攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

池 の検索結果:

【現在1766城!】全国の御城印(お城版の御朱印)を販売しているお城の一覧

…23年5月23日 寺池城 御城印 寺池城(宮城県登米市) 登米懐古館 300円 印刷 2023年5月12日 佐沼城 御城印 佐沼城(宮城県登米市) 登米市歴史博物館 300円 印刷 2023年5月7日 新荘城跡(新庄城) 御城印 金版 新庄城(山形県新庄市) 戸澤神社 社務所 500円 書置き 2023年4月 井ノ口城 CG御城印 加古川温泉みとろ荘 300円 印刷 はがき大 2023年4月 足助氏七城 御城印 足助城(愛知県豊田市) 足助城チケット売り場、足助観光協会 20…

攻城団テレビで相撲の歴史について話をしました

…出雲藩松平家、鳥取藩池田家、阿波藩蜂須賀家、高松藩松平家、久留米藩有馬家、熊本藩細川家などがあります。 またこれらの藩がずっと力士のパトロンになっていたかというとそうでもなくて、あくまでも藩主のパーソナリティというか、相撲好きかどうかで決まったようです。戦乱もなく、江戸詰が基本の江戸大名にとって、趣味や道楽は暇つぶしの観点でも重要になりますが、その対象として茶道や華道と同じように相撲もあったのかもしれません。 なお今回このテーマを取り上げたのは、団員のたまさんから2019年に…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】読者からの質問とその回答

…して砲台奉行についた池田修也は、『旧館藩士族殉難調』によれば宝蔵院流槍術の目録を有していますが、砲術の習熟に関する記録はまったく見つかっていません。 Q.キルゾーン=十字砲火を前提にする考え方は日本の桝形虎口や横矢掛り、屏風折などにも言えることなのですが、西洋式とのちがいは射程距離ですか? まず、キルゾーンは十字砲火を前提にした概念ではありません。「キルゾーン」とは現代の砲戦においても使用される「敵を効果的・効率的に殲滅するための空間」をさす言葉なので、砲科の性能・能力がそれ…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】5.おわりに

…刻に拠って参照した。池田 哲郎1959「佐久間象山と蘭学-象山蘭書志-」『福島大学学芸学部論集』第10号市川 一学1850『御城地之儀ニ付存寄申上候書付』※北海道大学附属図書館北方資料室所蔵本のデジタルアーカイブに拠った。江川 英龍『砲術門人姓名簿』国文学研究資料館 伊豆韮山江川家文書データベース公開資料江差町史編集室1979『江差町史』資料編第三巻※『松前藩御達留』について、同書所収の翻刻を基準とし、北海道大学附属図書館北方資料室デジタルアーカイブ公開の同性質資料との照合を…

大人向けレゴ®セット〈レゴ®アーキテクチャー 姫路城〉の再現度にびっくり

…p. さらに男山配水池公園から撮った写真。これも連立式天守の美しさがよくわかるので好きな構図です。 マコ | 男山配水池公園より[姫路城] 姫路城の見学ルートにもなっている(いまもそうですよね?)油塀から水一門へ抜ける部分も再現されています。ここは180°振り返って進まないといけないので「敵を惑わすため」と言われますが、ほんとのところはどうなんでしょうね。 ぽりへり | ほノ門をくぐり、油塀を挟んで水一門へ[姫路城] さらに連立式天守の内側、台所櫓まで再現されていたのは驚きま…

【家康の謎】家康の子どもは何人いたの?

…亡くなっている。八男の仙千代は平岩親吉の養子になった後、こちらも幼くして亡くなった。 家康晩年に生まれた九男義直、十男頼宣、十一男頼房はそれぞれ尾張・紀伊・水戸に家を建てられ、これがのちの徳川御三家になった(水戸は御三家に含まないという説も)。一方、五人の娘については多くが政略結婚をした。長女の亀姫は奥平信昌に、次女の徳姫は北条氏直に(北条との関係破綻後、池田輝政に)、三女の振姫は蒲生秀行に(のち浅野長晟に)、という具合だ。ただ、四女の松姫と五女の市姫はそれぞれ夭折している。

