攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

上杉景勝 の検索結果:

【家康の謎】家康が直江状に激怒したのは本当?

…康が五大老のひとり、上杉景勝にかけた謀反疑惑――「新しく城を築いたり、浪人を召し抱えたりしているのは、豊臣政権に逆らおうとしているのではないか」という主張であった。そこで家康は「誓詞を出せ」「弁明するために上洛せよ」と上杉家に要求した。 この疑惑に対処する立場にあったのが、上杉家の重臣・直江兼続である。彼は後世に「直江状」として知られる一通の手紙を認め、家康に送った。それを読んだ家康は激怒したという。なぜなら、直江状において兼続は家康の要求を完全に拒否し、「武具を整備したり道…

【家康の謎】家康はなぜ五大老の筆頭に選ばれたの?

…・小早川隆景(死後、上杉景勝に交代)となり、このうち前田利家は織田政権時代から生き延びた大名であり、宇喜多秀家は秀吉の中国攻めを支えた宇喜多直家の遺児で豊臣・前田とは縁戚関係にある。この二人は秀吉にとって身内カウントであると言っていいだろう。毛利輝元・小早川隆景・上杉景勝は織田政権にとっては本来敵対者であったが、秀吉が政権を掌握する過程において協力関係を結び、臣従することになった。 そして家康は秀吉にとって織田政権の継承者を目指す戦いの中での重大な障害であったが、最終的には臣…

「守護代ってなに?」の動画を公開しました

…が、この景直がどうも上杉景勝と対立して戦い、敗れたらしい。その後、織田方についたという話もあるが確認できず。→神保氏はおおむね上杉に就いたが、神保長住(ながずみ)は出奔。織田信長の助けを得て越中に戻ったものの、今度はその信長の怒りを買って追放され、これによって越中神保氏は滅亡した。なお、この越中神保氏の流れを汲む家系が旗本になり、神田神保町の由来になったという話もある(諸説あり)。 能登守護代 ・能登は畠山基国(もとくに)の次男をルーツに持つ能登畠山氏が代々守護職を継承。しか…

【プレゼントあり】日帰りで行ける福島の城と城下町めぐり〈CJ Monmo〉

…二十万石で移封された上杉景勝が、執政の直江兼続に築城を命じた城『神指城(こうざしじょう)』である。完成すれば日本有数の規模を誇る平城となるはずだった。方形二重の輪郭式平城で「回」の字状の縄張りに、本丸と二の丸、各郭外側を堀が囲む。大手口は石垣を産する慶山へ続き、人夫らが切り出された石を運び出したという。景勝がこの地に城を求めた理由は諸説あるが、水運に適した阿賀川をすぐ西に、周辺の13村を移転させて大がかりな町割を描いており、会津に壮大な新・城下町が誕生していたかもしれない。だ…

【家康の合戦】関ヶ原の戦い 豊臣政権の内部抗争

…反の疑いがかけられた上杉景勝に再三上洛を要請するも拒否しているため、豊臣公儀のもとで上杉討伐に向かったのです。豊臣秀頼からの命を受けた公戦であり、家康が軍事指揮権をもって各大名に出陣要請をし、会津に向けて進軍しました。一方で、家康不在の大坂では謹慎中だった石田三成が家康を討つために大谷吉継、安国寺恵瓊と共謀します。毛利輝元の同調も得て、さらには秀頼の命も受けて挙兵しました。この瞬間、上杉討伐は家康の公戦ではなくなり、豊臣秀頼-毛利輝元-石田三成・大谷吉継・安国寺恵瓊という構図…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…の乱の際に武田勝頼が上杉景勝を支持したために武田家と北条家の関係が悪くなり、その結果として徳川=北条同盟(相遠同盟)のチャンスができたというのも含め、家康は天災や気まぐれ(もしくは他の理由がより優先されたため)、第三者の行動よるバタフライ効果といった感じで「ラッキーな人だな」と思うことが多々ありました。もちろんこれはぼくらがのちの歴史を知っているからこその結果論なのかもしれませんが、それにしても運を味方につけているとしか言えないことが何度も起きています。 あらすじを読んだかぎ…

