攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

上杉謙信 の検索結果:

日本史における「変」と「乱」について対談しました

… 揚北衆の本庄繁長が上杉謙信(当時は輝虎)に対して起こした反乱 戦国時代 1569年(永禄12年) 本圀寺の変 三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・石成友通)らが本國寺に籠る室町幕府15代将軍・足利義昭を襲撃した事件。信長は義昭のために二条城を造営することに 戦国時代 1569年(永禄12年) 大内輝弘の乱 滅亡した大内遺臣が毛利元就に対して起こした反乱。鎮圧される 戦国時代 1570年(元亀元年) 元亀の変 伊達氏で発生した内紛。伊達晴宗・輝宗政権を支えた中野宗時一族が没落して…

【殿様の左遷栄転物語】第3章 廃嫡される跡継ぎ 派閥争いのとばっちり左遷

…でいるし、長尾景虎(上杉謙信)は家督を継いでいた兄・晴景と対立し、最終的には自分が兄の後継者になるという形でその家督を奪っている。武田信玄が父・信虎との関係が悪化して家督を弟に譲られそうになったので父を追放した、あるいは斎藤道三が息子の義龍に家督を譲り、しかし関係が悪化したので家督を取り上げて別の息子に与えようとしたところで攻められ、死んでしまったのもこのような事情の延長線上にあるといえよう。 しかし、時代が変われば常識も変わるもの。泰平の江戸時代においてはこのような争いを防…

【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府15代・足利義昭――信長に縛られた、最後の将軍 1537年~1597年

…軍の準備を行っていた上杉謙信が病死してしまう。これにより包囲網は崩れ、2年後には本願寺も信長と和睦を結んだ。義昭の無念はいかばかりであったろうか。 最後まで誇りは消えず? 1582年(天正10年)、その信長が本能寺の変で倒れた。信長の訃報を聞いた義昭は、早速帰京のために出兵するよう、毛利輝元や小早川隆景らに命じた。さらに信長の後を継いだ羽柴秀吉にも働きかけて帰京の支援を求めたが、彼と信長後継者の地位を争った柴田勝家に義昭が味方したため、結果的に秀吉は敵に回ることとなってしまう…

【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府13代・足利義輝――非業の死を遂げた剣豪将軍 1536年~1565年

…後の長尾景虎(のちの上杉謙信)には贈り物として鉄砲を与えた。豊後の大友義鎮(宗麟)を筑前・豊後の守護に、安芸の毛利元就を同国の守護にそれぞれ任命し、距離を近づけた。この中でも特に義鎮は、その名前の一字を義輝から拝領しており、それに対し深い感謝を示して謝礼を贈っている。 そのほか、長尾景虎と武田信玄や、毛利元就と大友義鎮など、抗争していた大名同士の関係に積極的な介入を行い、数多くの講和を成立させてもいる。このような優れた政治的手腕で将軍権威を回復させていった義輝は、「天下を治む…

【戦国時代の境界大名】小笠原氏――名門武家、宿願のために三英傑の元を渡り歩く

…いて越後(新潟県)の上杉謙信のもとへと各地を転々とした。畿内滞在時には小笠原氏の正統を継承するものとして、時の将軍・足利義輝に弓馬の師範を教えていたことが『信府統記』に記されている。最後には会津の蘆名盛氏を頼ったが、この地で家臣に殺されてしまったという。それが1583年(天正11年)、中央では織田信長の後継者の座をめぐって羽柴(豊臣)秀吉と柴田勝家が争っている頃だ。 紆余曲折の末の悲願達成 長時が信濃を追われた時、息子の小笠原貞慶(1546―95)もこれに付き従っていた。摂津…

【戦国時代の境界大名】相馬氏――奥州第一の実力者・伊達氏との抗争を戦い抜く

…天正6年、隣国越後で上杉謙信の跡目をめぐる後継者争いが勃発し、国境が不安定になったため伊達軍がそちらへ出兵せざるを得なかったことが原因だった。ただ、この時期には相馬・伊達両勢力の内部でも状況の変化が起きている。相馬氏は同年に盛胤が隠居して31歳の義胤が家督を継ぎ、伊達氏では3年後に15歳の政宗が相馬氏との戦いで初陣を飾っていた。以後、義胤と政宗の激しい戦いが、東北地方の戦国時代、その最終章を彩っていくことになる。 戦いの終わり 相馬と伊達の間に一応の和平が訪れたのは1584年…

