攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

榎本秋 の検索結果:

【戦国軍師入門】宇佐美定満――軍神・謙信に兵法を授けた謎の軍師

今回紹介する軍師たちの中で、宇佐美定満(うさみ さだみつ)はちょっと異色な存在だ。何故かと言えば、彼自身よりも、彼がモデルになった架空の人物の方が有名になってしまった軍師だからなのだ。その名は宇佐美駿河守定行(さだゆき)、上杉二十五将のひとりに数えられる上杉謙信の軍師にして越後流軍学の祖……だが、まずはその前に定満本人について見ていこう。 宇佐美定満は元々、父の房忠(ふさただ)とともに越前(現在の福井県の一部)守護の上杉家に仕える武将だった。上杉家と越後(現在の新潟県の一部)…

【戦国軍師入門】甲斐宗運――島津も恐れた非情の忠臣

九州の三強といえば大友・龍造寺・島津の三家だが、他にも多くの小豪族たちがこの地に勢力を持っていた。そのひとつが肥後(現在の熊本県)の阿蘇家だ。元は阿蘇神社の大宮司の家系だったが、同時に有力な豪族として周辺を統治していた。その阿蘇家に忠実に仕えた名軍師が甲斐宗運(かい そううん)だ。宗運は出家後の名前で、それ以前は親直(ちかなお)と名乗っていた。政治面・軍事面の両方で活躍し、阿蘇家を支えた。 阿蘇家は南北朝の時代まで痕跡を辿れる古い一族だが、その長い歴史は同時に内紛の歴史でもあ…

【戦国軍師入門】朝倉教景――犬畜生と蔑まれても勝ちが大事

朝倉氏といえば室町以来の名門武家で、戦国時代には越前国(現在の福井県の一部)守護として大きな勢力を持っていた。もともと越前守護は斯波氏という、尾張守護も兼ねる名門武家だったのだが、内紛の隙を突かれて守護代(守護の仕事を代行する役割)の朝倉氏に国を奪われてしまった。ちなみに、その後尾張国もそこの守護代の家系である織田氏によって実質的に奪われ、斯波氏は滅亡してしまう。 朝倉の名は信長のライバルのひとり、義景の名前でよく知られている。そんな朝倉家の重鎮として活躍したのが彼、朝倉教景…

【戦国軍師入門】真田幸隆――謀略に長けた「攻め弾正」

真田といえば、豊臣秀吉に「表裏比興の者(表裏があって信用ならない者の意味)」と呼ばれた謀将・真田昌幸(さなだ まさゆき)と、その子で徳川家康を後一歩までに追いつめ「真田日本一の兵」と讃えられた勇将・真田幸村が有名だ。しかし、ここで紹介する昌幸の父親・真田幸隆(さなだ ゆきたか。正しくは幸綱(ゆきつな))もその活躍では彼らに負けていない。忍者を使っての情報戦や裏切り工作などの謀略を得意とし、武田信玄の軍師として活躍した彼は、外様衆でありながら譜代家臣と同等の待遇を受けており、家…

【戦国軍師入門】山本勘助――すべてが謎に満ちたオカルト軍師

山本勘助(やまもと かんすけ)といえば、武田信玄の軍師として、また「第4次川中島の戦い」での「啄木鳥作戦」の提案者として、非常に有名な人物だ。ところが彼は実在したかどうかが大変に疑われていた人物でもある。 彼の存在は主に、江戸時代に甲州流軍学を広めた小幡景憲(おばた かげのり)が書いたとされる『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』という軍学書に記されていたのだが、他の信頼できる資料には彼の名前が長らく発見されていなかった。近年になってついに彼の名前が記載された資料が見つかったのだが…

【戦国軍師入門】太原雪斎――家康にも影響を与えた、今川家の軍師僧

今川義元といえば「桶狭間の戦い」で信長の奇襲に敗れた人、というイメージしかないかもしれない。だがこの今川義元、実は絶頂期には駿河・遠江・三河から尾張の一部(現在の静岡県、愛知県東部及び愛知県西部の一部)を支配した、当時有数の勢力を持つ戦国大名だった。武田信玄が激しく警戒し、家康の前に「海道一の弓取り(東海道で一番の武将の意味)」と呼ばれ、「天下に最も近い男」とも呼ばれていた男、と言えば彼がどれほどの人物であったのかが伝わるだろうか。その今川義元の師であり、軍師でもあったのが太…

