攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

豊臣秀吉 の検索結果:

【戦国軍師入門】大坂の陣――天下の大坂城を裸にした謀略

…導する立場に着くが、豊臣秀吉の子・秀頼と天下の堅城・大坂城は未だ残っていた。幕府を作って日本全体を支配しようという家康の企みにおいて、やはり豊臣家は最大の障害として残っていたのだ。 一方の豊臣側としても、本来臣下であるはずの家康が我がもの顔で采配を振るっているのは我慢のならないことだった。しかも徳川側はあの手この手の方法で豊臣家を挑発し、合戦をそちらから起こさせようとする。 こうした謀略の中で最も有名なのが、1614年(慶長19年)の方広寺の鐘銘事件だ。徳川家は豊臣家が再建し…

【戦国軍師入門】関ヶ原の合戦――100人を倒すより1000人に裏切らせる

…もの発端は、天下人・豊臣秀吉の死だ。これによって石田三成ら文治派と加藤清正・福島正則ら武断派が分裂し、その隙を突いて実力者の徳川家康が動き始めた。家康は東北の雄・上杉景勝を攻めるために諸大名に呼びかけて兵を挙げ、一方で三成は自分と同じ五奉行の増田長盛(ました ながもり)、毛利の使僧の安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)らと語らい、また本来東軍につくつもりだった大谷吉継(おおたに よしつぐ)を説得して西軍を組織する。 この時、三成は自分自身が総大将の地位に就くつもりだったが、その横…

【戦国軍師入門】秀吉の四国征伐――官兵衛の策略でスピード勝利

…と天下統一の道を進む豊臣秀吉は、ちょうどその頃土佐(現在の高知)の長宗我部元親がほぼ統一したばかりの四国に矛先を向けるのだった。 長宗我部家は以前から秀吉に敵対する動きが目立ち、この時も阿波・讚岐・伊予(それぞれ現在の徳島・香川・愛媛)の三国を返上するようにという要求を当然の如く却下する。そこで秀吉は弟の秀長を総大将とする軍を四国に派遣する。それが1585年(天正13年)のことだった。この時、秀吉に臣従していた中国の大名・宇喜多家と毛利家からも兵を出させた。 この時は阿波から…

【戦国軍師入門】秀吉の中国攻め――「両兵衛」による3つの城攻め

豊臣秀吉(木下藤吉郎・羽柴秀吉)といえば、「両兵衛」と呼ばれる名軍師2人をその配下としていたことで有名だ。しかし、この両兵衛……すでに「稲葉山城乗っ取り」で紹介した竹中半兵衛と、のちに秀吉に警戒された黒田官兵衛の2人が共に秀吉の配下にいた時期がごく短かったことはあまり知られていない。半兵衛は秀吉が織田信長の命で中国地方を攻撃している際に病に倒れており、一方の官兵衛が秀吉の配下に加わったのは、まさにその中国攻めの中でのことだったからだ。 この戦いの中で秀吉は幾つもの強固な名城・…

【戦国軍師入門】稲葉山城乗っ取り――軍師・半兵衛、鮮やかなデビュー

…てきた。 しかし、半兵衛はそうした申し出をすべて断り、これは一時預かったものに過ぎない、と言い切った。あくまで主君龍興に反省して頂くためにやったことなのだ、と言うのである。そして実際、半年後の8月になると半兵衛は龍興を呼び戻して城を返し、自分はさっさと隠居してしまう。 手口も鮮やかなら引き際も鮮やか、後の名軍師・竹中半兵衛のデビューとして実に鮮烈なものとなった。数年後、彼は木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)の配下としてその知略を大いに振るうことになるのだった。 kojodan.jp

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城にまつわる面白い話②――秀吉の一夜城(その2)・石垣山城

豊臣秀吉には墨俣城の他にも一夜城伝説をもっている。そのうちのひとつが、小田原城を攻めた際に築いた「石垣山一夜城」、相模の石垣山城(神奈川県小田原市)である。秀吉は全国各地の諸将に命じて小田原城を包囲させた。しかし、かつて上杉謙信・武田信玄の攻撃を撥ね返したこの城が堅固なことは当然知っており、長期戦になるだろうとあらかじめ読んでいた。 そこで秀吉は、小田原城の西方に位置する丘に陣城を築くよう命じた――それが石垣山城であるわけだが、これは先の墨俣城のようなにわか作りのものでは断じ…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城にまつわる面白い話①――秀吉の一夜城・墨俣城

