家に養子に出されて将軍になる資格を失っていた)や、家治の次に将軍となった徳川家斉(とくがわ いえなり)の父・治済(はるさだ)らは後ろ盾を失った彼をここぞとばかりに攻撃した。家治の死をめぐる事情から「意次が毒殺したのでは」と噂が立ったのも、意次にとってはマイナス材料だったろう。 結局、意次は老中辞任で終わるところを懲戒処分で辞めさせられることになり、かつ5万7千石の所領のうち4万7千石を没収され、謹慎処分となってしまった。田沼時代は完全に終焉を迎えたので…

【殿様の左遷栄転物語】田沼時代の終焉

…あり、意次らによって松平家の養子に出された、という過去もあった。下級武士出身の意次に対しては「あれさえなければ将軍になれたかもしれない」という個人的な恨みと、その急激な出世に対する妬みなども含まれていたものと思われる。 すなわち、どこにでもある「革新」と「保守」の対立の末として、田沼時代の終焉と意次の失脚はあった、と考えていいだろう。 家治の死には謎が……? また、家治の死と意次の失脚自体に、陰謀のにおいを嗅ぎ取る向きもある。その見方によれば、家治は急激に病状が悪化して異様な…

【殿様の左遷栄転物語】北ノ庄藩越前松平家と高田藩松平家の付家老たち

…なので、北ノ庄藩越前松平家と高田藩松平家の付家老について紹介する。 まずは北ノ庄藩越前松平家から。家康の次男でありながら、豊臣家、結城家に養子に出ていたこともあって、徳川の家督を継承しなかった秀康には本多富正(ほんだ とみまさ、3万9千石、府中城主)が付けられ、秀康の子・忠直の代になってさらに本多成重(ほんだ なりしげ、4万石、丸岡城主)が付けられた。 このふたりは本多一族の定通流出身で、成重の父・本多重次(ほんだ しげつぐ)は「鬼作左(おにさくざ)」の通称や「一筆啓上 火の…

足利家の通字はなぜ初代「尊氏」に含まれない「義」なのか

…っている)、もともと松平家は「忠」と「康」を交互に使っていたようです。 このように一族の通字と、権力者からの偏諱によって名前が決まることが多いため、中世の人名は同じような名前ばかりでおぼえにくいのですが(さらに改名も多いし!)、逆に言うと同じ権力者から一字もらっていることから同時代の人物であることがわかったりもします。たとえば本多忠政・蒲生忠郷・京極忠高・加藤忠広・伊達忠宗など江戸時代初期の大名のほとんどに「忠」の字がついてますが、もちろんこれは2代将軍・徳川秀忠の偏諱による…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府11代・徳川家斉――40人の側室、55人の子をもうけた好色家 1773年~1841年

…らの画策によって白河松平家に養子に出された、という経緯のある人物だ。天明の大飢饉においても倹約と困窮対策によって自分の領地である白河藩の被害を最小限に抑えるなど才覚に優れ、「吉宗の孫」と血筋も高貴であり、のちには四代将軍・徳川家綱時代の保科正之以来である将軍補佐職にまでなった。その定信が進めた一連の改革を「寛政の改革」と総称する。 この改革の基本コンセプトは「田沼時代の粛正」と「享保の改革の再現」の2つの言葉で説明できる。重商主義を撤廃し、重農主義に回帰しようとしたのである。…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府初代・徳川家康――戦国時代を終わらせた偉大なる将軍 1542年~1616年

…が勃発し、この際には松平家臣団の半数が信仰上の理由から一揆側として挙兵したので、大変に苦労することになった。1572年(元亀3年)、武田軍がいわゆる「信長包囲網」の一員として攻勢に出た際には、信長の同盟者としてその攻撃の矢面に立たされ、三方ヶ原の戦いで散々に打ち破られてしまう。このとき、家康は明らかに劣勢でありながら無理に出陣して敗北してしまい、命からがら逃げ延びた際にその屈辱の姿を描かせて自らの戒めにした、という。ただ、家康が出陣した理由については「領内を悠々と進ませては、…