【戦国軍師入門】大坂の陣――天下の大坂城を裸にした謀略

戦国時代を飾る最後の合戦――それが「大坂の陣」だ。徳川家康は「関ヶ原の合戦」に勝利してその後の天下を主導する立場に着くが、豊臣秀吉の子・秀頼と天下の堅城・大坂城は未だ残っていた。幕府を作って日本全体を支配しようという家康の企みにおいて、やはり豊臣家は最大の障害として残っていたのだ。 一方の豊臣側としても、本来臣下であるはずの家康が我がもの顔で采配を振るっているのは我慢のならないことだった。しかも徳川側はあの手この手の方法で豊臣家を挑発し、合戦をそちらから起こさせようとする。 …

【戦国軍師入門】石垣原の戦い――黒田官兵衛、最後の賭け

関ヶ原では天下分け目の決戦が行われたが、実はこの戦いに呼応する形で全国的に戦いが巻き起こっていた。これらを総称して関ヶ原の役、などと呼んだりもする。 中でも九州で行われた戦いは、ひとりの天才軍師がその野望のために立ち上がって見事な活躍を見せた、という点で特筆すべきものだ。その軍師の名は黒田官兵衛。彼は秀吉の天下取りに大いに貢献した。しかし、戦乱が終わるとその参謀としての立ち位置を石田三成に取って代わられるようになり、またその鋭い知略を秀吉に警戒されるようにもなっていた。そこで…

【戦国軍師入門】関ヶ原の合戦――100人を倒すより1000人に裏切らせる

1600年(慶長5年)に勃発した「関ヶ原の合戦」といえば、戦国時代の終焉を飾った天下分け目の合戦だ。徳川家康の率いる東軍と、石田三成の(名目上の指揮官は毛利輝元だったが)率いる西軍は美濃(現在の岐阜)の関ヶ原にて大いに戦い、激戦の末に軍配は家康の東軍に上がった。 ところがこの戦い、戦場での両軍の布陣だけを見ると西軍の方がはるかに有利だった。そもそも西軍の方が数が多い上、東軍は西軍に取り囲まれる形で布陣していたのだ。実際、明治時代に日本陸軍の軍事顧間として来日したドイツのクレメ…

【戦国軍師入門】人取橋の合戦――槍の功でも主君を救った軍師

ここまで挙げてきた軍師の活躍は、戦場で策略をもって兵を操るか、裏切り工作などの謀略で敵の数を減らすかといつたものだったが、軍師も戦場に立てばひとりの武士だ。自分の部隊を率いて散々に暴れ回り、軍師としてだけでなく、槍の功で名の高い人物も珍しくない。 1585年(天正13年)に現在の福島県にあたる場所で起きた「人取橋(ひととりばし)の合戦」での片倉景綱(かたくら かげつな)の活躍はその中でも特にドラマチックなものだ。彼は自分が養育係を務めた主君・伊達政宗に生涯付き従い、その軍師と…

【戦国軍師入門】秀吉の四国征伐――官兵衛の策略でスピード勝利

信長の仇である明智光秀を討って以来、秀吉の快進撃は続いた。まず「賤ヶ岳の戦い」において旧織田家臣団で一番の実力者だった柴田勝家をやぶり、信長の後継者の地位を確実なものとする。また「小牧・長久手の戦い」では徳川家康相手に苦戦しつつも、その後に家康が旗印としていた織田信雄を懐柔して相手を押さえ込み、さらに朝廷に近づいて関自の座を得る。こうして着々と天下統一の道を進む豊臣秀吉は、ちょうどその頃土佐(現在の高知)の長宗我部元親がほぼ統一したばかりの四国に矛先を向けるのだった。 長宗我…

【戦国軍師入門】沖田畷の戦い――功績甚大の軍師を疎んじた結末

同じ龍造寺家が主役の戦いながら、ひどい負け戦になってしまったのが「沖田畷(おきたなわて)の戦い」だ。 龍造寺家がその勢力を拡大していく中で、龍造寺隆信は驕って遊興に興じるようになった。これを危うく思った直茂が諫めるが聞き入れられず、かえって疎まれて遠ざけられてしまう。上司の驕りが部下の心離れを誘うのは何時でも何処でもだいたい同じことで、この時も従属していた豪族たちが彼を疎み始める。そして1584年(天正12年)、肥前(現在の佐賀県及び、長崎県の一部)島原の有馬晴信が島津家に内…