城葱さんの「城もなか」道中記【千葉県編】

…や昔、乳母が子どもを池のほとりで遊ばせていた際、あやまって子どもを溺れさせてしまったという哀しい伝説が残る姥ヶ池など、色んな場所を見に行こうとするとアップダウンを繰り返すことになり、小高い丘に城があることがよくわかります。とくに(私が訪ねた時は)一部崩落等で行けない場所があり、昇り降りを繰り返しながら佐倉城の跡を巡りました。 土塁に囲まれ、隅櫓跡や天守閣跡のある本丸跡、そしてスタンプのある佐倉城址公園管理センターと自由広場の道から姥ヶ池へ下る道のある付近から公園の奥に向かう道…

福井城へ重ね捺し御城印スタンプラリーの取材に行ってきました

…わしい、雰囲気のある池泉式庭園でした。調べると「回遊式林泉庭園」というのが正しいそうです。今度来るときはここでゆっくりしたいと思いました。 collection.kojodan.jp 福井城址(県庁) ふたたび県庁へ戻ります。街なかを陣羽織で歩き回るのは正直恥ずかしいのですが、この日はお祭りということもあり、いつもよりは怪訝な目で見られることは少なかったように思います。 日本100名城のスタンプと同様、週末は守衛室に置いてあります。 守衛のおじさんに「重ね捺しに来ました」と言…

細川竜太郎さんの姫路城攻城レポート

…名を牽制するときに、池田氏を城主にして城を立派なものにしたということです。 城内には怪談で有名なお菊井戸があり、ちょっとしたホラーが楽しめます。お城に入る前に広場があるのでそこで花見がてらお弁当を食べました。最近では彦根城の「ひこにゃん」人気にあやかり、姫路城の「しろまるひめ」とかいうゆるキャラも登場したようです。 姫路城の始まりは、1346年の赤松貞範による築城とする説や戦国時代後期に西播磨地域で勢力を持っていた小寺氏の家臣、黒田重隆・職隆父子による築城を最初とする説もある…

【家康の合戦】大坂の陣(冬の陣、夏の陣)豊臣を滅ぼした家康最後の大戦!

…6年)に、浅野幸長と池田輝政が1613年(慶長18年)に、前田利長が1614年(慶長19年)に相次いで亡くなり、豊臣に近い大名は福島正則が残るのみとなりました。 家康は将軍になると天下普請(公儀普請ともいう)によって各地に大城郭を築いていきました。二条城、越前福井城、美濃加納城、彦根城、江戸城、駿府城、丹波篠山城、名古屋城、丹波亀山城、伊賀上野城、越後高田城などを新たに築き、その他にも城の大改修を進めていきました。いわゆる豊臣包囲網です。 そんな折、1614年(慶長19年)に…

【家康の合戦】関ヶ原の戦い 豊臣政権の内部抗争

…黒田長政、田中吉政、池田輝政、藤堂高虎、加藤喜明、山内一豊らが西上し、8月中旬には尾張に集結します。井伊直政や本多忠勝などの直臣も尾張に在陣し、駿府から清須までの東海道筋の諸城に兵を入れて守らせ、清須城を最前線の城としました。家康軍は遠国の外様大名、東海道筋の外様大名、徳川家臣団の3つのグループから構成されていましたが、外様大名はあくまでも豊臣の家臣であり、家康の家臣ではありませんでした。 一方の三成方は伊勢、美濃へ兵を進め、三成自身は大垣城に在城します。織田秀信の岐阜城、石…

【家康の合戦】小牧・長久手の戦い 家康・人生のターニングポイント

…か国を領有し、美濃は池田一族に与えられ大垣城に池田恒興、岐阜城に息子の元助、美濃金山城に森長可が入りました。 一方で家康は、安土城を訪れたのちに立ち寄った堺で、本能寺の変の報せを受けました。危機を感じた家康は伊賀経由で岡崎城へ急ぎかえりました。家康三大危機のひとつにも挙げられる、いわゆる「伊賀越え」です。からくも逃げ帰った家康は明智討伐に出ようとしますが秀吉が討ったとの知らせを受けるや織田領となっていた上野・甲斐・信濃をめぐって北条と争い(天正壬午の乱)、結果として三河・遠江…

【家康の合戦】高天神城の戦い 武田vs徳川の攻防戦!