…いたのは木下藤吉郎(豊臣秀吉)である。そもそも以下に紹介する話自体が江戸時代の創作ではないかという説もあるが、城の跡自体は発見されているともいい、少なくとも「墨俣城跡的なものがあり、秀吉がそれを利用して短期間で作ったのでは」というのはそれなりに信憑性がありそうだ。 さて、この城が築かれた頃、秀吉が仕える織田信長は、美濃の斎藤氏との戦いを繰り広げていた。そして、その中で懸念となっていたのが、長良川を始めいくつもの川が合流する美濃は墨俣の地に城を築くことであった。ここは交通の要所…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】悲劇の舞台④――お市の方が最初の夫と死に別れた城・小谷城

…に入れた木下藤吉郎(豊臣秀吉、ここでは秀吉で統一)らを使って、近江の国人衆や浅井家臣団に対する切り崩し工作を進めていたのだ。 1573年(天正元年)、武田信玄の病死によって最大の脅威から開放され、また将軍・足利義昭を京より追いやった信長は、いよいよ浅井攻め、小谷城攻めに本格的に取り掛かる。浅井方は小谷城に籠もり、朝倉勢は義景が自ら出陣して後詰をしようとした。ところがその矢先に小谷城周辺の出城・支城の陥落が続く。織田軍に阻まれ小谷城に近づけていなかった朝倉軍はこの様子を見て引き…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】悲劇の舞台①――夫の仇をとるための奮戦の舞台となった城・鶴崎城

…て夫の敵をとってみせた妙林尼の働きは宗麟に高く評価され、統増にその恩賞を与えたという。また、豊臣秀吉も妙林尼を賞賛し、彼女に恩賞を与えたいと言ったが、妙林尼はそれをかたくなに受け取らなかったとされている。 その後の彼女の消息については不明だ。島津側の将と妙林尼の間にある種のロマンスがあったといい、夫の死やその武将の死を受けて複雑な心の動きがあったのではと見る向きもあるが、確かめようがない。しかし、妙林尼は女城主として立派に役目を果たした、と伝説は伝える。 kojodan.jp

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく⑧――わずかな兵に乗っ取られた城・稲葉山城

…実行者は竹中半兵衛。豊臣秀吉の軍師、「秀吉の両兵衛」の一方として名高い半兵衛だが、彼はもともと斎藤氏の家臣で、この事件を起こして主家を離れた後に、秀吉と出会うことになる。 1564年(永禄7年)、半兵衛は主君である龍興を城から追い出すべく、活動を始める。彼がこのような前代未間の暴挙に及んだのは、好き勝手に振る舞う龍興とその側近たちを諌めたかったのだとも、実は外見を馬鹿にされた私怨だともいうが、実際のところは私憤公憤の入り混じった「日頃の鬱憤が爆発」と考えるのが妥当ではないだろ…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく④――支城を漬され、大名の逃げた城・有岡城

…まれた。町を焼きながら織田軍が本城に迫ってくると、城に残っていた老臣たちは信長との交渉にあたった。その結果、尼崎城と花隈城を明け渡し、村重が出頭するのを条件に、城兵たちの命は助かるということになった。 こうして有岡城は開城し、城兵たちの命は助けられた――で済めば美談なのだが、そうはならなかった。村重は結局、出頭しなかったのである。こうして村重の親族や家臣、さらにはその家族までもが虐殺されたのだが、村重自身はさらに生き延び、豊臣秀吉に茶人として仕えている。 kojodan.jp

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく①――「力の差」に圧倒された城・小田原城

…8年(天正16年)に豊臣秀吉が発した上洛命令に、北条氏が背いたことにある。姻戚関係にあった徳川家康の仲介があり、北条氏政・氏直父子のどちらかが上洛するという約束を取り付けたものの、同年北条氏が上野の名胡桃城を真田氏から奪ったという報せが入る。これは秀吉の定めた惣無事令を違反しているとして、ただちに諸大名に北条氏討伐のため出陣を命じた。 かくして1590年(天正18年)、秀吉の命を受けた西国や北陸の諸大名が出陣、いくつかのルートを経て関東にたどり着き、支城を落としながら小田原城…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】奮戦の舞台③――長宗我部元親の策略と、それを見抜いた黒田官兵衛・植田城