【戦国軍師入門】今山の戦い――奇襲を成功させ、会心の勝利

少数による奇襲で大軍を破るのは、最もドラマチックな戦いのひとつだ。この「今山(いまやま)の戦い」もまたそうだった。ここでは九州三強のひとつ、龍造寺家の龍造寺隆信を支えた名軍師・鍋島直茂(なべしま なおしげ)が活躍した「今山の戦い」を紹介する。龍造寺家がじわじわと勢力を拡大していた頃のことだ。1568年(永禄11年)、大友宗麟の3万の大軍が来襲し、絶体絶命の危機に陥る。この時、龍造寺に味方する武将は佐賀城に19将しかいなかった。 誰もが諦めかけた中、直茂は籠城しての徹底抗戦を主…

【戦国軍師入門】秀吉の中国攻め――「両兵衛」による3つの城攻め

豊臣秀吉(木下藤吉郎・羽柴秀吉)といえば、「両兵衛」と呼ばれる名軍師2人をその配下としていたことで有名だ。しかし、この両兵衛……すでに「稲葉山城乗っ取り」で紹介した竹中半兵衛と、のちに秀吉に警戒された黒田官兵衛の2人が共に秀吉の配下にいた時期がごく短かったことはあまり知られていない。半兵衛は秀吉が織田信長の命で中国地方を攻撃している際に病に倒れており、一方の官兵衛が秀吉の配下に加わったのは、まさにその中国攻めの中でのことだったからだ。 この戦いの中で秀吉は幾つもの強固な名城・…

【戦国軍師入門】耳川の戦い――受け入れられなかった主君への進言

戦国時代に行われた様々な戦いには、軍師が主君に進言しながらも受け入れられず、そのために敗北した合戦というものもある。その中で特に象徴的なのが、北九州の名門・大友家衰退のきっかけとなった1578年(天正6年)の「耳川の戦い」だ。 1577年(天正5年)に薩摩(現在の鹿児島県の西部)の島津家が日向(現在の宮崎県)の伊東義祐(いとう よしすけ)を攻撃すると、大友宗麟(おおとも そうりん)は救援のために出陣しようとする。しかし、この時に2人の軍師・角隈石宗(つのくま せきそう)と立花…

【戦国軍師入門】稲葉山城乗っ取り――軍師・半兵衛、鮮やかなデビュー

1564年(永禄7年)に美濃の国(現在の岐阜県の一部)で起きたこの事件(合戦とは言い難い)の面白いところは、戦国時代のドラマチックなエピソードがしばしば全くの架空、もしくは事実を元にした創作であることが多いのに対し、どうやら実際に起きているらしいことだ。半兵衛は本当に少数の兵だけで、堅城と呼ばれた斎藤家の居城・稲葉山城を乗っ取ってしまっているのだ。動いた兵は少数で、起きた戦闘もごく小規模だが、だからこそのドラマチックさが目立つ。 なぜ半兵衛がこんな事件を起こしたのか、について…

【戦国軍師入門】北九州をめぐる戦い――小早川隆景・立花道雪の激突

「厳島の戦い」で大内氏を圧倒した前後から、毛利の矛先は北九州東部にも向いた。当時ここを支配していたのは、九州北西部の龍造寺・南部の島津と並んで九州三強と呼ばれた大友家だ。これ以後、長年にわたって毛利と大友は北九州……それも北九州攻撃に向けて前線基地となる門司城や立花城をめぐり争うことになる。その中でも特に注目したいのは、1554年(天文23年)に起きた門司城をめぐる攻防戦と、1569年(永禄12年)の「多々良浜の合戦」だ。 まず前者において注目するべきことは、毛利側には小早川…