【戦国時代の境界大名】真田氏――時代の趨勢そのままに主君を変える

…杉氏と武田氏の間には上杉謙信死後の天正6年に同盟が結ばれているので、相手にするのは関東の覇者・北条氏である。 天正8年、昌幸は北条氏が支配する沼田城(群馬県沼田市)を父譲りの謀略で攻め、周辺の城を落としたのちに本城を取り囲むことで無血開城を成功させた。その後も沼田城を取り返そうとする北条方の軍勢の脅威や、かつて父・幸隆が家臣に引き入れた海野幸光と輝幸兄弟による謀反などもあったが、昌幸はこれらをすべて退け、沼田城を守った。また、本家筋に当たる海野兄弟を滅ぼしたことで、血筋的な正…

明智光秀と武田信玄――あるいは「信長にとっての脅威」

…信濃を侵略し、越後・上杉謙信と利害が対立して5度に渡る「川中島の合戦」を戦った。東と南に向かっては関東の北条氏、東海の今川氏と三国同盟を結んで安全を確保するも、衰退する今川氏を見捨ててむしろ攻撃したので同盟は崩壊し、北条氏ともたびたび争うことになる。また、嫡男の義信に謀反の疑いが出たのでこれを廃嫡し、四男の勝頼を擁立しなければいけなくなる事態も起きた。このような争いの結果として武田氏の領域は中部から関東にかけて大いに広がったが、それだけ敵を作ったということにも注目するべきだろ…

明智光秀と近衛前久――あるいは「本能寺の変朝廷陰謀説」?

…ったのは、長尾景虎(上杉謙信)との盟約であった。名門・上杉氏の名と関東管領の地位を継承して東国の混乱を治めようとしていた彼を助け、最終的には景虎に兵を率いての上洛をさせようとしていたのである。そうすることで戦国時代を終わらせることができると信じたのだろう。景虎を助けるために越後どころか上総・下総まで赴いているのだから相当な決心があったはずだ。しかし、景虎は武田氏や北条氏との戦いに忙しく、ついに上洛することは叶わなかった。1562年(永禄5年)に京へ戻る前久の心は失意に満ちてい…

【本能寺の変の謎の謎】人はなぜ「本能寺の変」に惹かれるのか?

…もこの年に滅ぼした。上杉謙信も病に倒れ、すでにない。北陸の上杉、関東の北条、中国の毛利、四国の長宗我部らとは交戦あるいは交渉中で、そう遠からず解決すると思われた。まだ東北に伊達がおり、九州には大友・龍造寺・島津がいるけれど、敵になるとは思えない。 幕府を開くか公家として地位を得るか他の方法か、具体的にはわからないが、なんらかの形で権力を得て、信長こそが戦国乱世を終わらせて新しい社会を作り上げるに違いない――そう思われた矢先の6月2日、敵などいないはずの京都で事件が起きた。わず…

新発田城 上杉謙信に背いた男

新発田城は1423年(応永30年)に越後の有力国人・新発田氏によって造られ、以後彼らの居城となっている。戦国時代、この城の主・新発田重家が主家である上杉氏に反旗を翻した。事の始まりは上杉家の家督相続にまでさかのぼる。 ゆっきー | 三階櫓(観光用石碑と共に)[新発田城] 上杉家の当主であった謙信は、1578年(天正6年)に病で亡くなった。一説には脳卒中であったといわれており、意識がはっきりしておらず遺言を残せなかったという。そのため家督争いが起きている。謙信には3人の養子がい…

七尾城 上杉謙信の猛攻に耐えた城

…表する武将のひとり、上杉謙信には数々の伝説がある。その伝説のひとつが、紹介する七尾城を舞台にした『白米伝説』だ。七尾城は現在の石川県七尾市にあり、1406年(応永13年)に能登守護になった能登畠山氏の初代当主・畠山満則が築いたとされる。しかしそれには確証がないため、6代義元が築き、7代義総が拡張されたと考えられている。それ以降畠山氏の居所となっていた。 こうの | 調度丸から桜馬場へ[七尾城] この城を攻略する際に次のような逸話がある。謙信は水源を断ち、城内の者が疲弊するのを…

