攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

外様大名 の検索結果:

【家康の謎】三河譜代ってなに?

…親藩大名、譜代大名、外様大名だ。このうち、親藩大名はざっくりいえば家康の「親」族、すなわち徳川一族の大名だから明確に別物である。 一方、譜代大名と外様大名は家康(ひいては歴代徳川将軍の)家臣という意味では同じだ。違いは「いつから徳川家に仕えていたか」にある。これもざっくり言ってしまえば、関ヶ原「以前」が譜代で、関ヶ原「以後」が外様である。つまり、天下人になる前の戦国大名・織田大名・豊臣大名だった頃から家康を支えていたのが譜代大名で、関ヶ原の戦いに勝利して江戸幕府を開き天下人に…

【家康の謎】家康は倹約家だったの?

…幕政にかかわらせない外様大名は所領を大きくして不満を持たせない)とも考えられる。 とはいえ、同時代やその少し後を生きた人々が、家康のことを倹約家と考えていたのは間違いない。例えば、座敷で相撲をするということになった際、家康はわざわざ畳を裏返しにさせた。なぜかというと、表にしたままだと畳が痛むからである(『駿河土産』)。また、厩が壊れたから建て替えようと家臣に言われた際には「その方が馬が強くなるからやめろ」と言ったという(『明良洪範』)。 同時に、家康はただのケチではないと考え…

【家康の合戦】関ヶ原の戦い 豊臣政権の内部抗争

…した。家康軍は遠国の外様大名、東海道筋の外様大名、徳川家臣団の3つのグループから構成されていましたが、外様大名はあくまでも豊臣の家臣であり、家康の家臣ではありませんでした。 一方の三成方は伊勢、美濃へ兵を進め、三成自身は大垣城に在城します。織田秀信の岐阜城、石川貞清の犬山城、竹ヶ鼻城を前線として軍勢が集結しました。このように尾張・美濃の境目で対陣したのが、関ヶ原の戦いの始まりです。しかし、このとき家康は井伊直政や本多忠勝を軍目付として派兵してはいますが、まだ江戸にいて動きを見…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…拶に下向していた ・外様大名に課された御手伝普請が免除されていた →徳川幕府として扱いに困っていた 朝廷との関係が切れていない以上、関白秀頼の可能性は十分残されていた →滅亡させるかはさておき、大坂城から退去させて並の外様大名にしておきたい 1614年(慶長19年)、73歳 方広寺鐘銘事件。呪詛の意図はなかったにせよ、事前に相談し承認を得なかった豊臣方の落ち度 福島正則、黒田長政、加藤嘉明は江戸に留置 1611年(慶長16年)に加藤清正死去、1613年(慶長18年)に浅野幸長…

【家康の城】江戸城 世界有数の一大城郭と城下町!

…正、福島正則らの西国外様大名28家に石垣に用いる石材調達を命じます。石材は伊豆半島や相模湾沿岸の地域から運び込まれました。このような分担による工事は名古屋城築城にも引き継がれる国家プロジェクトで、公儀普請のシステムとなったのです。本丸の工事は1606年(慶長11年)から開始され、1611年(慶長16年)には西の丸の石垣工事が実施されました。縄張りは築城の名手と言われた藤堂高虎です。高虎は家康の信頼が厚く、これまでに天下普請の近江膳所城や家康在城の伏見城の再建などを担当してきま…

徳川将軍家の正室(御台所)の出身を調べる

…軍になるにあたって「外様大名の娘では慣習に反する」と問題視されたが、右大臣・近衛経熙(このえつねてる)の養女になることでこの問題をクリアしている。彼女の結婚により、島津重豪が江戸時代初めての「外戚になった外様大名」になり、大きな発言力を獲得。「高輪下馬(たかなわげば)将軍」とも呼ばれた。 楽宮喬子 【生年1795年〜没年1840年、結婚1810年】十二代将軍家慶の正室は「楽宮喬子(さざのみやたかこ)」。院号は「浄観院(じょうかんいん)」。有栖川宮織仁(ありすがわのみやおりひと…

【10大戦国大名の実力】最後に――「家を守る」ために

…が、池田家のケース。外様大名である池田家は督姫の血(つまり家康の血)を継いだことで厚遇され、領地は姫路という交通の要所でこそなくなったものの、二系統が大藩として残りました。 「家」を残すことは戦国大名という組織にとって最大の目的でした。そのために時の権力者との距離を測るのは絶対に必要だったのです。政権が豊臣家から徳川家に移り変わり、多数の大名が取り潰された江戸初期、戦国大名が必死に生き残りを図ったことがここからわかりました。 ――と、このような戦国大名の生き残り術を満載した本…

【10大戦国大名の実力】佐竹家③――優れたバランス感覚

…う江戸から近い位置に外様大名を置きたくない、という幕府の意図があったことは間違いない。 ただ、一方で佐竹家は関東の大名として厳しい罰を下されてもおかしくない立場にありながら(中央より遠い島津家などとは立場が違う)、うまく立ち回って家を存続させた、と見ることもできる。親族関係で結ばれた周辺の名門のうち、宇都宮氏は秀吉によって潰され、結城氏には家康の次男・秀康が入り(しかも彼はのちに松平姓に復姓した)、蘆名氏はついに復興を許されなかった。明確に敵対しなかった大大名をつぶすのはさす…

