攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

福島正則 の検索結果:

【家康の謎】家康は関ヶ原の戦いに出陣する前に江戸で誰にどんな手紙を出してるの?

…か。一番多かったのは福島正則宛のもので、10通を超えている。彼を含め、家康に先んじて東海道を西へ進んでいた東軍諸将に当てた手紙は全体の半分を占めており、家康が前線から離れた江戸より東軍全体をコントロールしようとしていたことがわかる。関ヶ原の戦いが豊臣政権の主導権をめぐる内紛であることを思えば、連絡を強化して内部に不和・動揺が生まれないようにするのは当然の心遣いであったろう。 また、東海道の諸将宛の手紙の中でも、注目するべきものとして黒田長政宛の8月8日付書状がある。この手紙か…

【家康の謎】家康はなぜ石田三成を匿った? 七将襲撃事件は事実なのか?

…ひとつが、加藤清正・福島正則らを筆頭とする武断派と、石田三成ら文治派の対立であった。そんな中、重鎮である前田利家が亡くなる。押さえを失った武断派諸将のうち七人が兵を率いて石田三成を襲撃するも、三成はあえて徳川家康の屋敷を訪れ、彼に庇護を依頼した。受諾した家康によって武断派七将は押さえ込まれ、一方で三成は謹慎処分となる。これによって家康の動きはさらに活発化した――というのが、いわゆる通説における「七将襲撃」の事件である。 ところで、近年ではこれらの一連の出来事について疑いをもつ…

【家康の合戦】大坂の陣(冬の陣、夏の陣)豊臣を滅ぼした家康最後の大戦!

…り、豊臣に近い大名は福島正則が残るのみとなりました。 家康は将軍になると天下普請(公儀普請ともいう)によって各地に大城郭を築いていきました。二条城、越前福井城、美濃加納城、彦根城、江戸城、駿府城、丹波篠山城、名古屋城、丹波亀山城、伊賀上野城、越後高田城などを新たに築き、その他にも城の大改修を進めていきました。いわゆる豊臣包囲網です。 そんな折、1614年(慶長19年)にあの有名な事件が起こります。方広寺鐘銘事件で、大坂の陣の発端と言われています。方広寺は1586年(天正14年…

【家康の合戦】関ヶ原の戦い 豊臣政権の内部抗争

…た。まずは清須城主・福島正則が8月始めに清須城に、次いで黒田長政、田中吉政、池田輝政、藤堂高虎、加藤喜明、山内一豊らが西上し、8月中旬には尾張に集結します。井伊直政や本多忠勝などの直臣も尾張に在陣し、駿府から清須までの東海道筋の諸城に兵を入れて守らせ、清須城を最前線の城としました。家康軍は遠国の外様大名、東海道筋の外様大名、徳川家臣団の3つのグループから構成されていましたが、外様大名はあくまでも豊臣の家臣であり、家康の家臣ではありませんでした。 一方の三成方は伊勢、美濃へ兵を…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…った豊臣方の落ち度 福島正則、黒田長政、加藤嘉明は江戸に留置 1611年(慶長16年)に加藤清正死去、1613年(慶長18年)に浅野幸長死去と仲裁してくれる有力大名がいなくなっていた 大坂城には牢人が集まり籠城軍は10万に 11月、20万人の徳川方が大坂城を包囲、大坂冬の陣 大坂冬の陣で和睦する? 和睦後も大坂からの退去(大和・伊勢が提案)、浪人の召し放ちを迫る @外堀?総堀? 大坂方も納得していたと思われる 1615年(元和元年)、74歳 5月、大坂夏の陣 5/8、秀頼・淀…

【家康の城】名古屋城 家康築城術の到達点!

…ときに清須城主だった福島正則はこの戦いののちに安芸に移封となり、家康四男・松平忠吉が52万石で清須城に入城しました。しかし、1607年(慶長12年)に忠吉は早世したため、九男・徳川義直がわずか8歳で清須城主となります。実際に清須城に入城したのは1609年(慶長14年)の正月のことです。徳川家康は関ヶ原の戦いののち、公儀普請(天下普請)によって各地に大城郭を築城または従来の城の大改修を行っていきます。これはいわゆる大坂包囲網を敷くためと考えられています。その最終的な城の一つとし…

【家康の城】江戸城 世界有数の一大城郭と城下町!