斎藤道三と高政の関係が怪しくなっていた頃、信濃は武田信玄の手に落ちようとしていた

…の要請を受け、越後の上杉謙信が信濃へ兵を出したのである。信玄と謙信は北信の川中島で何度も睨み合い、また兵をぶつけ合うことになった。いわゆる「川中島の戦い」である。最初の戦いは1552年(天文21年)で、最後は1564年(永禄7年)だから、「麒麟がくる」21話までの段階では決着がついていない。有名な四度目ーー両軍が激しいぶつかり合いをした戦いも1561年(永禄4年)だから、じつはまだだったりする。 「川中島の戦い」そのもので明確な勝者はは決まらなかったが、一連の戦いの中で信玄は…

【全国の武将印リストつき】御城印に続け! 2020年は武将印の年になるのか?

…年7月1日 水曜日 上杉謙信うえすぎけんしん 上杉謙信 ネット通販(戦国館)、サンルート彦根 店舗?/通販 330円 戦国武将印 書置き(印刷) 2020年7月1日 水曜日 伊達政宗だてますむね 伊達政宗 ネット通販(戦国館)、サンルート彦根 店舗?/通販 330円 戦国武将印 書置き(印刷) 2020年7月1日 水曜日 毛利元就もうりもとなり 毛利元就 ネット通販(戦国館)、サンルート彦根 店舗?/通販 330円 戦国武将印 書置き(印刷) 2020年7月1日 水曜日 明智…

上杉謙信ゆかりの地おすすめ17選

…いただきました。 「上杉謙信」と聞くと皆さんはどんな印象をお持ちでしょうか。 織田信長・豊臣秀吉・徳川家康といった天下人ほどはメジャーではなく、歴史にあまり興味がないと知らないなんて言う方もいるかもしれません。おそらく何をしたかは知らないけれど名前くらいは聞いたことがある、程度の方が一番多いのではないでしょうか。 妻夫木聡さんが上杉家の家臣、直江兼続を演じて話題となった2009年の大河ドラマ「天地人」で知った方も多いかと思います。 実はこの上杉謙信というお方、知れば知るほど面…

伊達政宗ゆかりの地おすすめ25選(居城・古戦場・墓所など)

…なっており、そこには上杉謙信の座像があったり、伊達政宗誕生地の牌があったりと歴史好きにはたまらない場所でもあります。 二の丸跡には「米沢市上杉記念館」もあり、伊達家よりも上杉家の史跡として有名です。 そんな米沢城で幼名の梵天丸として幼少期を過ごした政宗は5歳のときに天然痘(てんねんとう)という伝染病にかかり、右目の視力を失ってしまいます。 病気の右目をずっと気にしていた政宗は、わずか9歳のとき家臣の片倉小十郎に「右目 をくりぬいてくれ」と頼み、小十郎は小刀で政宗の右目をくりぬ…

明智光秀と松永久秀――あるいは似た者同士

…している。この時は、上杉謙信らで構成される「第二次信長包囲網」に呼応するものであったようだが、すぐさま包囲され、追い詰められてしまう。結局、久秀が選んだのは自決であった。その様を聞いて、光秀は何を考えただろうか。彼が信長に逆らうにあたって、久秀の死から何がかしかの影響を受けていてもおかしくはない。 なお、有名なエピソードとして「平蜘蛛と呼ばれる茶器に火薬を詰めて爆死」というものがあるが、これも俗説と考えたほうが良さそうだ。ただ、あまりにも有名で、かつ面白すぎる話なので、しばし…

武田信玄と上杉謙信の一騎打ち伝説

…武田信玄と越後の龍・上杉謙信という2人の名将がぶつかったことで有名なこの合戦のハイライトとして、総大将同士による一騎打ちという非常にワクワクするエピソードが伝えられている。今回はこれを紹介しよう。 信玄と謙信が信濃の支配権をめぐり5度にわたって争った川中島の戦いは、そのほとんどがにらみ合いや小競り合いに終始した。しかし、一度だけ激烈な合戦に発展したことがあった。いわゆる第四次川中島の戦い、通称「八幡原の戦い」である。この戦いは最終的にひどい乱戦になった。 武田軍は上杉軍を挟み…

松永久秀、自ら爆死す!?