…市)は長宗我部元親が豊臣秀吉による四国攻めに備えて築いた城である。南に山を背負い、正面は谷で、非常に守りやすい作りになっていたようだ。さらに支城として由良山/池田の二城を築き、鉄壁の守りであるかに見えた。ところが、実際に豊臣軍が襲来すると、由良山と池田の兵は鉄砲の音を聞いただけで全く戦わずに城を明け渡し、あっさりと植田城に逃げ込んでしまう。これを怪しんだのが、豊臣軍の軍師・黒田官兵衛だ。長宗我部軍の行動には裏があるに違いない、と読んだのである。 実のところ、これは元親の策略だ…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は⑧――関ヶ原の戦い当日まで持ちこたえた城・大津城

…京極高次で、その妻は豊臣秀吉側室・淀殿の妹である初だ。この境遇からわかるように豊臣氏と関係が深く、それもあってこの重要拠点である大津城を任せられていたのだが、実は早くから徳川家康と通じていたらしい。最初は西軍に従う素振りだった高次だが、家康が会津に出陣するとこれに従い、その後も東軍に味方する動きを見せた。これを知った西軍は大津城を包囲して大砲などで攻撃し、激しい攻防戦が繰り広げられた。 戦いが始まってから数日後、西軍から開城を勧めるため使者が送られてきた。高次にはまだ抗戦する…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は⑦――囮としての役割を果たした城・伏見城

…介しよう。 伏見城は豊臣秀吉が1592年(文禄元年)から指月山に工事を始めた城だ。その2年後には城下町の建設も開始され、城下には大名たちの屋敷が築かれていった。ところが、この城自体は4年後に大地震で倒壊してしまう。その後、木幡山に場所を移して再建され、豊臣政権の政治拠点となった。 秀吉の死後は一時徳川家康が入ったものの、関ヶ原の戦いで焼失。一度は再建された(大坂城を包囲する城のひとつとしてだったようだ)が、豊臣氏が滅亡すると役割を失い、廃城となる。そしてこの伏見城こそは、関ヶ…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は⑥――武田信玄・上杉謙信を撥ね除けた城・小田原城

…徴であった。のちには豊臣秀吉の率いる大軍の前に白旗を揚げることになるが、戦国時代を代表する城のひとつといえるだろう。 そんな小田原城を襲った危機は三回。この項ではそのうち二回について紹介することにしたい。まず、1561年(永禄4年)に上杉景虎(謙信)が11万3千ともいう大軍で押し寄せてきた。時の当主、北条氏康は鉄砲や兵糧を集めて籠城の構えをとりつつ、同盟を結んでいた武田氏と今川氏に救援要請を送る。それを知った景虎は、援軍が到着する前に城を落とそうと城下に火を放って回ったものの…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は⑤――独眼竜の攻撃に晒された城・二本松城

…撃を受けて落城した。豊臣秀吉による奥州仕置が行われたのちに、家臣の蒲生氏郷が入った。その後は城主を変えながら、最終的に1643年(寛永20年)に入城した丹羽氏の時代で幕末を迎えることとなる。幕末期には少年ばかりで編成された部隊、二本松少年隊の悲劇で有名である。 1585年(天正13年)、当時の城主・畠山義継は、親交のあったか小浜城主の大内定綱が政宗に敗れたことにより、危険を察して伊達氏に属することを表明した。しかし政宗はこれを受け入れなかった。彼の父・輝宗の説得によってなんと…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は①――理想的な籠城戦で持ちこたえた城・吉田郡山城