…本格化し、加藤清正、福島正則らの西国外様大名28家に石垣に用いる石材調達を命じます。石材は伊豆半島や相模湾沿岸の地域から運び込まれました。このような分担による工事は名古屋城築城にも引き継がれる国家プロジェクトで、公儀普請のシステムとなったのです。本丸の工事は1606年(慶長11年)から開始され、1611年(慶長16年)には西の丸の石垣工事が実施されました。縄張りは築城の名手と言われた藤堂高虎です。高虎は家康の信頼が厚く、これまでに天下普請の近江膳所城や家康在城の伏見城の再建な…

【戦国軍師入門】島勝猛(左近)――不死伝説まで生まれた悲劇の名将

…らされる。加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、池田輝政、加藤嘉明(資料によっては蜂須賀家政)、浅野幸長ら七将が三成の大坂屋敷を襲撃したのだ。そこで三成は奇策に出る。なんと、最大の政敵である家康の屋敷に逃げ込んで庇護を求めたのだ。豊臣政権を弱らせることを考えていた家康にとって、今はまだ武断派と文治派に対立してもらわないと具合が悪かった。そこで家康は彼を匿って七将を思いとどまらせた。 この策を考えたのが、実は三成ではなく勝猛だったという説がある。大義名分や建前を重視する、良い…

【戦国軍師入門】関ヶ原の合戦――100人を倒すより1000人に裏切らせる

…ら文治派と加藤清正・福島正則ら武断派が分裂し、その隙を突いて実力者の徳川家康が動き始めた。家康は東北の雄・上杉景勝を攻めるために諸大名に呼びかけて兵を挙げ、一方で三成は自分と同じ五奉行の増田長盛(ました ながもり)、毛利の使僧の安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)らと語らい、また本来東軍につくつもりだった大谷吉継(おおたに よしつぐ)を説得して西軍を組織する。 この時、三成は自分自身が総大将の地位に就くつもりだったが、その横柄な性格を気にした吉継の勧めによって、毛利輝元を総大将と…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑤――勇ましくも美しき女武将の活躍した城・安濃津城

…期、東軍の主力のうち福島正則ら豊臣恩顧の諸大名は尾張や美濃のあたりにおり、総大将である家康はまだ江戸にいたので、彼らの援軍も期待はできない。信高は悲壮な決意で戦いに挑んだに違いない。あるいは、最初から「ある程度戦ったら降伏し、せめて毛利の軍勢を少しでもひきつけて戦功としよう」とまで考えていたとしてもおかしくはないが、もちろん真実は今となってはわからない話だ。 どちらにせよ、戦いは籠城側の劣勢で推移した。包囲されてから一週間ほどで安濃津城は曲輪を次々と落とされ、ついには本丸にも…

【10大戦国大名の実力】斎藤家③――下剋上から滅亡まで

…い。だから加藤清正や福島正則、石田三成といった若者たちを育て、生え抜きの家臣として自らの政権を任せようとした。ところが、彼らは立場の違いから反目し合い、秀吉の死後に相争って徳川家康が躍進する隙を作ってしまった。同じように、一から成り上がって主家を乗っ取った斎藤家には、地盤がなかった。だから不安定で、滅亡の原因になった。そういうことなのだろう。 実際のところ、一般のイメージと違って戦国大名には守護や守護代出身が多く、最低でも国人として代々の領地や家臣がいるのがほとんどだ。成り上…

【画像73枚】名古屋城・西の丸御蔵城宝館の見学レポート

…左近大輔 讃岐高松 福島正則 羽柴左衛門大夫 安芸広島 浅野幸長 浅野紀伊守 紀伊和歌山 山内忠義 松平土佐守 土佐高知 毛利秀就 松平長門守 長門萩 蜂須賀至鎮 蜂須賀阿波守 阿波徳島 加藤嘉明 加藤左馬助 伊予松山 加藤清正 (記載なし) 肥後熊本 なぜ靖国神社にあるの? そしてなぜ靖国神社に名古屋城の資料が伝わっているのか疑問に思っていたのですが、ちゃんと説明がありました。廃城令後、多くのお城が陸軍の駐屯地になったことはご存知の方も多いと思います。とくに平城は広大な敷地…

