攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

譜代大名 の検索結果:

【家康の謎】徳川家康はなぜ天下を取れたのか?

…が開かれた後は各地の譜代大名および旗本・御家人として幕府を取り仕切り、約二百五十年の太平を支えたのである……。 こちらの通説についても「正直怪しい」というのが実際のところであるし、大河ドラマ「どうする家康」を一年見てきた皆さんは賛成してくれるのではないか。別に三河武士たちは松平(徳川)のもとで一致団結なんてしないのである。彼らそれぞれに事情があり、目的があり、主君に要求もしてくる。大名(武将)たるもの、そんな彼らをコントロールするためにできる限りのことをしなければならない。戦…

【家康の謎】三河譜代ってなに?

…が出てくる。つまり「譜代大名」の譜代だ。江戸時代の大名(いわゆる徳川大名、もしくは近世大名)は、大きく分けて三つあったとされる。すなわち、親藩大名、譜代大名、外様大名だ。このうち、親藩大名はざっくりいえば家康の「親」族、すなわち徳川一族の大名だから明確に別物である。 一方、譜代大名と外様大名は家康(ひいては歴代徳川将軍の)家臣という意味では同じだ。違いは「いつから徳川家に仕えていたか」にある。これもざっくり言ってしまえば、関ヶ原「以前」が譜代で、関ヶ原「以後」が外様である。つ…

【家康の謎】徳川四天王は誰が決めたの?

…めて認識するようなことはなかったのではないか。こうなると、「徳川四天王」という呼び名が、彼らが生きた時代にあったとはちょっと考えづらい。じっさい「徳川四天王」という呼び名の発祥は不詳であるようだ。誰がこのように命名し、4人を選んだのかはわからないが、江戸期を通じて巷に広がったのだろうと想像はできる。徳川四天王の家系である本多、酒井、榊原、井伊の四家はそれぞれ高禄の譜代大名として江戸時代に残っていった。彼らの子孫の立場から逆算して、「徳川四天王」という名前がついたのではないか。

【家康の謎】家康は倹約家だったの?

…か(幕政を取り仕切る譜代大名の所領は小さくして独走・暴走を抑え、幕政にかかわらせない外様大名は所領を大きくして不満を持たせない)とも考えられる。 とはいえ、同時代やその少し後を生きた人々が、家康のことを倹約家と考えていたのは間違いない。例えば、座敷で相撲をするということになった際、家康はわざわざ畳を裏返しにさせた。なぜかというと、表にしたままだと畳が痛むからである(『駿河土産』)。また、厩が壊れたから建て替えようと家臣に言われた際には「その方が馬が強くなるからやめろ」と言った…

細川竜太郎さんの姫路城攻城レポート

…れた。池田氏に始まり譜代大名の本多氏・榊原氏・酒井氏や親藩の松平氏が配属され、池田輝政から明治維新時の酒井忠邦まで約270年間、6氏31代が城主を務めた。現存12天守の1つである。 大天守と西小天守 備前丸からみる大天守 天守の鯱 大天守から化粧櫓のある西方向の市街地を望む 「暴れん坊将軍」のロケでも使用された、はの門下坂 天守から南の大手前通りを望む 西の丸 「播磨姫路城絵図」(国立国会図書館デジタルコレクションより引用) 著者プロフィール 細川竜太郎1978年、福岡市生ま…

【家康の城】浜松城 家康が大いに学ぶ機会となった城!

…移ったのち浜松城には譜代大名が入れ替わり立ち代わり入城しますが、老中をはじめとした幕府の閣僚が排出されていきます。出世城と呼ばれる所以であり、幕府要職への登竜門となったのです。 大改修して「浜松城」に 家康時代の浜松城想像図(現地案内板より) 家康が浜松城を築城する前は方形館と思われる城で引馬城と呼ばれていました。家康在城時の浜松城の具体的な姿はまったく不明確ですが、古文書や出土遺物などから、引馬城から現在の本丸に向けて城域が拡張されたことが窺えます。また、家康が築城した浜松…

