攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

築城 の検索結果:

【家康の城】名古屋城 家康築城術の到達点!

…何を思い、名古屋城を築城したのでしょうか。 家康が築城を命じた名古屋城 名古屋城と言えば天守。その大きさは全国屈指 家康が江戸幕府を開府した1603年(慶長8年)、尾張国の中心は斯波氏が尾張守護だったときから長らく居城とされてきた清須城でした。関ヶ原の戦いのときに清須城主だった福島正則はこの戦いののちに安芸に移封となり、家康四男・松平忠吉が52万石で清須城に入城しました。しかし、1607年(慶長12年)に忠吉は早世したため、九男・徳川義直がわずか8歳で清須城主となります。実際…

【家康の城】二条城 徳川の権威の象徴!

…権威の象徴として京に築城した二条城は、幕末まで様々な出来事や大きな転換点を見守ってきました。家康時代の二条城はいまとはかなり違う姿をしていたと考えられています。どのような城だったのか見てみましょう。 京での権威の象徴 二条城は歴史の大きな転換点を見守ってきた かつて「二条城」と呼ばれた城は歴史上に複数存在します。室町時代に織田信長が将軍足利義昭のために築城したいわゆる「旧二条城」、豊臣秀吉が1583年(天正11年)に京における拠点として築いた「二条第(妙顕寺城)」、そして徳川…

【家康の城】江戸城 世界有数の一大城郭と城下町!

…われています。大きく築城を行うのは1603年(慶長8年)の将軍宣下を受けてからになります。つまり、将軍になった後にその城としてふさわしい形に大きく作り替えていったのです。 国家プロジェクトでの築城 江戸城にも最先端技術が導入され、国家プロジェクトで築城された 最初の工事は、神田山を切り崩して日比谷入江を埋め立て、前島を堀割して道三堀や平川へと接続させる工事で70家の大名に手伝い普請を命じています。諸大名は石高に応じて1000石に一人の割合で人夫を出すこととなりました。つまり、…

【家康の城】駿府城 家康初となる石垣づくりの近世城郭!

…府城 家康は駿府城を築城し、晩年を駿府で過ごした 駿府城と家康のかかわりは二つあります。一つは駿府城を築城した天正期と、もう一つは将軍職を譲った後の1607年(慶長12年)以降(慶長期)です。現在、駿府城公園にみられる堀をはじめとする遺構や復元された門・櫓などは慶長期以降のものです。慶長期以降のものは後述するとして、ここでは天正期に駿府城を築城するに至った経緯について書いていきます。 家康は1585年(天正13年)に駿府城を築城し、浜松城から移ったといわれています。徳川家康時…

【家康の城】浜松城 家康が大いに学ぶ機会となった城!

…り) 家康が浜松城を築城する前は方形館と思われる城で引馬城と呼ばれていました。家康在城時の浜松城の具体的な姿はまったく不明確ですが、古文書や出土遺物などから、引馬城から現在の本丸に向けて城域が拡張されたことが窺えます。また、家康が築城した浜松城は土造りの城で、石垣や天守などの瓦葺建物はなかったとされています。三の丸を整備して城下町を拡張したのは、家康が駿府城に移ったのちの堀尾吉晴時代かさらにそれ以降の譜代大名が城主のときなので、家康時代の浜松城は江戸時代の絵図にある「古城」=…

【家康の城】岡崎城 徳川家康の人生はここから始まった!

… 岡崎城の基本情報 築城者 西郷頼嗣 築城年代 1452年(享徳元年)~1455年(享徳4年)ごろ 別名 龍城、龍が城 分類 梯郭式平山城 家康にまつわる出来事 1542年(天文11年)に岡崎城で誕生。人質時代を過ごしたのち、今川氏から独立して岡崎城を拠点とした 歴代城主 西郷頼嗣→松平清康→松平清康→田中吉政→本多家→水野氏→後本多氏 まとめ 岡崎城は家康が誕生した城で、今川の支配から独立した城でもあります。その後は三河を平定して領国経営の拠点としました。そういう意味では徳…