【クーデターで読み解く日本史】西軍の有力者が裏切った本当の理由とは?――関ヶ原の戦い

…んちは)と加藤清正・福島正則ら武功派(ぶこうは=武断派)が対立しており、これを利家が押しとどめていたのだが、彼がいなくなったせいで武功派七将が三成を襲撃したのである。この時三成は家康の屋敷に逃げ込んで難を逃れたが、その代わりに政権の中枢を離れて謹慎することを余儀なくされてしまう。 その後、家康は豊臣政権の本拠地である大坂城の西の丸に移住し、天守閣を築造した。このことは「家康は秀頼と匹敵する力を持つ存在だ」と周囲に知らしめる効果があった。しかし、家康が真に自らの天下取りを行うた…

【殿様の左遷栄転物語】3章まとめ 後継者問題の難しさ

…た、第2章で紹介した福島正則も、長く実子がいなかったので姉の子の正之を養子にしている。彼の妻として徳川家康の異母兄弟にあたる松平康元の娘で家康の養女にもなった満天姫を迎えているから、この時点では正之を後継者にするつもりだったのは間違いない。 ところが、やはりこちらも実子の忠勝が生まれてしまったので、実の子供を後継者にしたい養父と追い詰められていく養子の関係は悪化していった。そして、正之は荒れた。「道行く人や周囲の家にわけもなく鉄砲を撃った」「義父である正則の葬儀の真似事を行っ…

【殿様の左遷栄転物語】政争で潰された大名① 小田原藩大久保家

…においても加藤清正・福島正則ら武断派と石田三成ら文治派の派閥争いが発生し、結果的に家康が暗躍する隙を作って、政権崩壊につながっている。現代風にたとえるなら、注文をとってくる営業部と、実際に商品を作る製造部が、それぞれ「あいつらは俺たちの苦労がわかっていない」と不満を溜め込んで仲が悪くなるようなものだろうか。 忠隣が庇護して姓を授けた重臣、大久保長安にまつわる疑惑も、彼の足を引っ張ったようだ。大久保長安は金銀山の開発や各地の民政によって幕府の財政に大きく貢献し、「天下の総代官」…

【殿様の左遷栄転物語】名将の息子の愚かさが潰した 会津藩加藤家

…ら幕府に信頼される 福島正則や加藤清正と同じく豊臣秀吉のもとで活躍し、七本槍にも数えられた加藤嘉明(かとう よしあきら)を祖とするのが、会津藩加藤家である。もとは松平(徳川)家に仕えていたものの、嘉明の父・教明が三河一向一揆に加担して徳川家康に反旗を翻したため、国を離れることになった。その後は将軍である足利義昭、そして秀吉へと主君を替えた。しかし秀吉の死後、徳川家康に急接近、関ヶ原の戦いでは東軍に属して戦っている。 1627年(寛永4年)、陸奥国会津藩の藩主・蒲生忠郷が子のな…

【殿様の左遷栄転物語】死後に仕掛けられた罠 加藤清正

…名たちの苦しい立場 福島正則と並んで秀吉子飼いの部下の代表格とされるのが、加藤清正である。彼はまた、築城術の名手としても名高く、熊本城はその代表作のひとつといえる。 藤原北家道長を祖とする加藤家は、その子孫が美濃に下った際に「加藤武者」と称したのが始まりとされているが、確証はない。その後、11代・清忠が秀吉の母の従姉妹と結婚したため、息子の清正が秀吉のもとに預けられ、子飼いの家臣となったという。秀吉との姻戚関係についてもハッキリとわかっているわけではないのだが、清正が幼少期か…

【殿様の左遷栄転物語】幕府に警戒され続けた男 福島正則

…のは、安芸国広島藩の福島正則ではないだろうか。この家の取り潰しは明らかな言いがかりによって行われ、その背景には豊臣家亡き後の江戸幕府・徳川家を絶対的な存在にしようという意図が読み取れる。 福島家は平氏の末裔であるらしいが、歴史の表舞台に出てくるのはやはり正則の代からだ。正則の母は秀吉の伯母にあたるため、豊臣家と福島家は親戚関係にあり、正則は秀吉から羽柴の姓を与えられている。正則は幼少のころから秀吉によく仕え、数々の戦功をあげた。後述する加藤清正と並んで、秀吉子飼いの家臣といえ…