【戦国軍師入門】直江兼続――主家存続に生涯を捧げた文武兼備の智将

…上杉謙信の跡を継いだ上杉景勝は、最大で120万石にも達する所領を治めた大大名だ。この時、4分の1にあたる30万石を領していた家臣がいた。それが文武兼備の智将と讚えられた直江兼続(なおえ かねつぐ)である。この人は兜の前立てに「愛」の1文字をあしらっていたことでも有名だ。 兼続は景勝を支えて軍事・内政・外交といった各分野で活躍し、豊臣秀吉からは「天下の器」と絶賛された。一方で当代一流の文化人であると同時に蔵書家としても知られ、さらに秀吉の側近・石田三成や、前田利益(慶次郎)など…

【戦国軍師入門】関ヶ原の合戦――100人を倒すより1000人に裏切らせる

…た。家康は東北の雄・上杉景勝を攻めるために諸大名に呼びかけて兵を挙げ、一方で三成は自分と同じ五奉行の増田長盛(ました ながもり)、毛利の使僧の安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)らと語らい、また本来東軍につくつもりだった大谷吉継(おおたに よしつぐ)を説得して西軍を組織する。 この時、三成は自分自身が総大将の地位に就くつもりだったが、その横柄な性格を気にした吉継の勧めによって、毛利輝元を総大将として担ぐことになった。そもそも輝元は豊臣政権下において家康と同格の五大老という地位にあ…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は⑦――囮としての役割を果たした城・伏見城

…が「五大老のひとり、上杉景勝が謀反を企んでいる」として出陣し、大坂を空けると、これを受けて石田三成が挙兵。細川藤孝の丹後田辺城に続き、徳川方の拠点として鳥居元忠が留守を守る伏見城を取り囲んだのである。 伏見城はかつて秀吉が築いた堅城であり、地の利にも恵まれていた。わずかな兵で籠もった元忠もよく戦い、約10日間ほどにもわたって籠城戦を繰り広げた。しかし、援軍の来ない状況では、兵力の差がどうにもならない。また第一部でも紹介したように、兵の数に対して城の規模が大きすぎると、むしろ弱…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は③――落ちなかった支城・長谷堂城

…とになったのである。上杉景勝の命を受けた側近・直江兼続は山形城を目指して突き進み、まず支城のひとつである畑谷城を抜いた。この際、畑谷城に入っていた江口五兵衛は撤退を命じる主君の命に反して城に籠もり、熾烈な籠城戦の末に玉砕している。そして、この次のターゲットになったのが長谷堂城であった。 この城を抜かれれば後はない――城を守る最上方の武将、志村高治(光安)は決死の思いで上杉軍を迎え撃ったことであろう。彼らの奮戦があり、長谷堂城はなかなか落ちなかった。これに対し、上杉方も周囲の畑…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑧――名将が命をかけて立て籠もった城・岩屋城

…部元親らを降伏させて上杉景勝を臣従させ、中国の毛利輝元・東海の徳川家康らを配下としていて、その野望はいよいよ九州にも向かおうとしていた。 天皇の権威をバックに「戦いをやめろ」と命令する秀吉に対し、大友氏は喜んで従い、島津氏はこれを無視した。かたや攻め滅ぼされる直前、かたやこのまま順調に行けば九州を統一できる段階であったから、当然といえる。ここにいたって、大友側の課題は「秀吉が動き出す前にどれだけの時間を稼げるか?」となった。島津氏から見れば、もちろんその逆。急いで先制攻撃を仕…

【10大戦国大名の実力】武田家⑤――武田家滅亡

…・信清(のぶきよ)は上杉景勝の家臣となり、米沢武田家として残った。こうした武田家存続の背景にも、もしかしたら家康以来の思いがあったのかもしれない。 こうした家康の信玄尊敬の念が受け継がれたか、江戸時代になると「甲州流軍学」、すなわち信玄の戦術戦略がブームを巻き起こした。その火付け役となったのが、先述した『甲陽軍鑑』である。信玄の重臣であった高坂昌信が書いたという体裁をとってはいるが、実際には小幡景憲(おばた かげのり)という人物によるものと考えられている。この書物には信玄の活…