…に拡張された。やがて豊臣秀吉による天下泰平の時代が到来し、毛利氏が豊臣政権の重鎮となって大きな発言力を有するようになると、統治には不便な吉田郡山城も実質的に役割を失う。毛利氏は新たな居城として広島城を築いて移住、吉田郡山城は廃城となったのである。 戦闘用の山城である吉田郡山城がその真価を発揮したのは、1540年(天文9年)、安芸に侵攻してきた出雲の尼子氏との戦いにおいてだった。もともと、毛利氏は九州二強のうち周防の大内氏の傘下にあったが、一時期尼子氏に付き、再び大内氏に寝返っ…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑧――名将が命をかけて立て籠もった城・岩屋城

…時期、大友氏は中央の豊臣秀吉に接近し、島津討伐を働きかけていた。島津氏としては「秀吉が来る前に九州での支配地を広げておきたい」といったところだったろう。秀吉はこの頃になると北陸の佐々成政・四国の長宗我部元親らを降伏させて上杉景勝を臣従させ、中国の毛利輝元・東海の徳川家康らを配下としていて、その野望はいよいよ九州にも向かおうとしていた。 天皇の権威をバックに「戦いをやめろ」と命令する秀吉に対し、大友氏は喜んで従い、島津氏はこれを無視した。かたや攻め滅ぼされる直前、かたやこのまま…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑦――外交交渉で裸にされた城・大坂城

…阪城と呼ばれる)は、豊臣秀吉が石山本願寺の跡地を利用して築いた壮大な平山城である。この地は秀吉の旧主である織田信長も注目した要地であり、京とは淀川で結ばれ、大坂湾も近くと、政治経済の中心地となれるだけのポテンシャルを備えていた。実際、秀吉の支配化で大坂の地は大いに栄え、江戸時代になっても「経済面の首都」的な地位を保持し続けることとなったのだから、本願寺・信長・秀吉の目は正しかった、ということになる。 防衛拠点として見ても、この地は三方向を川と海によって囲まれた自然の要害であり…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑥――水攻めに耐えた城・忍城

…下に下ることとなる。豊臣秀吉によって北条氏が攻め滅ぼされると、この地は徳川氏の領有となり、関東の要所のひとつとして江戸時代を通じて譜代・親藩の大名が入った。そして、廃藩置県後に取り壊されている。 忍城をめぐる戦いで有名なのは、豊臣軍が北条氏を「踏み潰し」た小田原征伐の際のものである。これこそ、先述した「水攻めに耐えた城」のエピソードだ。ここでもまた、活躍したのは女性であった。小田原征伐が行われた時、当時の城主・成田氏長は主家である北条氏の本拠地、小田原城救援のため城を留守にし…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城をめぐる戦いの様相⑥――落城したその後は?

…った。特に織田信長や豊臣秀吉が城割を多用したとされる。たとえば、秀吉が織田家臣時代の中国侵攻の際から、信長の後継者の座を得てからの紀州攻め、四国攻め、九州攻め、小田原攻めおよびそこから連続した奥州仕置において、それぞれ攻め落とした地域で「いくつかの城を除いての城割」を命じていることが史料に残っている。 残しておけば反乱に使われる可能性があったからだが、これは信長や秀吉がそれまでの戦国大名では考えられないほどに勢力を拡大し、城を再利用することで減少するコストよりも、城を乗っ取っ…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城をめぐる戦いの様相④――戦わずに勝つための長囲と調略

…ければならなかった。豊臣秀吉が長囲を得意としたのは、彼および彼の主君である織田信長が経済力を重視し、豊富な兵站能力を有していたからにほかならない。 長囲のバリエーションを二つ紹介しよう。両方とも「水」にかかわるものだ。ひとつは「干殺し」という手法である。これは敵城の水源を破壊し、水が飲めないようにするものだ。水は食糧以上に人間が生きるのに直結する要素だから、てき面に効く。それだけに、籠城側は井戸をはじめとする水の確保に神経質になるわけだ。 もうひとつは「水攻め」である。ここま…

【サイン本プレゼントあり】「ナンバー2の日本史」のご紹介

…た人物や、織田信長や豊臣秀吉などの天下人を支えた軍師などが紹介されています。表紙に出てる名前が藤原道長、北条義時、明智光秀というのもいいですよね。どの人物も一癖も二癖もあるし、彼らは(光秀はさておき)「実質トップ」と呼べるような存在でしたから。 まだぼくも読めていないのですが、今回はこの「ナンバー2の日本史」を株式会社エムディエヌコーポレーションさんより5冊プレゼントとしてご提供いただきました!(しかも榎本先生のサイン入りです!)応募は簡単にできますので、みなさんふるってご応…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の変化④兵農分離のせいで?