【殿様の左遷栄転物語】コネに救われた2人の大名 新庄直頼と久留島長親

…ョンだった。彼の妻は福島正則の姪にあたり、この関係がずいぶん彼を救うことになったようだ。まず最初に口利きを頼もうと接触した徳川の重臣・井伊直政に家臣が面会できたのも、正則の助けを受けた部分が大きかったと考えられる。ご承知のとおり、福島正則は秀吉の子飼いの武将だったが東軍に与した(第2章で詳述)。 残念ながら直政の口利きは得られなかったのだが、以前から付き合ってきた商人の縁を通じて(豊臣水軍の将として、交通の便宜をはかったことなどがあったのだろうか)、やはり徳川の重臣である本多…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府2代・徳川秀忠――若き日の過ちを堅実さで挽回 1579年~1632年

…の大名の代表格である福島正則は「無断で城を修築した」として1619年(元和5年)に改易されているし、弟で越後高田藩の松平忠輝や甥の越前福井藩の松平忠直ら身内であろうとも落ち度があればやはり改易という厳しい処分に処している。さらに、朝廷という巨大な権威に対しても締め付けを行っている。高位の僧侶や尼の着る「紫衣」は本来朝廷から許しが与えられるものだったのが、これを幕府の許可が必要であると定め、それを朝廷側が無視すると実力で僧侶たちから紫衣を取り上げてみせた。これは朝廷が幕府の下に…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府初代・徳川家康――戦国時代を終わらせた偉大なる将軍 1542年~1616年

…権運営から加藤清正・福島正則ら豊臣政権内部の武断派とも対立しており、家康は彼らを味方につけて反家康派に対抗していく。 そして1600年(慶長5年)、家康が「謀反の疑いがある」として五大老のひとり・上杉景勝討伐の兵を挙げると、その隙を突いて三成も同じく五大老の毛利輝元を旗印に挙兵。両軍は美濃国・関ヶ原で激突した。天下分け目の「関ヶ原の戦い」である。このときは兵力で三成方(西軍)が勝り、兵の配置でも家康方(東軍)を取り囲んで圧倒的に有利と思われた。しかし、実際に戦いが始まると、東…

明智光秀と細川忠興――あるいは太平のための裏切り

…ての忠興は加藤清正・福島正則らとともに武断派の主要人物として数々のいくさで活躍し、国内での戦いだけでなく朝鮮出兵にまで参加している。しかしそれゆえにか石田三成ら文治派と対立することになった。結果として忠興たち武断派は徳川家康に味方して「関ヶ原の戦い」で東軍につき、家康による江戸幕府成立に力を貸すことにもなったのだった。なお、この戦いに先立って忠興が最愛の妻・たまを失ったのは以前紹介した通りである。 関ヶ原後、細川家は北九州に四十万石弱の領地を与えられ、さらに忠興が隠居した後に…

【お城の基礎講座】78. 武家諸法度(ぶけしょはっと)

…ろで言うと、広島城の福島正則が幕府の許可を得ず、本丸・二の丸・三の丸の石垣を修理したことによって改易されたというのがあります。しかし寛永12年(1635年)の改訂によって石垣・土塁・堀の修復は今まで通り許可が必要だとされましたが、櫓・門・塀などは元通りに修復するのであれば届出の必要はなくなりました。これが意味するところは、普請(ふしん)と言う土木工事は許可が必要で、作事(さくじ)という建物の修復については届出の必要がないということです。幕府が普請を厳しく取り締まる姿勢が伺えま…

初代藩主と藩祖のちがい

…元、(江戸時代では)福島正則が藩主をつとめましたが、藩祖は浅野長政です。」と、あくまでも藩の成立時ではなく、幕末から見ていくべきだと。たしかにこのルールだと会津藩は保科正之になりますね。 ということは江戸時代の途中で廃藩となった藩には藩祖がいないことになります。また保科正之は高遠藩主や山形藩主もつとめていますが、高遠藩は(鳥居家改易のあと一時期廃藩になるも)幕末は内藤家、山形藩は水野家が最後の藩主なので、正之は藩祖ではありません。多くの大名家は何度も移封を繰り返していますが、…