…尾張・伊賀・伊勢を、池田恒興と息子がそれぞれ大垣城・岐阜城に入って美濃を治め、恒興の娘婿である森長可が美濃金山城に入って東美濃を平定しました。このように情勢が刻一刻と変わっていく中で、羽柴秀吉と織田信雄の関係が悪化していき、家康も参戦することとなる小牧・長久手の戦いへと進んでいきます。次回は、小牧・長久手の戦いについて書いていきます。 まとめ 武田と徳川の間で起こった「高天神城の戦い」は3度起こりました。最後に高天神城を攻め落とした家康は遠江を平定することに成功し、その後の五…

【家康の合戦】姉川の戦い 家康の活躍で浅井・朝倉を撃退した戦い!

…家康軍には丹羽長秀や池田恒興が加勢したと言われます。いよいよ姉川の戦いが始まりました。 戦闘は、4月28日未明に家康軍と朝倉軍との激突から始まりました。はじめは朝倉軍が優勢でしたが、榊原康政が側面から朝倉軍を突き、形勢が逆転したと言われます。一方で、信長と浅井氏との間でも戦闘が始まりました。こちらもはじめは浅井氏が優勢でしたが、横山城を取り囲んでいた西美濃三人衆(稲葉一鉄、氏家ト全、安藤範俊)が側面から攻撃をはじめ、浅井勢がみるみるうちに不利になっていったと言われます。この戦…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…予想されたが、美濃の池田恒興らが秀吉方についたため(犬山城を攻略)、尾張が戦場に 家康は小牧山城に本陣を置く 兵力差は信雄・家康軍は1万5〜6千、秀吉軍は6〜10万と圧倒的 秀吉は別働隊に岡崎城を攻めさせる三河中入りを決行。家康は追撃、急襲して壊滅させる その後は大きな合戦はなく、最終的に信雄と秀吉は和睦(和睦とはいえ立場は逆転) 家康も次男(のちの結城秀康)を人質として出すことに。石川数正の子(のちの石川康勝)と本多重次の子(のちの本多成重)が付き従った 秀吉と和睦する? …

「外戚 なぜ嫁の実家は偉いのか」の動画を公開しました

…田信長の乳兄弟である池田恒興、伊達政宗の乳母・喜多の異父弟にあたる片倉景綱、淀殿の乳母・大蔵卿局の子である大野治長など、乳母の関係を通じて出世した人物は多数います。そして江戸時代でも、おそらくもっとも有名な乳母である春日局がいますよね。こうしてかつての摂関や執権ほどではないにせよ、乳母の立場でも権力は行使できたわけです。 けっきょくのところ権力者の幼少期をともに過ごすというのは強い影響を残すのでしょうね。現代でも「おじいちゃん子(おばあちゃん子)」という言葉があったりしますが…

榎本秋先生の最新刊「超約版 家康名語録」の出版記念ライブを生配信しました

…だん)備前岡山藩主・池田氏に仕えた徂徠(そらい)学派の儒学者・湯浅常山(ゆあさ じょうざん)の著作。江戸時代中期の人物。 武野燭談(ぶやしょくだん)1709年(宝永6年)に成立した歴代将軍や老中など約100名の言行録。著者は木村高敦(たかあつ)が有力とされる。 武功雑記(ぶこうざっき)肥前平戸藩4代藩主・松浦鎮信(まつら しげのぶ)が記した武辺咄(ぶへんばなし)を集めた書物。1696年(元禄9年)頃に成立。 徳川実紀(とくがわじっき)江戸幕府の公式史書。35年ほどかけて、18…

【戦国軍師入門】島勝猛(左近)――不死伝説まで生まれた悲劇の名将

…黒田長政、細川忠興、池田輝政、加藤嘉明(資料によっては蜂須賀家政)、浅野幸長ら七将が三成の大坂屋敷を襲撃したのだ。そこで三成は奇策に出る。なんと、最大の政敵である家康の屋敷に逃げ込んで庇護を求めたのだ。豊臣政権を弱らせることを考えていた家康にとって、今はまだ武断派と文治派に対立してもらわないと具合が悪かった。そこで家康は彼を匿って七将を思いとどまらせた。 この策を考えたのが、実は三成ではなく勝猛だったという説がある。大義名分や建前を重視する、良い意味ではキッチリとした、悪い意…