…もその後継者となった豊臣秀吉に継承され、以後のスタンダードとなっていく。 防御側はそれまで持っていたアドバンテージを失い、もう籠城をし続けても援軍が来なければ(その結果として後詰決戦の形に持ち込めなければ)勝てないことになってしまったわけだ。山城がその価値を失い、平城や平山城に移り変わっていったのもわかる話である。 こうの補足 兵農分離についてはこんな本もあるみたいです。未読ですが、おもしろそうなテーマですね。 兵農分離はあったのか (中世から近世へ) 作者:平井 上総 平凡…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の変化①経済・政治上の都合から?

…に入って、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康ら三英傑の時代がやってくると、この事情も少なからず変化する。具体的には、防衛拠点としてポピュラーだった山城に代わって、平城や平山城が一般的になってくるのだ。この流れの延長線上に、私たちがよく知る「天守閣を持つ白亜の城」としての近世城郭がある。 どうして山城が姿を消し、平城や平山城ばかりになっていったのだろうか?そこには、いくつかの理由を見出すことができる。これらのうちどれが正解というよりも、様々な要素が絡み合って変化していった、と考えるべ…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の分類と歴史④――必要とあればその場で城を作る

…た派手好きでもあった豊臣秀吉が、この陣城に持ち前の成金趣味を発揮して派手に飾りつけた、などのエピソードが伝わっている。 付城の簡易的なものは「仕寄り(しより)」、陣城の小規模なものは「陣所(じんしょ)」とそれぞれ呼んだ。臨時で城を築くのは攻城側だけではない。籠城側が城に隣接する形で防御のために築いたものを「出城(出丸)」という(隣接しない場合でもこの名で呼ばれることもある)。もっとも有名な出城は、大坂冬の陣における「真田丸」だろうか。 ちなみに、よく使われる「砦」という言葉は…

【10大戦国大名の実力】最後に――「家を守る」ために

…ます。それは、秀宗が豊臣秀吉の「秀」の字を賜り、また「豊臣」姓も授かるなど、豊臣家と深い関係をもつ人物だった、ということです。 じつは同じような話が他にもあります。佐賀藩の鍋島勝茂(なべしま かつしげ)には、もともと元茂(もとしげ)という長男がいました。ところが、勝茂が徳川家康の養女を継室に迎えたことで元茂は廃嫡されてしまい、その継室との間に生まれた四男の忠直(ただなお)が二代藩主の地位を約束されました。忠直は若くして病死してしまったが、結局その子の光茂が勝茂の跡を継ぐことに…

【10大戦国大名の実力】島津家①――リーダーシップはどうあるべきか

…は多数の弟がいたし、豊臣秀吉の弟・秀長は「天下の調整役」として活躍した。武田信玄の弟・信繁は父・信虎によって兄に代わる武田当主に擁立されようとしたことがあるにもかかわらず、信玄最大の腹心として大いに功績を残した。 これ以外にも「後世に名を残した兄を支えた弟」の逸話は戦国時代に多数存在する。翻って現代を見ても、兄弟で力を合わせて名を上げた者たちは枚挙にいとまがない。やはり「血のつながり」が生み出す絆というものは大きな意味をもつものなのだろう。 さて、それでは戦国時代でもっとも有…

【10大戦国大名の実力】長宗我部家④――負のスパイラルを止められず

…また、次男の親和には豊臣秀吉から「元親・信親が死んだとしても、土佐は親和に与える(没収はしない)」という意味合いの朱印状が与えられていた上、そもそも香川家が四国征伐の際に改易されていたため、「別の家の人間」とはもういえないのでは、という意見もあったようだ。とくに、吉良親実(きら ちかざね)や比江山親興(ひえやま ちかおき)といった家臣が強く反対したようだ。にもかかわらず、元親は意見を曲げなかった。それどころか、二人を始めとする反対者たちを次々と処刑してしまったのである。 これ…

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