城葱さんの「城もなか」道中記【関東編#2】

…な印象の皮。 烏山城築城600年を記念して制作されたもの。パッケージは、シンプルではあるが、高級感がある。 城もなかのネーミングパターンとして特殊なタイプの城もなかであり、皮は間違いなくお城の天守または櫓を模したものなのに、名前は「城下町もなか」というスタイル。皮の形への着眼ではなく、お城の形をしたもなかを城下町で売っていますというような、販売場所へ着眼した命名なのだろうなと解釈しています。このほかに岸和田城の城もなかも「城下町もなか」という名前です。 あんは粒あん。これも比…

ガイドブック「国指定史跡 柏木城跡」のご紹介

…するなど戦国期最新の築城技術を採用していることや、会津と米沢を結ぶ街道をおさえる構造を有し領国防衛の考え方を知るうえで貴重な史跡であることなどが評価され、今年3月15日に国指定史跡となりました。そして今回、国史跡指定を記念して、当時の歴史背景や発掘調査の結果、城跡の特徴などを盛り込んだガイドブックを作成いたしました。ガイドブックを片手に、柏木城跡を散策していただければ幸いです。 プレゼントの応募受付は終了しました。ご応募いただいたみなさんありがとうございました! kojoda…

【戦国軍師入門】蜂須賀正勝――「野盗の親分」、実は外交折衝の達人

…として有名な安土城の築城にも関わっていたのだから、彼が大変に重宝がられていたことがよくわかる。そんな正勝の働きは実際にはどんなものだったのだろうか? 元「野党の親分」というイメージからは、合戦や諜報など、情報収集と腕力による活躍が想像される。もちろん正勝は戦場でも多くの武勲を上げているのだが、それ以上に多いのが外交折衝での活躍だった。 秀吉は降伏した相手は無闇に殺さなかった武将として名高いのだが、実はそうした評判を作るのに大いに貢献したのが彼、蜂須賀正勝だ。特に中国方面を攻略…

【戦国軍師入門】山本勘助――すべてが謎に満ちたオカルト軍師

…などを学び、その後に築城術、つまり城の建築や城攻めの技術をかわれて信玄に仕える。外見としては、片目と足が不自由で風来の上がらない男だったという。 『甲陽軍鑑』には、勘助が出陣した戦いとして3つの合戦が挙げられている。「碓氷峠の戦い」、「戸石合戦(砥石合戦とも)」、そして「第4次川中島の戦い」だ。この他に「上田原の戦い」でも策を講じて勝利に貢献したとされているが、この時出陣したかどうかはさだかではない。 まず、現在の群馬県と長野県の狭間の峠で行われた「碓氷峠の戦い」。これは勘助…

【戦国軍師入門】石垣原の戦い――黒田官兵衛、最後の賭け

…義統の軍が東軍側の杵築城を攻めたために官兵衛はその城を救援に向かい、途中の石垣原という溶岩がゴロゴロと転がっていたところで決戦となる。兵力では官兵衛側が勝ったものの、義統の元には大友の旧臣たちが集結して奮戦し、かなり手こずらせたようだ。しかし、結局は官兵衛が圧倒的な勝利を飾り、義統は降伏する。これが奇しくも9月15日、関ヶ原で決戦が行われた日のことだった。 その後、官兵衛は西軍側の城を攻撃していくが、安岐城を落として富来城を攻めていた時に、彼の元に報告が入る。9月15日、東軍…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城にまつわる面白い話①――秀吉の一夜城・墨俣城

…家など名だたる重臣が築城に失敗していた。 これに挑んだのが秀吉である。彼は川上交通で活躍する蜂須賀小六(はちすか ころく)ら近隣の野武士たちの協力を受けた上で、奇想天外な作戦に出た。普通ならば木材を現地に持ち込んだ上で工事をするところ、あらかじめ各種の部材に切り分けた木材を、小さいものは担いで運び、大きなものは筏にして川に流す、という手法をとったのだ。現地に届いた木材はすぐさま組み立てられた。さすがに1日ではできないが、2~3日で工事は完成し、敵方を大いに驚かせたという。 こ…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく⑩――内部分裂で落ちた城・七尾城