【戦国軍師入門】宇佐美定満――軍神・謙信に兵法を授けた謎の軍師

…るが、両人が泥酔して池の中に飛び込んだとも、定満が政景に抱きついてもろともに溺死したのだとも言われる。政景の死体に傷があったという話や、定満と謙信が政景の暗殺について相談していたという話も伝わっているため、定満が主君の政敵を自らもろとも葬り去ったのだ、ともされているのだ。 そんな定満がモデルになったのが、宇佐美駿河守だ。宇佐美駿河守は元々仕えていた主君に見切りをつけて京に流れ、そこで謙信にスカウトされた。以後、謙信の軍師としての彼の活躍は目覚ましい。謙信に宇佐美家に伝わる兵法…

【戦国軍師入門】秀吉の中国攻め――「両兵衛」による3つの城攻め

…うのも、この城は沼や池によって取り囲まれた平城で、城に行くためには数本の道しかなかった。これは守るのにも向いていたが、同時に周囲の川を増水させれば簡単に水浸しにできるということでもあった。 こうして工事が始まった。現地の農民たちに法外な額の給金を与えて突貫工事をさせ、農業のための溜池工事の技術が駆使され、川は11日で堰き止め終わる。しかもこの時がちょうど梅雨時であったために、溢れた濁流はすぐに城を水没させてしまった。これが「高松城の水攻め」だ。 どうにか本丸だけは残ったが、備…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく⑤――飢えて落ちた城・鳥取城

…関ヶ原の戦いののちに池田長吉が姫路から入り、鳥取藩主となって城の大改築を行ったが、明治に破却された。 播磨・備前・但馬で成果を上げた秀吉の中国方面軍が次のターゲットとしたのが因幡であり、ひいてはこの鳥取城であった。しかし、堅い守りのこの城を落とすのは難しい――そこで秀吉は播磨の三木城に続き、再び兵糧攻め作戦を取る。しかも今回は、あらかじめ因幡中の米を買い占めておき、かつ農民たちを虐待して城に避難するよう仕向けた。兵糧攻めで早く城を落とすためには、城内の兵糧が早く尽きる必要があ…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく③――支城を潰され、草木も食い尽くした城・三木城

…ちに、東軍に味方した池田輝政が播磨に入った際、その家老。伊木忠次(いぎ ただつぐ)が三木城主となった。 長治と秀吉の関係は当初は良好だった。秀吉が織田氏の中国方面司令官として播磨に入ってすぐ、彼の味方に付く姿勢を取ったからだ。播磨でも名の知れた別所氏が織田の傘下に入ったことが、秀吉の中国侵攻にとって大きな助けになったのは間違いない。しかし1578年(天正6年)、秀吉から毛利攻めを先導するよう求められた長治はこれを拒否、毛利方に転じて三木城に籠城してしまう。反旗を翻した理由につ…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】奮戦の舞台③――長宗我部元親の策略と、それを見抜いた黒田官兵衛・植田城

…に支城として由良山/池田の二城を築き、鉄壁の守りであるかに見えた。ところが、実際に豊臣軍が襲来すると、由良山と池田の兵は鉄砲の音を聞いただけで全く戦わずに城を明け渡し、あっさりと植田城に逃げ込んでしまう。これを怪しんだのが、豊臣軍の軍師・黒田官兵衛だ。長宗我部軍の行動には裏があるに違いない、と読んだのである。 実のところ、これは元親の策略だった。豊臣軍を植田城におびき寄せて注意をそちらに惹き付けているうちに、主力を援軍として出陣させ、後詰決戦で叩いてやろうと考えたのである。こ…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑦――外交交渉で裸にされた城・大坂城

…る(通常、水堀は川や池から水を引き入れているので、水源を断てば水量が減る)」とか「城の塀に穴を開ける」などの作戦もこの時期に行っている。この二つの作戦も、実効というよりは脅しの面に重点を置いているような印象があるのは、私だけだろうか。 真実はともかく、実際にこれの作戦は功を奏したようだ。そもそも、鉄砲や弾薬といった物資に不足があり、かつどこからも援軍が来ないような状況では、結局のところ戦い続けるのに限界がある。豊臣方も和睦に応じ、いくつかの条件をつけて一時停戦、ということにな…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑥――水攻めに耐えた城・忍城