【戦国軍師入門】厳島の合戦――策謀の限りを尽くした天才・毛利元就

軍師の役割は、実際の作戦計画を考えること以上に、謀略や調略によって敵方の戦力を削ることにある。どれだけ多勢に無勢の戦いだったとしても、味方に有利な状況を作っていけば、兵数の差を逆転するのはけして不可能なことではない。「九頭竜川大会戦」は軍師の決断が勝利を導いた代表的な戦いだったが、一方で「厳島の合戦」は事前の謀略を積み重ねることによって勝利に辿り着いた代表的な戦いといえる。 「厳島の合戦」は戦国屈指の名勝負と呼ばれ、また中国地方の勝利者を決める最も重要な戦いとなった。この戦い…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城造りと信心

そうした実際的な事情が透けて見えつつも、やはり当時の人々が私たちよりはるかに信心深く、神秘的なものを身近に感じていたことは間違いない。なにせ、古代日本の寺院は「御仏に祈って国を守る」役所だったくらいなのだから。当然、戦国大名たちも信心深かった。彼らは合戦という命がけの戦いに自らや一族、家臣団や領民たちの運命をかけなければならなかったのだから、できることは何でもやった――その中には、神や仏に祈りを捧げる、あるいは各種の儀式を執り行って縁起を担ぐ、という行動も含まれていた。 もち…

【サイン本プレゼントあり】「ナンバー2の日本史」のご紹介

…を連載いただいている榎本秋先生の新刊「ナンバー2の日本史」(MdN新書)が4月6日に発売されます! この本は昨年出版された「将軍の日本史」の続編とも言える内容で、将軍=トップを支えたナンバー2にスポットをあてています。厳密には将軍だけじゃなくて、紹介文にも 摂政、関白、執権、管領、老中、あるいは名軍師に副将軍。トップを傍らで支えるナンバー2の存在。「古代天皇の補佐役」「摂関政治と院政期のナンバー2」「鎌倉幕府は執権のものか?」「室町幕府、持ち回りの管領」「戦国大名と名参謀」「…

日本史における「変」と「乱」について対談しました

昨年末に榎本先生との対談を収録しました。「本能寺の変」や「応仁の乱」など、日本史には「〜の変」や「〜の乱」がたくさんありますが、こうした政争や軍事クーデターを列挙して俯瞰してみることで、歴史にどんな影響を与えてきたのかをつかめないかと考えました。 じっさいリストアップしてみると133件もあり、4時間も話すことになったのですが、日本史の「パターン」のようなものが見えてきました。ぜひご覧いただき感想をお聞かせください。 www.youtube.com 変とか乱にルールはない SN…

【サイン本プレゼントあり】「執権義時に消された13人」のご紹介

…を連載いただいている榎本秋先生の新刊「執権義時に消された13人 ―闘争と粛清で読む『承久の乱』前史」が11月18日に発売されます! タイトルを見てもわかるように、来年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の予習にもぴったりな一冊となっています。鎌倉幕府は日本で初めて誕生した武家政権ということもあり、その初期は血で血を洗うような闘争が繰り広げられました。一番の要因は初代将軍である源頼朝が急死したことにあるのですが、そのあとを継いだ2代将軍・源頼家の時代に十三人の合議制という会社でいう取…

【サイン本プレゼントあり】「将軍の日本史」のご紹介

…団ブログで連載中の〈榎本秋の「歴代征夷大将軍総覧」〉をベースにあらたに書き下ろした書籍「将軍の日本史」が6月4日に発売されます! 鎌倉・室町・江戸の武家政権の象徴である歴代48人の「将軍」の生き様を詳しく紹介した本書は人物名鑑であると同時に、彼ら将軍たちを通して鎌倉時代から江戸時代まで約700年の歴史を垣間見る日本史の入門書でもあります。 現在放映中のNHK大河ドラマ「青天を衝け」には江戸幕府15代将軍・徳川慶喜がキーパーソンとして登場していますが、来年の「鎌倉殿の13人」に…

明智光秀と榎本秋――あるいは麒麟は来たのか(「麒麟がくる」と過ごした一年を振り返り)

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」がついに終わってしまいました。コロナの影響もあり、途中で中断もはさみながらの全44回の放送となりましたが、攻城団では中断期間中も含め、榎本先生に毎週コラムを書いていただきました。 ぼくも負けじと「『麒麟がくる』の城めぐり」や「麒麟がくる前に」というタイトルでコラムを連載しようとしたのですが、前者は5本、後者は9本しか書けず、プロの作家のすごさを実感することとなりました。ほんとは「麒麟がくる」の城めぐりは攻城団らしく、全国のいろんなお城を紹介できる…