【戦国時代の境界大名】水野氏――天下の趨勢を見極めながら動乱を生き抜き、譜代大名の中核に

…ある於上が形原城主・松平家広のもとへ、それぞれ嫁ぐことになった。広忠と於大の間には竹千代が生まれ、この子がのちの徳川家康になる。こうして水野氏は松平・今川につき、織田氏と対立することとなったのである。 この経緯については異説もあるのでここに紹介したい。『刈谷水野氏の一研究』(刈谷市教育委員会)によれば、じつは忠政の時代から水野氏と織田氏の間にはつながりがあり、水野・松平の縁戚関係も、信秀の指示によるものではないか、と考えられるという。信秀は水野氏を通して松平氏との間に協力関係…

【お城の基礎講座】77. 一国一城令(いっこくいちじょうれい)

…吉城) 福井藩(越前松平家) 越前国に三城、のち二城(北ノ庄城(のち福井城)、丸岡城(のち丸岡藩として独立)、越前府中城) 仙台藩(伊達家) 陸奥国に仙台城と家臣片倉氏の白石城の二城 高松藩(生駒家) 讃岐国の高松城を残してすべてを破却したと報告したが、丸亀城は破却せず樹木で覆い隠して立ち入りを厳しく制限していた。幕府にうその報告をした例である。 尾張藩(尾張徳川家) 尾張国、美濃国の一部、三河国の一部、信濃国(木曽)の四令制国で名古屋城の一城。しかし、付家老である成瀬家が2…

【戦国軍師入門】安祥城の戦い――軍師僧・太原雪斎の交渉術

…川家と織田家、そして松平家(後の徳川家)にまつわる事情について紹介しよう。松平家は一時三河(現在の愛知県東部)全域を支配するようになったが、内紛によってその勢力を減じ、松平広忠の代には駿河・遠江(共に現在の静岡県)を支配する今川義元の勢力下にあった。一方、尾張(現在の愛知県西部)の織田信秀(信長の父)は虎視眈々と三河を狙っている。 信秀は広忠が今川に息子の竹千代(後の家康)を人質として送ると、護送していた武将を寝返らせて自分の手元に連れてこさせ、松平を味方にしようとするが上手…

初代藩主と藩祖のちがい

…以後、保科家(=会津松平家)がご存知の通り幕末まで会津藩主をつとめるのですが、歴代藩主で数えると5代目(蒲生秀行―忠郷―加藤嘉明―明成―保科正之)にあたる正之がどうして藩祖として扱われているのかがわかりません。 蒲生家、加藤家が改易されたから?(繰り上げとかあるのか?) 保科正之が将軍・徳川秀忠の子だから特別扱い? 会津藩の歴史の大部分を会津松平家が占めているのでその初代として? 今回、藩のデータベースをつくるにあたり、初代藩主と藩祖がちがうケースがあるということで、入力欄は…

江戸時代をデータベース化する

…原家にはじまり、戸田松平家、大久保家、藤井松平家、本多家(の分家)、越前松平家(の分家)と6家が藩主をつとめています。 これも単に文字で一覧にするよりも、藩主をつとめた「期間」がわかるようにしました。江戸初期はいろんな大名家が入れ代わり立ち代わりで藩主をつとめたものの、中期以降は越前松平家(の分家の明石松平家)がずっと藩主をつとめたことが横棒の長さから一目瞭然です。 明石藩 もちろんこれは大名家側からも確認できます。小笠原家は明石藩のあと、小倉藩に加増移封されますが、どこの藩…

3.江戸幕府における譜代大名の役割

…が、伊予・今治に久松松平家を置くなど、諸大名の監視をするために幕府の軍事拠点が築かれた。 その他、外様大名が改易や転封を受けたり、無嗣断絶に至ったりした場合は、ほとんどが譜代大名に代わられることになり、幕府の支配体制を強化することになったのである。 譜代大名が幕政を運営したわけ 前項で紹介したような譜代大名の軍事的役割は泰平の世が長く続く中で薄れていく。その代わり、もうひとつの役目の意味合いが重くなっていく。それは幕閣(幕府の最高行政機関)の要職につき、中央政権を動かすことだ…