…た。 二度目の謀反は上杉謙信や毛利輝元らが第2次信長包囲網を形成したときのことだ。再び信長を裏切って居城・信貴山城に篭もった久秀だったが、機敏に反応した信長によってすぐに追い詰められてしまう。この際、信長は名物「平蜘蛛茶釜」を差し出せば助けると呼びかけた。前回とよく似た構図だが、久秀の反応は違った。徹底抗戦の態度を最後まで守った久秀は、ついに信貴山城および茶釜と運命を共にし、炎の中に散ったという。 この死については諸説あるのだが、特に有名な逸話が非常にド派手なものになっている…

【戦国合戦こぼれ話】川中島の戦い―大局的には信玄が勝利

…武田信玄と越後の龍・上杉謙信が激突した「川中島の戦い」といえば、戦国時代を代表する合戦のひとつである。しかし、これがそもそもどんなきっかけから始まったのか、どのような結果をもたらしたのかはよく知らない人が多いのではないだろうか。 「信州川中嶋合戦之図」(勝川春亭、模写:歌川広重) 始まりは信玄が中小の国人たちが割拠する信濃へ侵攻したことだった。その中で大きく立ちはだかったのは北信濃の雄・村上義清であったが、結局は敗れて領地を失い、越後の上杉謙信を頼ることになる。義清に助けを求…

【戦国合戦こぼれ話】手取川の戦い―内紛を抱えた織田軍は負けるべくして負けた

…ば、もう一方は越後の上杉謙信を頼る、という具合だった。そして、謙信が動く。七尾城内の上杉派家臣団の要請を受け、七尾城を包囲したのである。 これに対し、信長はもともと北陸方面軍として配置していた柴田勝家らの軍勢を動かしたが、相手は「軍神」と称される上杉謙信だけに、それだけでは不安だったらしい。羽柴秀吉、滝川一益、丹羽長秀といった有力家臣たちを援軍として差し向け、総計3万とされる大軍を編成させた。 ところが、この織田オールスターともいうべき軍団は、ふたつの問題を抱えていた。ひとつ…

御朱印集めの魅力について、zenkoさんに聞いてみました

…としている城であり、上杉謙信の菩提所です。直筆で見た目が綺麗な御朱印です。 直筆では寺社名でなく、「南無釈迦牟尼仏」と書いてあります。御朱印はご本尊の御心がこもったものとありますが、私は信心深くはありませんが、何か心が洗われたような気になります。 次は会津の「伊佐須美神社」の御朱印です。 城跡とは関係ありませんが「向羽黒山城」の帰りに寄りました。見開きで堂々と書かれた神社名がとてもいいです。 書き手は何人かいらっしゃって、「この書は宮司さんが書かれたもの、よかったですね」と神…

【戦国合戦こぼれ話】小田原攻め―未曾有の大軍と万全の準備

…にはかつて武田信玄や上杉謙信らの攻撃をも跳ね返した実績があり、それに頼ってのものであろう。 だが、当時とは事情がまったく違った。豊臣軍の兵士たちは兵農分離が進んだ専業兵士であったため、農業スケジュールに行動を束縛されることはなかった。大軍が遠くまで遠征して長く戦うとなれば兵站・補給の問題が生じるが、これについても十分な備えがあった。それどころか、小田原城のすぐ近くにかなり本格的な攻城拠点である石垣山城を築き、側室まで呼び寄せてゆっくりと北条方が音を上げるのを待つ始末だった。 …

【戦国を彩る名軍師たち】主君の信頼を得て大いに働いた直江兼続

…絶対的カリスマである上杉謙信が亡くなった後に後継者争いが起きるが、兼続は謙信の養子の一人の景勝を助け、彼の勝利に貢献する。兼続は以前から景勝の近習として仕えていて、二人の間には強いつながりがあった。この信頼関係はその後も続き、上杉家を動かす立場である執政となった彼は、軍事・行政の両面で大きな権限を与えられて働いていく。 上杉家が豊臣政権の支配下に入った後、天下分け目の「関ヶ原の戦い」にあっては石田三成らと結びついて徳川家康に対抗。この時、景勝に対して謀反の疑いをかけた家康に、…