室町幕府で三管四職をつとめた有力守護家はやっぱりすごかった

…吉宗の側近になって、譜代大名になった。 一色氏 ・一色氏は丹後を本拠地にしていた本流が細川忠興に滅ぼされた。庶流からは家康側近として活躍した僧侶・以心崇伝が出た。彼の従兄弟の家は信長・家康・秀吉と仕えたが、結局断絶している。ただ、庶流の中には大名になった家もあり、甲斐武田家に仕えて土屋を名乗った家は武田滅亡後徳川家に仕え、老中も輩出した。 山名氏 ・山名氏は戦国大名としては織田・毛利らに圧されて衰退し、本流は滅亡。しかし山名豊国(とよくに)が信長・秀吉・家康らに仕え、大名に満…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】悲劇の舞台③――玉砕の舞台になった城・高遠城

…収めた。江戸時代には譜代大名が入ったため、城主(藩主)はたびたび変わっている。 武田氏を攻め滅ぼしたのは信長の嫡男・信忠の率いる軍勢であった。しかし、武田方にとって大きな問題になったのは、重臣たちの度重なる裏切りである。もともと織田方が武田攻めに踏み切ったのは信濃の木曽氏が内応したからだ。さらに、美濃方面から攻めて来る信忠に備えて高速城の北方に位置する諏訪に出陣していた武田氏当主・武田勝頼が甲斐に戻ったのは、遠江方面の徳川軍に備えて江尻城を守っていた穴山信君(梅雪)が裏切った…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ①――夜襲で決着した「後詰決戦」・ 河越城(川越城)

…たため、江戸時代には譜代大名が入って北の守りを担うことになった。 1545年(天文14年)、この城をめぐって北条氏と関東地方諸勢力との間で行われた戦いは「河越夜戦(かわごえよいくさ)」の名で知られ、数ある「後詰決戦」のエピソードの中でも特にドラマチックなものとして知られている。そもそもの始まりは、北条早雲を祖とする北条氏が関東地方においては新興勢力であったにもかかわらず、急成長を遂げていたことである。 この勢力は、元は駿河・今川氏に一城を与えられたに過ぎなかった。しかし、伊豆…

日本史における「変」と「乱」について対談しました

…ともに、水戸徳川家と譜代大名筆頭・井伊家の権威が失墜した。尊王攘夷運動が激化するきっかけに 江戸時代 1862年(文久2年) 坂下門外の変 公武合体を推進した老中・安藤信正が江戸城坂下門外で襲撃され負傷した事件。桜田門外の変に続く幕閣の襲撃事件は幕府権威の失墜を加速した 江戸時代 1863年(文久3年) 朔平門外の変 攘夷派の公家・姉小路公知(あねがこうじ きんとも)が、禁裏朔平門外の猿ヶ辻(さるがつじ)で暗殺された事件。猿ヶ辻の変(さるがつじのへん)とも。容疑者が自殺したた…

【殿様の左遷栄転物語】第5章まとめ 後ろ盾をなくしてしまえば……

…引き立ててこそ、名門譜代大名たちが独占している幕政の要職に割り込み、思うように政治を動かすことが許されたのである。 だからこそ、彼らは強い非難にも晒された。名門の譜代大名たち、旗本たちからすれば、彼らは「よそ者」であり、本来なら自分たちと並ぶことなどありえず、ましてや上に立つことなど絶対に許されない、屈辱だ、と考える。そのために、成り上がり者たちは独自の派閥を形成し、また人間関係に気を配っていく必要があっただろう。だが、それでも限界はある。 で、あるならば、後ろ盾の将軍がいな…

【殿様の左遷栄転物語】新参者の大活躍 田沼意次の時代

…政を独占してきた名門譜代大名の保守派たちが黙っていられるはずもない。しかし、意次には将軍の絶対的な信頼があり、また老中や側用人、親藩大名といった有力な家から息子の嫁をとったり、娘を嫁入りさせたり、息子を養子に送り込んだりといった形で縁戚関係を結び、人脈を形成することで権勢を維持していたようだ。 この辺、戦国時代に「足軽から関白」という日本史上に残る大出世を遂げた豊臣秀吉が「人たらしの達人」と呼ばれ、さまざまな物語において人当たりがよくて付き合いのうまい好人物として描かれている…