…8年(正長元年)頃に築城されたらしい。「天宮」と呼ばれた堅固な山城であり、そこからは七尾湾や港町が一望できたという。能登畠山氏は戦国の動乱の中で上杉氏に滅ぼされるが、その上杉氏も織田軍によって能登より追われ、この城には織田家臣の前田利家が入る。そして、時代の趨勢が泰平に移る中で、山城の例に漏れず廃城となってしまった。 能登畠山氏が滅んだ最大の理由は、当主の発言力が失われて老臣たちが実権を握るようになったことだ。しかも彼らは織田信長派と上杉謙信派に分かれており、中でも専横が目立…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく⑧――わずかな兵に乗っ取られた城・稲葉山城

…、斎藤氏の城だった。築城されたのは1201年(建仁元年)と古く、鎌倉幕府の吏僚であった二階堂行政(にかいどう ゆきまさ)が築城主である。これが美濃守護代の斎藤氏の居城となり、その家臣である長井氏の城となって、長井氏・斎藤氏を下剋上で滅ぼした斎藤道三の居城となる、という経緯をたどった。 ところがこの斎藤氏は道三の孫・斎藤龍興(さいとう たつおき)の代に、道三の娘婿にあたる織田信長によって攻め滅ぼされてしまう。信長は稲葉山城に入ると、この城および城下町を古代中国の故事に基づいて「…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく⑦――支城を失い、戦意を失った城・観音寺城

…山(きぬがさやま)に築城された山城で、近江の佐々木氏の嫡流である六角氏が居城とした。東の麓には中山道を見つめ、西には琵琶湖の内湖を見る交通上の要所を押さえており、後に隣の安土山に織田信長が安土城を築いたのも納得の重要拠点といえる。 繖山は南北朝時代からも山砦として使われてはいたが、本格的に城が築かれたのは戦国時代になってからで、全盛期とされる六角定頼(ろっかく さだより)とその子・義賢(よしかた=承禎)の時代に改築されて壮大な石垣(当時普及を始めていた新兵器・鉄砲に対抗するた…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は⑥――武田信玄・上杉謙信を撥ね除けた城・小田原城

…の地頭となった武将が築城したのが始まりだといわれている。戦国時代の黎明期、1495年(明応4年)には北条早雲が当時この城を居城としていた大森氏を攻め滅ぼし、以後小田原城は戦国時代を通じて北条氏の居城となった。 北条氏の時代、小田原城は幾度にもわたって拡張と整備が行われ、その規模は天正年間に最大級に達した。石垣ではなく土塁と空堀の「土の城」ではあるが、当時としてはまれに見る巨城であり、城下町を丸ごと包みこむ約12キロの大外郭が特徴であった。のちには豊臣秀吉の率いる大軍の前に白旗…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は②――耐えて状況を動かした城・月山富田城

…る要塞となっている。築城時期は不明だが、鎌倉時代より以降、出雲の守護代が居城として使っていたものであるらしい。時代が戦国乱世に突入した頃、出雲守護代をつとめてこの城に入っていたのは尼子経久である。彼は一時期守護代の座とともにこの城を追われていたのだが、1486年(文明18年)に奇襲を仕掛けて城を奪回。以後、ここを拠点に勢力を広げ、周防の大内氏と並ぶ中国二強の一角にまで成長する。 しかし、そんな中国地方の二強時代は毛利氏の急成長によって終焉する。大内氏が内乱を経て倒れた後、尼子…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は①――理想的な籠城戦で持ちこたえた城・吉田郡山城

…3年)に当主の時親が築城したとされている。当初は小さな山城だったが、築城以来長く毛利氏の居城として使用され、毛利元就が十三代当主となり入城すると郡山全体を要塞化した巨大な城に拡張された。やがて豊臣秀吉による天下泰平の時代が到来し、毛利氏が豊臣政権の重鎮となって大きな発言力を有するようになると、統治には不便な吉田郡山城も実質的に役割を失う。毛利氏は新たな居城として広島城を築いて移住、吉田郡山城は廃城となったのである。 戦闘用の山城である吉田郡山城がその真価を発揮したのは、154…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑩――戦うことなく炎に消えた城・安土城