【10大戦国大名の実力】上杉家⑤――謙信の死から始まる内乱

…補者は二人。ひとりは上杉景勝で、彼は既に紹介したように上田長尾家出身であり、謙信の甥でもあった。そのため、上田長尾家のもともとの支持母体である上田衆や、謙信の側近たちの多くが彼に味方した。もうひとりは上杉景虎で、彼は北条氏康の子である。一時期上杉家と北条家が同盟していた際の人質として越後にやってきたのだが、その容姿と才覚を謙信に気に入られ、養子になったのだという。彼には実家の北条家やその同盟者である武田家などの外部勢力や、謙信に関東管領の地位を譲って越後にいた上杉憲政などが味…

【10大戦国大名の実力】上杉家①――カリスマの功罪

…謙信の父) ・謙信・上杉景勝(謙信の養子)の三人の生涯を通して、謙信の真実に迫ってみたい。そこで見えてくるのは、絶対的なカリスマがもたらす力と、それがなくなった後の悲劇である。 上杉・長尾氏の出自 上杉氏は鎌倉時代から東国で栄えた名門武家であり、その血筋は藤原氏の一流・勧修寺(かじゅうじ)氏にさかのぼる。勧修寺重房(かじゅうじ しげふさ)という人物が丹波国何鹿郡上杉を所領として「上杉」を名乗るようになったという。 特に足利氏と深く結びついた(室町幕府初代将軍・足利尊氏の母がこ…

【10大戦国大名の実力】佐竹家③――優れたバランス感覚

…の背景には三成および上杉景勝との密約があり、機会を見て東軍を挟み撃ちにするつもりだったのだという。 ところが、義宣が関ヶ原の戦いで積極的な行動に出ることはなかった。それどころか、家康やその子・秀忠のもとへ使者を派遣するなど、「どっちつかず」の姿勢を取り続けたまま、終戦を迎えている。その背景には父・義重の指示があったともいう。戦国時代の動乱を生き抜いた義重からすれば、この土壇場では官僚タイプの三成より老檜な家康の方に勝ち目がある、と見抜いても不思議ではない。かつて耐え抜いた末に…

日本史における「変」と「乱」について対談しました

…ぐってふたりの養子、上杉景勝(長尾政景の実子)と上杉景虎(北条氏康の実子)が争ったお家騒動。景勝が勝利 戦国時代 1581年(天正9年) 第二次天正伊賀の乱 織田氏と伊賀惣国一揆との戦い。織田軍5万が伊賀を制圧 戦国時代 1581年(天正9年)〜1587年(天正15年) 新発田重家の乱 御館の乱での功績に対して恩賞がほとんどなかった新発田重家が上杉景勝に対して起こした反乱 戦国時代 1582年(天正10年) 本能寺の変 京都本能寺に滞在中の織田信長を家臣・明智光秀が謀反を起こ…

【クーデターで読み解く日本史】西軍の有力者が裏切った本当の理由とは?――関ヶ原の戦い

…利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝)と五奉行(石田三成、前田玄以、浅野長政、増田長盛、長束正家)に誓詞(せいし=誓約の書類)を提出させ、まだ幼少の息子・秀頼への忠誠を誓わせた。 ところが、秀吉が死ぬと早速、五大老の筆頭で豊臣政権における最大の大名であった徳川家康が独自の行動を始める。誓詞の中で禁止されていた大名間での婚約を進め、勢力拡大に努めたのだ。このルール違反に対して、ほかの五大老と五奉行は家康に追及を行ったが、この時は大事には至らなかった。秀頼の後見人である利家が家康と和解し…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府2代・徳川秀忠――若き日の過ちを堅実さで挽回 1579年~1632年

…起のきっかけになった上杉景勝征伐の段階から父に伴われて出陣しており、いざ石田三成挙兵となると、別働隊を率いて中山道を西へ進むことになった。当然、その最大の役目は西軍との決戦に参加することだったのだが、これが初陣の秀忠は判断を誤った。西軍側についた信濃上田城主・真田昌幸・信繁(幸村)親子の挑発に乗って城攻めに狂奔し、あげくに落とせぬまま時間を大きく浪費してしまったのである。これが罠であると気づいたときにはすでに遅く、関ヶ原の戦いに間に合わなかった。 当然、家康は激怒する。先述し…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府初代・徳川家康――戦国時代を終わらせた偉大なる将軍 1542年~1616年