【戦国軍師入門】九頭竜川大会戦――30倍の勢力差を逆転

少数で多数に勝つ、というのはドラマチックな戦いの見本のようなもので、古くは源平の合戦における源義経の頃から、そうした戦いが伝説となって語りつがれている。もちろん、実際に数の差をくつがえすのは大変に困難なことなのだが、戦国時代には30倍の戦力差をひっくり返した戦いがあった。それが越前(現在の福井県の一部)の名門・朝倉家を支えた名軍師・朝倉教景が指揮した、「九頭竜川大会戦」と呼ばれる戦いだった。1506年(永正3年)のできごとである。 この頃、越前に隣接する加賀(現在の石川県南部…

【戦国軍師入門】安祥城の戦い――軍師僧・太原雪斎の交渉術

「安祥城の戦い」は今川家と織田家が争ったものだ。ここで特に注目したいのは、合戦が終わった後の事後処理について。こうした交渉ごとについて取りしきったり助言したりするのもまた軍師の役目なのだ。 まずは今川家と織田家、そして松平家(後の徳川家)にまつわる事情について紹介しよう。松平家は一時三河(現在の愛知県東部)全域を支配するようになったが、内紛によってその勢力を減じ、松平広忠の代には駿河・遠江(共に現在の静岡県)を支配する今川義元の勢力下にあった。一方、尾張(現在の愛知県西部)の…

【戦国軍師入門】6.占い、勝利祈願をする軍師と、僧侶身分を活用した軍師

名武将にして名参謀の軍師がいた一方で、そうではない経歴や技術を持った軍師たちもいた。例えば、占いをして戦の吉凶をはかる軍師がいたのをご存知だろうか。 というよりも実は元々、軍師に求められる役割は、そうした占いや勝利祈願、戦の際の儀式、さらに空の様子から天気を予報するなど、実際の作戦活動そのものとは関係の薄いものだったようだ。戦国武将たちの多くは迷信深く、こうした占いの結果を信じて作戦を立てることもしばしばで、その上で験かつぎのためなどに合戦前や後に様々な儀式をやっていたのだ。…

【戦国軍師入門】5.戦わずして勝つ、軍師の手腕

しかし、味方の戦力を強化するだけでは必ずしも勝てるかどうかはわからない。それが日常的に行われていた小競り合いではなく、家の存亡を賭けた一大決戦であるならば尚更、敵だって本腰を入れてくるから、戦いの行方はわからなくなる。不利な状況からの逆転は物語としてみるのならば大変に美しい。策謀の数々を巡らせた末の「見かけだけの不利」からの勝利であるならば、それは結局有利な状況を作って勝ったということであり、実に偉大である。しかし、やはり大事なのは事前にたやすく勝てる状況を作っておくことであ…

【戦国軍師入門】4.「戦略」と「戦術」の違い

この時代の花形ともいえる合戦についていよいよ触れていこう。だが、その前にとある大事な概念について紹介したい。戦略と戦術という言葉は、戦国ものに限らず戦争に関係する話であれば必ずといっていいほど出てくるものだが、その正確な意味についてだ。 とても単純に言ってしまうと、戦略とは戦争をするための前準備を整え、また実際に戦争をする時により良い状況で敵と戦えるように大局的な視点で軍を動かすことだ。一方、戦術とは実際に戦場で敵と対峙した時に、いかに部隊を動かして自軍を勝利に導くか、という…

【戦国軍師入門】3.戦国大名以外の勢力

ここまでは武家勢力について話してきたが、初めにも説明したように、当時は武家以外にも力を持っていた勢力があった。 例えば公家と宗教団体だ。戦国時代の公家は、領上のほとんどを武家に奪われて、生活が困窮していた。特に1467年(応仁元年)から始まった「応仁の乱」という動乱によって京都が荒廃すると、公家の力はますます弱体化してしまう。そのため、地方の理解ある大名のもとに下って、小京都といわれる文化圏を作ったりしていた。 また、京都に残っていた公家も、その娘を有力な大名に嫁がせて財政援…

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