【殿様の左遷栄転物語】徳川家宣の時代 間部詮房

…職に就くような名門の譜代大名や旗本たち)は、同じ武士の陪臣に対してさえ優越意識を持っていただろうから、陪臣出身でかつ元猿楽師の詮房には相当な敵視・蔑視をしたであろうことは想像に難くない。大名によっては、そもそも「同席したくない」と言い出した者さえいるのだ。 それでも、詮房は無私公平の人であり、年に数回しか自宅に戻らないような猛烈な働き方をしたとされる。その働きぶりも非常にまじめで人の話もきちんと聞き、綱吉時代以来のさまざまな問題を、後述する新井白石とのコンビネーションで切り抜…

【殿様の左遷栄転物語】綱吉の独裁、牧野成貞

…の重職に就けるような家格ではなかった。さらにその後も外様大名家から側用人が選ばれており、従来幕政を独占していた名門譜代大名から政治を取り戻そうという綱吉の強い意志が感じられる。――が、結局のところ彼らはみな早い時期に職を辞してしまい、長く側用人として権勢を振るったのは成貞・吉保という神田御殿出身のふたりだけであった。 このあたりに、人事を駆使して自らの思う運営をしたいワンマン社長と、それについてこれない部下たち、というこれまた現代でもありがちな光景が見て取れるような気がする。

【殿様の左遷栄転物語】第4章まとめ 独立運動にも背景がある

…思われる。本来は名門譜代大名として遇されるべき自分たちが、あくまで一陪臣として扱われるのはおかしい――そのような意識があり、彼らは独立運動、家格上昇運動を始めたわけだ。 しかもそれが幕末の動乱期における重要な事件のひとつ、「安政将軍継嗣問題」にまで連なってくるわけだから、歴史というのは確かにつながっているものだな、としみじみ感じていただけるのではないだろうか。 内紛に事情あり これはそのまま、現代の私たちを取り巻く状況にもいえる。組織内の内部抗争にも、あるいは組織と組織の対立…

【殿様の左遷栄転物語】北ノ庄藩越前松平家と高田藩松平家の付家老たち

…えた。 一方、成重は譜代大名として取り立てられ、加増もあって4万6千石余の丸岡藩主となった。ところが4代目の重益(しげます)は仏教と酒色に夢中になるあまり藩政をおろそかにし、結果として後継者問題をめぐっての藩内抗争を起こさせてしまったため、領地没収の憂き目にあった。しかし、お家断絶にはならず、2千石の旗本として存続している。 幕府の思惑と付家老の役割 越前松平家の付家老を務めた2つの本多家のその後について、皆さんはどう感じられただろうか。これまでの流れから違和感がある、と思わ…

【殿様の左遷栄転物語】付家老の宿願ーー独立

…御三家の政治を助ける譜代大名」のような存在だったのではないだろうか。しかし、そのようなあいまいな立場の存在が許されるのも、あくまで政権初期の制度がきっちりと構築されていない時期までのこと。次第に幕府の制度が確立していき、また武家が厳密な家格によってその立場を判断されるようになると、付家老たちは「万石以上の所領を有してはいるが、あくまで陪臣」でしかなくなる。 彼らには特権として「先代から家督を継承すると同時に家老になる」「大名と同じように江戸屋敷を与えられる」「(家によって事情…

【殿様の左遷栄転物語】第3章 廃嫡される跡継ぎ 派閥争いのとばっちり左遷

…かかわりのある親藩・譜代大名はともかく、もともとは徳川家と同格の大名であり、また徳川の天下になる前には豊臣家に臣従していた外様大名たちとしては、お取り潰しを免れるために「豊臣家の味方をするなどの形で謀反をする気はありませんよ」とアピールしていかなければならなかった。 その視点で考えれば、たとえば秀吉と親しく付き合った過去のある人間を跡継ぎにしたりすると幕府に警戒されるのでは、と思えてくる。また、家康の娘を妻に迎えて、彼女が産んだ子を跡継ぎにすれば徳川との縁が深まって取り潰され…