6.譜代大名の懐事情

…げと領地の召し上げ、すなわち取り潰しのことである。どちらも幕府の権威を大名に知らしめるには有効な手段だったため、特に江戸時代初期にはよく行なわれた。「関ヶ原の戦い」で東軍の先鋒まで務めた安芸国広島藩の福島正則が、災害で壊れた居城の広島城の石垣を幕府に無断で修理しただけで改易されたことは、よく知られている。改易までいかなくても、減封されれば財政はすぐに逼迫する。幕府ににらまれないようにすることは、大名にとって死活問題でもあったのだ。 次回「(7)寵臣の出世と末路」につづきます。

3.江戸幕府における譜代大名の役割

…する。同年、広島藩の福島正則が無断で城の石垣を修理したとして領地没収となり、浅野家がこれに代わることとなった。そして、空いた紀伊に徳川頼宣が送られ、ここに御三家のひとつ、紀伊徳川家が誕生する。四国・九州も当初は外様大名に占められていたが、伊予・今治に久松松平家を置くなど、諸大名の監視をするために幕府の軍事拠点が築かれた。 その他、外様大名が改易や転封を受けたり、無嗣断絶に至ったりした場合は、ほとんどが譜代大名に代わられることになり、幕府の支配体制を強化することになったのである…

4.江戸幕府のシステムに縛られた外様大名

…この工事を命じられた福島正則が「大御所の息子の城まで手伝わなければならないのか」と愚痴をこぼすと、これを聞いた加藤清正が「いやなら国に帰って戦準備をしろ」と言った、という。清正にも少なからず不満はあったろうが、しかし拒否することは幕府と戦うことに他ならなかったのである。 江戸中期になると御手伝普請の性質が変わる。「ある地域の大名をまとめて動員する」という形から、「この家とこの家を動員する」という形になっていった。内容自体も河川の堤防工事が主となり、大和川・利根川・多摩川・大井…

3.戦国大名から外様大名へ

…与して先鋒まで務めた福島正則には家康も配慮したと見え、安芸・備後の二ヶ国を与えながらも「これでも納得しないかもしれない」と考えていたほどだ。しかし、そんな福島家も、洪水に見舞われた広島城を修理したことが「武家諸法度違反」と難癖をつけられ、改易させられてしまう。福島正則と並んで豊臣系大名の筆頭に挙げられ、やはり関ヶ原の戦いでは東軍についた加藤清正の熊本藩・加藤家もまた、改易となっている。彼の死後、後を継いだ三男の忠広が「藩政に問題があった」「江戸で生まれた子供を幕府へ届け出ずに…

“笹の”可児才蔵

…が最後に仕えた主君が福島正則だ。そして、実は前回紹介した「井伊直政の抜け駆け」において直政を見咎め、止められなかった武将こそが才蔵だったのである。彼にとって、直政の抜け駆けは主君と自らの名誉に泥を塗る行為に他ならなかったはず。さぞや怒り狂ったことであろう。実際、この日の才蔵の働きは凄まじかった。 福島隊が6000に過ぎなかったのに対し、正面の敵である西軍の宇喜多隊は1万7,000であったから決して楽な戦いではなかったが、得意の槍を振り回して奮戦し、なんと17(あるいは20)の…

井伊直政の抜け駆け

…務めるはずだったのは福島正則だった。彼は東軍側についた豊臣系大名の重鎮というべき存在であり、また真っ先に東軍への参加を宣言したことから、家康としてもこれは当然の判断だったといえる。 しかし、直政はあえて抜け駆けを敢行した。晴れつつある霧に紛れながら関ヶ原を進み、福島隊に見咎められると同行していた忠吉の名を使って「初陣の忠吉さまに戦場を見せる」といった意味のハッタリをかましたのである。相手が家康の子となれば、福島家としてもこれ以上追求できず、見過ごすしかない。するすると進んだ井…

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