…たし、城自体も土塁・池沼・深田によって区分けされた複雑な構造を有して、非常に守りやすい城であった。そのため、「関東七名城」のひとつに数えられている。戦国時代を通して成田氏が城主であり、上杉氏と手を組んでたびたび北条氏と戦ったが、やがて北条氏の傘下に下ることとなる。豊臣秀吉によって北条氏が攻め滅ぼされると、この地は徳川氏の領有となり、関東の要所のひとつとして江戸時代を通じて譜代・親藩の大名が入った。そして、廃藩置県後に取り壊されている。 忍城をめぐる戦いで有名なのは、豊臣軍が北…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】本城の場所は「四神相応」であるべき?

…せた姿)、南は窪地(池や湿地など)に対応する朱雀(すざく)という神がそれぞれ存在し、彼らが司る地形で四方を囲まれている場所は都として大変向いている、という考え方が四神相応の基本だ。 日本の都や政権の中心地の多くはこの考え方に基づいて場所が選ばれている。平安京をはじめとする近畿の都がそうだし、最初に武士政権が築かれた鎌倉、徳川家康が幕府を開いた江戸、さらには大名たちのほとんども自らの居城を「高山と低地と流水に囲まれた場所」という四神相応に準じる場所に築いている。これは一見、現実…

【10大戦国大名の実力】最後に――「家を守る」ために

…。 もっと複雑なのは池田家のケースです。信長の乳兄弟として彼を支えた恒興、その子で豊臣政権で活躍したものの関ヶ原の戦いでは家康についた輝政の後、家督を継いだのは長男の利隆(としたか)でした。普通ならこれだけなのですが、なぜか弟の忠継(ただつぐ)が岡山藩に入り、彼が若くして死ぬと同母弟の忠雄(ただかつ)が跡を継ぎました。その後、当主の急死で後継者が幼かったことから利隆の家系と忠雄の家系はそれぞれ国替えされ、前者が岡山藩、後者が鳥取藩を代々継承することになりました。どうしてこんな…

40年ぶりの特別公開、古田織部ゆかりの興聖寺を見学してきました

…り。 方丈の前にある池泉式庭園も見事でした。 なお興聖寺には雲了庵と青松庵というふたつの茶室があります。このうち、雲了庵は古田織部の院号から名付けられた茶室で、織部の木造が祀られています。ここも室内は写真は撮影不可だったので、観光協会のサイトで確認してみてください。 ja.kyoto.travel もうひとつの青松庵は織部の妻の院号から名付けられた茶室ですが、今回は非公開です。ガイドの方の話によると、織部夫妻のほか、水墨画で有名な江戸時代の絵師・曾我蕭白(そが しょうはく)の…

日本史における「変」と「乱」について対談しました

…64年(元治元年) 池田屋の変(池田屋事件) 京都三条木屋町(三条小橋)の旅籠・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、京都守護職配下の治安維持組織である新選組が襲撃した事件。新選組の知名度が上がり、長州藩はこののち禁門の変を引き起こした 江戸時代 1864年(元治元年) 禁門の変(蛤御門の変) 八月十八日の政変により京都から追放されていた長州藩勢力が、会津藩主で京都守護職の松平容保らの排除を目指して挙兵。幕府方の勝利に終わる。長州藩は「朝敵」となり、第一次…

仇討ちの歴史について教わりました

…に匿われ、岡山藩主・池田忠雄(いけだただかつ)は幕府に抗議したが受け入れられず、無念のうちに死んだ。その遺言と圧力で匿えなくなった旗本の元を又五郎が離れたところ、殺された同僚の息子・数馬(かずま)が仇討ちに挑み、成功した。この時、剣術の達人である荒木又右衛門(あらきまたえもん)が数馬の姉婿という立場で参加し、大活躍したことで有名。 浄瑠璃坂の敵討ち 江戸時代初期の「浄瑠璃坂(じょうるりざか)の敵討ち」は、江戸時代において最も規模の大きい仇討ちであったという。きっかけは宇都宮藩…

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