【殿様の左遷栄転物語】政争で潰された大名① 小田原藩大久保家

…ではない。ここからは譜代大名――それも、政争に敗れた家のドラマを追いかけたい。 大久保家は下野国の宇都宮家から分かれた血筋であるという。この一族は特に兄弟が多く、「大久保党」と呼ばれる集団として代々徳川家に仕え、活躍した。そうした数々の功績に報われる形で、1590年(天正18年)にはかつて北条家の本拠地であった相模国小田原に大久保忠世が4万5千石を与えられ、大名となっている。4年の在任ののち、忠世が病気のためこの世を去ると、彼の息子である忠隣が跡を継ぐことになった。 忠隣は幼…

【殿様の左遷栄転物語】第2章 目指せ「お家再興」 失職したけど地位を回復

…川家臣が大名となった譜代大名もまた、少なくない数が改易を受けている。 そのような改易の流れも5代将軍・綱吉の頃で一段落して、改易の数はぐっと減る。また、そもそも「当主が死罪で家は改易、お家復興の道は完全に閉ざされる」というケース自体が大坂の陣・島原の乱のあとは見られなくなって、何らかの形(小大名、旗本、藩士、あるいは大庄屋など)で、お家再興を遂げるケースは決して珍しくない。この章で紹介するのは、そうした再興大名たち――現代風にいうなら、「一度左遷あるいは失職したが再びある程度…

【殿様の左遷栄転物語】米五郎左の息子 丹羽長重

…通じて基本的に親藩・譜代大名が多く配置されており、その中で丹羽家という外様大名が一時的ながらも置かれたところに、家康の長重に対する評価を垣間見る向きもある。 その後の長重は大坂の陣で活躍し、陸奥国は棚倉5万石、さらに陸奥国白河10万石余ヘとたびたび加増・転封を受けた。こうして加増を受ける中で、長重はかつて離散した家臣団を呼び戻した、とされる。ちなみに、棚倉・白河両藩の藩主は丹羽家の後はずっと譜代・親藩大名しか入っていない。この点にも、丹羽家への(及び、丹羽の前に棚倉藩主だった…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府14代・徳川家茂――血筋で選ばれた貴族的将軍 1846年~1866年

…問題で血筋を重視する譜代大名らが彼を担ぎ上げたのは、この将軍家との血筋の近さが理由だった。家茂は穏やかな性格の持ち主で下からの人気もあり、貴族的な容貌の持ち主だった。1858年(安政5年)に将軍として擁立されたが、このときは弱冠14歳だったため、御三卿の田安慶頼(たやす よしより)が後見人としてついている(3年後に解任)。活発な少年で、しばしば虫や動物などを追いかけては家臣たちを困惑させたという。 幕末の動乱期の将軍だけあって、家茂の治世は当初から波乱含みであった。彼を将軍に…

最上義光が山形城に瓦葺きの本丸御殿を築いた理由

…たのち入城した親藩・譜代大名が整備したものである。江戸期になると山形城は会津若松城と並んで伊達家への重要な抑えとなった。だから、逆に江戸初期に高石垣で武装することになった。たとえば、家光の異母弟・保科正之は、高遠→山形→会津と転封を重ね、兄のため文字通り徳川の藩屏となる堅城を築いた(そして、それが200年後に戊辰戦争における会津の悲劇を生むことになるとも知らずに)。 過去の名門の矜持を胸に、成り上がりの豊臣政権への文化的キャッチアップをはかった最上の意気地、その豊臣政権から権…

【戦国時代の境界大名】水野氏――天下の趨勢を見極めながら動乱を生き抜き、譜代大名の中核に

水陸の要衝・知多半島 水野氏は尾張国(愛知県)の南に突き出る知多半島北部を中心に勢力を持った国衆である。源頼朝に仕えた2代重清が、春日井郡山田庄水野(愛知県瀬戸市)に移ったことがその名の由来であるという。戦国乱世においては三河国(愛知県)西部の刈谷(同刈谷市)に進出してここを拠点とする一方、知多半島の南部にも進出、勢力拡大に努めている。この時期の知多半島には支配者というべき勢力がおらず、中小勢力による群雄割拠状態になっていた。 といっても、知多半島が価値のない場所だった、とい…