2.譜代家臣団の成立

…賀茂郡松平郷の豪族・松平家である。16世紀前半、家康の祖父である松平清康の代に、松平家は大きく発展した。岡崎城を本拠地とし、三河一帯を手中に収めたのはこの頃である。この清康は駿府を中心に勢力を展開する戦国大名・今川家に従い、尾張の織田家と対立する立場にあった。しかし、1535年(天文4年)、織田信秀(信長の父)を討つために尾張森山(守山)へと出兵した際、清康は家臣によって殺されてしまう。これが「森山(守山)崩れ」と呼ばれるできごとだ。 清康を失った松平家は、急速に衰退してしま…

1.譜代大名の定義

…古くから徳川家(三河松平家宗家)に仕え、1万石以上の石高(米の生産量)を与えられた武家が「譜代大名」と呼ばれる。 譜代とはそもそも「代々その主家に仕えること。また、その臣下」(『広辞苑』第五版)という意味を持つ言葉だ。大名とは、1635年(寛永12年)に発布された『武家諸法度』(武士や大名の守るべき法律)において「(徳川家)一門の歴々、1万石以上の石高を持つ国主および城主」と定められた。江戸時代の大名にとって、主家は徳川家しかない。ゆえに、代々徳川家に仕えてきた大名が譜代大名…

江戸城での控室は家格によってちがうらしい

…家。 溜の間 会津藩松平家、彦根藩井伊家、高松藩松平家の三家のみ代々で、それ以外は一代かぎり。幕府の政治顧問を担う少数の有力譜代大名。 大広間 国持大名(国主)および准国持大名(准国主)、四品以上の官位を持つ親藩および外様大名。 帝鑑の間 「譜代席」とも呼ばれ、この部屋に詰める大名が譜代大名。ただし真田家など外様でもこの席に移った大名もいる。 柳の間 五位および無官の外様大名。交代寄合や高家などの旗本も。 雁の間 幕府成立後に新規に取立てられた城主大名。 菊の間 幕府成立後に…

3.戦国大名から外様大名へ

…れる家(御三家・越前松平家。国持ち大名、ただし藤堂家・佐竹家などは対象にならない)や、「松平」の称号を与えられる家(松平一族や徳川一族、徳川一族との血縁がある家、そして外様大名が特別な名誉として与えられる)などもあり、これも「格」を構成する大きな要素となった。これらは別に徳川家が始めたことではなく、以前からあった習慣の一種であることを付記しておく。 さらに「移動に用いる乗輿の種類」とか「行列で乗る馬に虎革の覆いがかけられる」とか「表門に家紋を付けてよい」など、様々な形で大名た…

明智光秀と徳川家康ーーあるいは本能寺の引き金

…家康は三河国の国人、松平家の嫡子としてこの世に生まれた。松平家は戦国乱世に乗って一時は三河一帯を広く支配するほどに力を得たが、浅利陽介演じる父・松平広忠の代には隣接する駿河・遠江の今川義元に従わざるをえない状態に追い込まれていた。幼き日の家康、幼名を竹千代が今川家で人質時代を過ごさなければならなかったのも、すべてはそのためである。成長した彼は義元の名をいただきた「松平元康」として今川家のために戦ったが、義元が桶狭間の戦いで信長の前に倒れるや、旗幟を変えた。今川の支配下から独立…

武勇に彩られた本多忠勝の生涯

…か紹介したい。 代々松平家(のちの徳川家)に仕えてきた忠勝の初陣は13歳とほんの少年のときのことだが、その2年後のエピソードとして「手柄を譲ってくれようとした叔父を制し、手柄は自分で取るものと大言して敵へ突っ込むと、言葉通り武将首を持って帰ってきた」というものがあるため、この頃からすでに相当の勇士であったらしい。 武田信玄が三河へ攻めてきた際も、一言坂の戦い(有名な三方ヶ原の戦いの前哨戦にあたる)において、撤退する味方を守って奮戦し、5本の矢を鎧に受けた状態で家康のもとに戻っ…

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