…して五大老のひとり・上杉景勝討伐の兵を挙げると、その隙を突いて三成も同じく五大老の毛利輝元を旗印に挙兵。両軍は美濃国・関ヶ原で激突した。天下分け目の「関ヶ原の戦い」である。このときは兵力で三成方(西軍)が勝り、兵の配置でも家康方(東軍)を取り囲んで圧倒的に有利と思われた。しかし、実際に戦いが始まると、東軍の背後に陣取った毛利勢は最後まで動かず、横を突くはずだった小早川秀秋の軍勢は味方の西軍に向かって突撃、それで決着がついた。家康はあらかじめ裏切り工作を仕掛けていたのである。 …

【戦国時代の境界大名】柳生氏――めまぐるしく変わる情勢の中、一芸に活路を見出す

…矩は会津(福島県)の上杉景勝攻めから引き返して西に向かう家康に先行し大和へ戻り、「同じく徳川に味方する筒井氏とともに大和の国人たちを取りまとめ、石田方への妨害工作をするように」という家康からの命令があったと宗厳に伝えた。その後、関ヶ原の戦い直前、自陣にたどり着いて諸大名に迎えられても敵陣をじっと睨む家康のもとに現れた宗矩が「此度御意めでたし、いづれもこれにさぶらう」と申し上げたところ、家康は「はじめて御心づかれ」たという(「東照宮御実紀附録」)。ここから、宗矩に与えられた役目…

【戦国時代の境界大名】小笠原氏――名門武家、宿願のために三英傑の元を渡り歩く

…宮市)に入って会津の上杉景勝が関東に攻め入ってこないように備えた。この功績を評価されてか、戦後に信濃飯田5万石に、さらに1613年(慶長18年)になって父祖の地である信濃松本8万石へ転封・加増を受けている。 1615年(元和元年)、秀政は「大坂夏の陣」へ出陣。嫡男の忠脩(松本城を守るように命じた父に逆らって出陣していた)とともに討ち死にしている。そこで小笠原家は忠脩の弟の忠真が継ぎ、父と兄の戦功によって播磨明石10万石を与えられた。この家はのちに豊前小倉15万石となり、幕末を…

【戦国時代の境界大名】相良氏――大大名に挟まれながらも、九州の動乱のなかで戦い続ける

…い」直前、徳川家康が上杉景勝の会津攻めを企てると、長毎はこれに参加するべく出陣していた。ところが畿内ではすでに石田三成が挙兵し、徳川家臣の籠る伏見城(京都市伏見区)を攻めている。長毎はあくまで家康に味方することを望んだが、畿内は三成ら西軍の勢力が圧倒的だったので諦め、しかたなく西軍に与した。しかし心中ではあくまで家康の味方をするつもりで、ひそかに徳川重臣の井伊直政に使者を送った、と『求磨外史』は語っている。 実際のところ、長毎が関ヶ原本戦に参加することはなかった。関ヶ原(岐阜…

【戦国時代の境界大名】相馬氏――奥州第一の実力者・伊達氏との抗争を戦い抜く

…。いやむしろ、密かに上杉景勝らと連携し、東軍を挟み打ちにしようとした……とさえいわれている。与力としては佐竹の方針に従わざるを得ないし、また北条攻めの時から石田三成とは親しい。義胤が嫡男に「三胤」(1581―1625)と名付けたくらいだ。表立って西軍に加わるほどではなくとも、三成と戦いたくはなかったに違いない。 ところが、関ヶ原の戦いで勝ったのは東軍であり、徳川家康であった。当然、味方しなかったどころか「敵と通じていたのではないか」と疑われる佐竹氏と、相馬氏をはじめとする佐竹…

【戦国時代の境界大名】真田氏――時代の趨勢そのままに主君を変える

…のである。また、北の上杉景勝も信濃を狙っているのは明らかだった。 ここで昌幸が動いた。北条を見限り、徳川についたのである。北条へ臣従の使者を送ってから、3カ月と経っていない。もともと、北条が狙っていた沼田城に、自らの手のものを送り込んで確保させているあたり、そもそもあまり長い間北条に従っているつもりはなかったのかもしれない。以後、昌幸は徳川支配下の大名として中部地方各地で転戦することになる。その活躍もあってか、1583年(天正11年)年までには川中島(長野市)より北を除いた信…