【戦国時代の境界大名】真田氏――時代の趨勢そのままに主君を変える

…家に分かれ江戸時代に入ったが、沼田真田家はのちに領内騒動で改易されている。松代藩は江戸城帝鑑間詰の譜代大名扱いで、とくに幕末に養子に入り家督を継いだ真田幸貫は、寛政の改革で知られる松平定信の実子であることもあってか、老中になっている。幸貫は洋学者・佐久間象山を登用するなど佐幕派のなかでも開明的だったが、彼の病没後に松代藩は迷走して尊王思想へと偏り、象山も京で尊攘過激派に暗殺されてしまう。結局、松代藩は早期に倒幕派へと与し、戊辰戦争でも新政府軍に参加した。 kojodan.jp

【戦国時代の境界大名】諏訪氏――武田に滅ぼされた名族がその出自故に蘇る!

…高島城(諏訪市)を本拠としたため、信濃高島藩となった。 その後さらに5千石を加増されるが、うち2千石は頼水の孫の忠晴の時に弟2人に1千石ずつを分け与えて分家させたことから、高島藩3万石の譜代大名として幕末まで続いていくことになる。幕末には諏訪忠誠が若年寄兼外国御用取扱を経て、老中にまでなった。しかし、この経歴を見ればわかるように外国の事情に明るかった忠誠は第一次長州征討に反対、老中を辞める。戊辰戦争においても新政府軍側につき、近藤勇の甲陽鎮撫隊と戦った。 kojodan.jp

【戦国時代の境界大名】井伊氏――大勢力の狭間で内紛と戦乱の危機を乗り越える

…いては幕政にあずかる譜代大名はだいたい数万石程度で小領、時には数十万石に及ぶこともある外様大名は幕政に口を出すことを許されぬ、という形でバランスをとっていたとされる。にもかかわらず、井伊氏は彦根35万石の大領を与えられていた。幕臣最上位の職である大老を最も多く務めてきたこともあって異例の厚遇を与えられ、また発言力を備えてきたのが井伊氏であるといっていいだろう。 その近世大名井伊家の祖といえるのが、井伊直政(1561―1602)である。赤備え(武装を赤で揃えた部隊)の精鋭を率い…

【江戸時代のお家騒動】津和野騒動 藩主直臣VS尼子旧臣の争い

…。勘解由らは尼子氏の譜代大名として活躍していた者たちで、主家が滅んだ後もその再興を願って活動してきた。大力の祖父にあたる亀井茲矩もそれに協力していた人物で、彼が豊臣氏から信頼を受けていた時代には、尼子氏の再興の望みもあった。 しかし時代が移り変わり豊臣氏の力も潰えると、主家の再興は難しくなり、勘解由らも時代の流れに従い亀井家の家臣として仕えていくことが求められたのである。そのような状況にあって、新参者でありながら権力を手にしている真清と勘解由らの間に対立の構図が生まれるのは、…

【江戸時代のお家騒動】⑥殿様VS門閥譜代家臣の戦い

…えてもらえばいい。「譜代大名」という言葉が有名だが、これは大名のうち徳川家が天下を取る前から仕えてきた、すなわち譜代のものを指す。 太平の時代が長く続き、藩という組織が硬直化していくようになると、自然と彼ら譜代――その中でも代々重職を世襲する名門が力を持ち、「門閥譜代」などと呼ばれるようになる。彼らは実務面という意味ではしばしば大名を凌駕するほどの力を持ったため、門閥同士の主導権争いや、大名と門閥の意見対立などがあると、激しい政治抗争に発展するようなこともあった。 そして、本…

【江戸時代のお家騒動】里見騒動ーー大久保長安事件のとばっちりと見せしめの改易

…ち、家康が関東周辺を譜代大名で固め、外様大名を警戒して遠方へ追いやったことはよく知られている。しかし里見家は、安房国館山藩という江戸を間近に臨む配置にあった。準譜代という立場にあるとはいえ、結局は外様大名だ。関東の一角に置いておくのは、幕府にとって少々居心地が悪いものだったと思われる。 そして第二に、里見家の改易は他の諸大名に対する「見せしめ」の意味が込められていたという。忠義の改易が言い渡されたのは、1614年(慶長19年)の9月――あの「大坂の陣」の直前である。幕府は来る…

フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する