…の丹羽長秀に命じて、築城を開始させた。信長が天下布武の拠点として築いた城ということもあって、彼が自ら普請の指揮をとることもあったという。 壮大な石垣はこの以後にすらまれに見る規模であり、五層七重の天守閣(信長は「天主」と称した)は白、黒、朱、青などそれぞれの階で配色が異なり、最上階は黄金に輝いていたという。また、近畿の各地から大工や職人たちが集められ、外装も内装も徹底的に装飾が施された。内側の話をすると、なんと安土城の内部は空洞の吹き抜けになっていて、一番下には多宝塔があり、…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑨――見捨てられた城・上月城

…鎌倉時代の正治年間に築城されたといわれている。南北朝時代にはここを居城とする赤松氏によって増改築され、以後何度かその主人を変わった。播磨・美作・備前三ヶ国の境にあたり、かつ因幡にも通じることから、中央から中国地方の奥に進むにしても、あるいはその逆をたどるにしても、必ず押さえておかなければいけない要地といえる。戦国時代後期、羽柴(豊臣)秀吉の率いる織田軍が中国侵攻を進めた際には毛利氏傘下の赤松政範が拠点としていたが、秀吉によって攻め滅ぼされる。 その後、秀吉の命を受けて上月城主…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑥――水攻めに耐えた城・忍城

…た武将を攻め滅ぼして築城したのが始まりといわれている。忍城は荒川と利根川が氾濫を繰り返した結果として自然に生まれた忍沼という巨大な湖沼地帯の只中にあり、城とその城下町はその中に浮かぶ島のような場所にあった。いわゆる「浮島」と呼ばれるタイプの城だったわけだ。 もちろん川や沼は天然の防壁であったし、城自体も土塁・池沼・深田によって区分けされた複雑な構造を有して、非常に守りやすい城であった。そのため、「関東七名城」のひとつに数えられている。戦国時代を通して成田氏が城主であり、上杉氏…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑤――勇ましくも美しき女武将の活躍した城・安濃津城

…改築を行った。高虎は築城の名人として知られる人物であり、城を拡張したのはもちろん、城下町も整備した。これによって津(安濃津)の町は再び隆盛を見せることとなったのである。 関ヶ原の戦いの頃の城主・富田信高(とみた のぶたか)は、もちろん豊臣家臣だ。しかし、どうやら西軍の中心人物である石田三成との間に確執があったらしく、家康に従って東軍に属し、謀反の疑いをかけられた上杉氏の征伐にも参加している。三成が挙兵をすると、信高ら伊勢の城主たちは西軍の侵攻を警戒し、家康の命を受けて帰国する…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ④――後詰決戦と野戦築城で守られた城・長篠城

…ったのは、鉄砲だけでなく兵、槍、弓、馬などすべての面において、数量が武田軍のそれを上回っていたこと、そして合戦前に作り上げていた「城」にあったようだ。とはいっても、建物としての城ではない。陣取った丘陵の斜面やそこを流れる川を自然の防衛手段として活用しつつ、空堀を掘り、土塁を築き、柵を立てて、ある種の野戦築城を行ったのである。ただでさえ物量に劣っていたのに、これで武田軍が勝てるはずもない。いわゆる「戦国最強武田軍団」は、鉄砲ではなく「城」に負けたのである。 kojodan.jp

丸岡城へ重ね捺し御城印スタンプラリーの取材に行ってきました

…た神社で、柴田勝豊が築城する際に現在地に移転しました。そういう意味でも丸岡城の歴史には欠かせない存在ですね。 入ってすぐのところに机を出してくださってます。 collection.kojodan.jp 城小屋マルコ そして最後は城小屋マルコです。 お城ファンが集えるようにと丸岡城天守を国宝にする市民の会によって運営されているカフェです。店内に入ったところにあるテーブルにスタンプを置いてくださっています。 collection.kojodan.jp 城小屋マルコを最後にして、こ…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】地形に合わせて縄張をする