【受験にご利益あり?】全国にある「落ちない城」一覧

…n.jp 唐沢山城 上杉謙信の10度にわたる攻撃を籠城戦で防いだことで知られる「関東一の山城」です。戦国時代、佐野氏は相模の北条氏、越後の上杉氏と南北から進出してくる二大勢力に挟まれており、城主・佐野昌綱は上杉謙信についていたのですが、のちに離反して謙信を怒らせます。結果、何度も攻められるのですが、すべて撃退したわけではなく、じっさいは降伏しておき謙信が春日山城に帰ると寝返ってということを繰り返しています。国衆や小勢力の生き残り策としてはよくあることですね。現在は本丸跡に唐澤…

【戦国を彩る名軍師たち】実在か? 創作か? 山本勘助

…のものだ。武田信玄と上杉謙信は信濃の領有をめぐってしばしば争っており、その舞台となったのが川中島である。多くは小競り合いやにらみ合い、調略合戦の様相を呈したのだが、この時ばかりは違った。戦国史上に残る熾烈な戦いになったのである。 第四次川中島の戦いにおいて、謙信は平原を見下ろす妻女山に陣取った。武田側としてはどうにか彼を山から追い落とさねばならず、そのために勘助が考えだした策こそ世に名高い「啄木鳥戦法」——軍勢を信玄率いる本隊と自らが参加する別働隊に分ける作戦だった。別働隊が…

マンガでわかる島津義弘

…津」の異名で知られ、上杉謙信や本多忠勝、立花宗茂などと並んで最強武将のひとりでもありますが、このマンガは有名な「島津の退き口」のシーンからはじまります。「繰抜(くりぬき)」や「捨て奸(すてがまり)」などじっさいに用いられたとされる島津軍特有の戦法が紹介されていますので、勉強にもなりますね。 マンガの画像をクリックすると拡大サイズで読めます 初出:『歴史魂vol.6』(2012年3月) なお、なぜ「関ヶ原の戦い」において島津軍がわずか1500しかいなかったのかというと(1000…

「戦国武将細川藤孝とその周辺」参加レポート

…禄2年)の長尾景虎(上杉謙信)上洛の際、藤孝が奏者 「永禄六年諸役人付」で藤孝は「御供衆」 この時代の京において三好長慶はキーマンだとおっしゃってました。来年の大河ドラマでも登場するとかしないとか。 足利義昭擁立に奔走 1565年(永禄8年)5月19日、三好三人衆らに襲われて義輝横死 藤孝が義輝の弟・覚慶を救出、覚慶が還俗して義昭に 近江(和田惟政)→若狭(武田義統)→越前(朝倉義景) 一乗谷で明智光秀と出会う、光秀の橋渡しで義昭・藤孝主従を織田信長のもとへ 1568年(永禄…

日本にあるお城の数

…ってました。 だけど上杉謙信の居城である春日山城や、ほかにも小谷城、七尾城、人吉城などのように、いまは天守や櫓など建築物としての遺構はなにもないけれど見ごたえのある城址もたくさんあるわけで、ぼくとしてはそういうのはぜひ網羅したいし、多くの方に攻城(訪問)してほしいんですよね。 こうの | 調度丸から桜馬場へ[七尾城] それこそ竹田城は雲海で全国的に有名になりましたが、それまでは無人の日もけっこうあったくらいマイナーでした。 kojodan.jp 建築物があるお城だけに絞ると少…

城の分類(平山城と山城の境界線)

…、山城の代表でもある上杉謙信の春日山城がある春日山の標高はそれより低い180mです。 単純に「山の標高が何メートル以上なら山城」と決まっていればわかりやすいんですけどね(まあその場合でも地震等で標高が変われば分類も変わるんですが)。 また中世の山城は、岐阜城(標高329mの金華山に建てられた山城)のように山上に城郭、ふもとに居館を築いたそうなので、ふもとに居館があるかどうかで区別できるのかと思いきや、戦国後期には、山上の主曲輪に領主の居館を構え、中腹に家臣たちと人質としてその…

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