【江戸時代のお家騒動】蒲生騒動 藩主夭逝が藩内の混乱を招く悪循環

…たに会津領主となった上杉景勝に従う者が多かったという。 会津に返り咲くも再び重臣対立が表面化、失意のうちに2代目も死去 しかしその後、秀隆に再び会津に帰還するチャンスが訪れる。秀吉の死後、関ヶ原の戦いが勃発すると、秀隆は当然ながら義父にあたる家康の東軍に味方した。そしてこの時、宇都宮城にあって奥州の押さえとなったことが功績として認められ、戦後に会津60万石への転封が決まったのだ。これは、妻・振姫が家康に頼み込んだのが大きかったともいわれている。 こうして秀隆は、再び会津の地に…

【戦国軍師入門】5.戦わずして勝つ、軍師の手腕

…ることもある。例えば上杉景勝に仕えた直江兼続や、伊達政宗の教育者でもある片倉景綱のような人物こそが名軍師と呼ばれるに相応しい。 ただ、こうした軍師はどうしても目立つし、絶大な権力を持たされることにもなる。そのために、大名からのゆるぎない信頼と本人の自制心がないと、大名によって抹殺されたり、逆にその大名を滅ぼして自分が取ってかわるといった、ある意味で不幸な結末に辿り着く例も少なくない。 仕える大名が進言を聞き入れてくれず、失意の中で死んだ者がいる。大名の暴挙を止められず、衰退の…

田辺城 栄光と転落

…が上洛命令に応じない上杉景勝討伐のために大坂を発って会津を目指すと、佐和山にいた石田三成が挙兵し、両者は東軍西軍に分かれて関ヶ原で雌雄を決することとなる。その決戦の少し前、西軍・石田三成は東軍の家康に味方した武将たちの妻子を人質にとり、東軍の動きを鈍らせようと画策した。その妻子の中にガラシャ夫人がいたが、彼女は夫の邪魔をしてはならないと自ら命を絶っている。 作戦の失敗による怒りもあったのか、西軍は東軍に味方した田辺城主・細川忠興の攻撃を行っている。戦略的には、豊臣恩顧の大名で…

初代藩主と藩祖のちがい

…ヶ原の戦い」で敗れた上杉景勝が領有していた陸奥国会津郡周辺にできた藩で、初代藩主は家康の娘婿でもある蒲生秀行です。秀行は蒲生氏郷の嫡男で、氏郷は上杉家の前に会津の領主だったので、返り咲いたわけですね。なのでふつうに考えれば藩祖は初代藩主である秀行か、その父である氏郷となるはずです。 蒲生家はその後、秀行の長男・忠郷が25歳で急死したため改易となり、加藤嘉明が会津藩主となります。その加藤家も嘉明の子の明成の代で改易となり、そうして1643年(寛永20年)に入封するのが保科正之で…

八王子城 戦国の終わりを告げた城

…つである八王子城には上杉景勝、前田利家、真田昌幸らに豊臣秀吉の軍勢、投降した北条方の武将が加わり、5万ほどの大軍が向かった。対する八王子城は氏照家臣、横地吉信、狩野一庵、中山家範、近藤綱秀らを中心に農兵などを含めた3千人ほど。戦う前から結果はわかっているような状況であった。 6月23日の夜明け、前田利家は総攻撃を前に被害を減らすため降伏を呼びかけたが、北条方の意志は固かった。寅の刻(午前4時ごろ)に総攻撃の合図がなされ、豊臣勢が城に攻めかかった。北条方は必死に抵抗したが、数で…

長谷堂城 最上氏を守った堅牢な城

…前、徳川家康は会津の上杉景勝を征伐するために伏見城を出陣している。景勝が上洛命令に応じないため、豊臣政権への反逆の疑いを持たれたためだ。上杉方もそれを回避するために動いたが、家康は邪魔な上杉氏をつぶすために上杉方の申し開きを受け入れず、征伐に動きだした。戦いは止められないものと感じた景勝の家臣・直江兼続は『直江状』という家康を批判した手紙を本人に送っている。 両者の激突は必至だったが、家康が伏見城を離れた後、五奉行のひとり・石田三成が家康を打つべく挙兵した。秀吉の遺命を守る三…

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