…も多かったようだ。 築城過程は、主に土木工事である「普請」と建築工事である「作事」という二つの言葉で表される。普請は地面を削ったり盛ったり均したりして平らにし、さらに堀を掘って土塁や石垣を築くのが主な作業だ。土台工事、と考えればほぼ間違いないだろう。その上に各種の構造物・建造物を築くのが作事である。城全体の構造に大きな影響を与える普請のほうが、その上物を作るに過ぎない作事よりも重要視され、前者は兵学を修めている武士が指揮して行ったが、後者は大工たちに任せられたようだ。 実際の…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城造りと信心

…だろう。 このような築城と呪術のかかわりあいを象徴するのが軍師の存在だ。私たちは軍師といえば『三国志演義』の諸葛亮に代表されるような天才的策略家をイメージするし、戦国時代にも同じような意味での軍師が多くいたかのように思ってしまいがちだ。しかし、そのイメージは江戸時代に軍楽や軍記物が流行してから形作られたもの、という部分が大きいようだ。もちろん、各種の策略を考える軍師もいたろうが、それは彼らの役目の一部に過ぎなかった。実際の軍師は各種の特殊技術を活用するスペシャリストという面が…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の作り方――最初の一歩は土地選びから

…、城そのものの強さ、築城技術によって防御力を高めた「城堅固の城」、地形の防御力を活かした「所堅固の城」、領民や国人たちとの関係、国内の支城との連携によって堅い守りとした「国堅固の城」がある。この三つがそろえば完璧だが、なかなかそうはいかない。今回作る城はこのうちどれに要点を置くべきか? 居城ならば「国堅固の城」であるべきだし、境日の城とするならば「所堅固の城」にしたい。しかし、事情が許さないのであればできうる限り「城堅固の城」とする……このように考え、判断する必要があった。 …

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】天守閣と高層石垣の近世城郭――「戦国の城」の終わり

…・水堀をはじめとする築城の技術を加藤清正をはじめとする子飼の諸大名に教え、各地で壮麗な近世城郭を築かせたとされる。秀吉の死後、関ヶ原の戦いで天下の実権を握った徳川家康は、江戸城、名古屋城、二条城といった城々を、諸大名たちを動員する「お手伝い普請」「天下普請」によって石垣の城として築く。 またこの江戸時代初期には、全国の諸大名も本拠地の拡張・支城の建設に励み、ある種の築城ラッシュの時代が訪れる(ただし、東国では石材の確保が難しく、石垣の城は珍しかった、とも)。徳川家康と彼が作り…

【2021/2022】年末年始にお城は営業してる?(全国のお城の営業状況調査)

…31日は休業 ○ 湯築城 愛媛県松山市 休みなしで営業 ○ 福岡城 福岡県福岡市 城址は常時公開 ※鴻臚館跡展示館・福岡城むかし探訪館・三の丸スクエアは12月29日〜1月3日まで休館 ○ 佐賀城 佐賀県佐賀市 城址は常時公開 ※佐賀城本丸歴史館は12月29日〜1月1日まで休館 ○ 吉野ヶ里 佐賀県吉野ヶ里町 12月31日は休業 ○ 名護屋城 佐賀県唐津市 城址は常時公開※12月29日~1月3日は佐賀県立名護屋城博物館は休館 ○ 島原城 長崎県島原市 休みなしで営業 ○ 人吉城…

【画像73枚】名古屋城・西の丸御蔵城宝館の見学レポート

…初日からは名古屋城の築城をテーマにした特別展がはじまります。今回招待いただいたのはその内覧会でもあったのですが、最初の展示ということもあり数ある資料から築城、とくに石垣普請についてのものを集めて紹介されています。 ほとんどすべての展示物の写真を撮ってきましたので、それを載せつつぼくが伺った内容を紹介していきましょう。 オープン後、展示室内の写真撮影は禁止だそうです 第一章 清須から名古屋へ 最初にあるのが「徳川家康坐像」(名古屋城総合事務所蔵)です。(以下、とくに記載のないも…

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