【殿様の左遷栄転物語】綱吉の独裁、牧野成貞

…の重職に就けるような家格ではなかった。さらにその後も外様大名家から側用人が選ばれており、従来幕政を独占していた名門譜代大名から政治を取り戻そうという綱吉の強い意志が感じられる。――が、結局のところ彼らはみな早い時期に職を辞してしまい、長く側用人として権勢を振るったのは成貞・吉保という神田御殿出身のふたりだけであった。 このあたりに、人事を駆使して自らの思う運営をしたいワンマン社長と、それについてこれない部下たち、というこれまた現代でもありがちな光景が見て取れるような気がする。

【殿様の左遷栄転物語】第3章 廃嫡される跡継ぎ 派閥争いのとばっちり左遷

…豊臣家に臣従していた外様大名たちとしては、お取り潰しを免れるために「豊臣家の味方をするなどの形で謀反をする気はありませんよ」とアピールしていかなければならなかった。 その視点で考えれば、たとえば秀吉と親しく付き合った過去のある人間を跡継ぎにしたりすると幕府に警戒されるのでは、と思えてくる。また、家康の娘を妻に迎えて、彼女が産んだ子を跡継ぎにすれば徳川との縁が深まって取り潰される危険も減るというものだが――そうなれば当然、本来は跡を継ぐはずだった若者がひとり、放り出されてしまう…

【殿様の左遷栄転物語】政争で潰された大名① 小田原藩大久保家

…どったのは豊臣恩顧の外様大名ばかりではない。ここからは譜代大名――それも、政争に敗れた家のドラマを追いかけたい。 大久保家は下野国の宇都宮家から分かれた血筋であるという。この一族は特に兄弟が多く、「大久保党」と呼ばれる集団として代々徳川家に仕え、活躍した。そうした数々の功績に報われる形で、1590年(天正18年)にはかつて北条家の本拠地であった相模国小田原に大久保忠世が4万5千石を与えられ、大名となっている。4年の在任ののち、忠世が病気のためこの世を去ると、彼の息子である忠隣…

【殿様の左遷栄転物語】死後に仕掛けられた罠 加藤清正

豊臣系外様大名たちの苦しい立場 福島正則と並んで秀吉子飼いの部下の代表格とされるのが、加藤清正である。彼はまた、築城術の名手としても名高く、熊本城はその代表作のひとつといえる。 藤原北家道長を祖とする加藤家は、その子孫が美濃に下った際に「加藤武者」と称したのが始まりとされているが、確証はない。その後、11代・清忠が秀吉の母の従姉妹と結婚したため、息子の清正が秀吉のもとに預けられ、子飼いの家臣となったという。秀吉との姻戚関係についてもハッキリとわかっているわけではないのだが、清…

【殿様の左遷栄転物語】幕府に警戒され続けた男 福島正則

…臣だったことや西国の外様大名らと親交があったことから、警戒されて取り潰しにあったものと考えられている。逆にいえば、彼ら外様大名たちに対する牽制のために、正則は利用されたともいえる。「みせしめ」であったわけだ。 改易の翌年に息子の忠勝が亡くなって所領のうち2万5千石を返上し、1624年(寛永元年)には正則も亡くなった。その際、幕府から正則の遺体を調べるため検使が送られてきたが、家臣である津田四郎兵衛が到着を待たずに火葬してしまったことが問題になった。これにより福島家は領地をすべ…

【殿様の左遷栄転物語】第2章 目指せ「お家再興」 失職したけど地位を回復

…との縁が深かった有力外様大名が次々と改易されている。彼らの多くは関ヶ原の戦いで東軍についた。また、大坂の陣において豊臣方に味方した大名はいなかった。それでもなお、幕府から見れば「危険要素」であったのだろう。そのような危険要素を排除するにあたって、何らかの理由(「武家諸法度」違反)をつけての改易処分というのは非常に都合がよかったはずだ。そのような幕府の魔の手から逃れるために諸藩は大いに気を使って、たとえばすでに決まっていた嫡子をわざわざ廃したりした また、改易されたのはそうした…

【殿様の左遷栄転物語】本領にこだわり続けた執念 相馬利胤

…は基本的に、関東から外様大名を排除する方針であったから(そもそも佐竹が秋田に移されたのもその一環と考えられている!)、これが本当なら破格の特別扱いと考えてよい。にもかかわらず、利胤は「相馬家は鎌倉時代からこの地にいて、長く親しく付き合ってきた領民と別れるのが忍びないので」と断っている。結果、相馬家は近隣の大藩である伊達家のプレッシャーを感じつつも、明治維新までこの地に定着し続けたのである。 もしこの時、将軍の申し出を受けて江戸の近くに転封していたら、どうなっていただろうか。少…

【殿様の左遷栄転物語】米五郎左の息子 丹羽長重

…その中で丹羽家という外様大名が一時的ながらも置かれたところに、家康の長重に対する評価を垣間見る向きもある。 その後の長重は大坂の陣で活躍し、陸奥国は棚倉5万石、さらに陸奥国白河10万石余ヘとたびたび加増・転封を受けた。こうして加増を受ける中で、長重はかつて離散した家臣団を呼び戻した、とされる。ちなみに、棚倉・白河両藩の藩主は丹羽家の後はずっと譜代・親藩大名しか入っていない。この点にも、丹羽家への(及び、丹羽の前に棚倉藩主だった立花家への)幕府の姿勢が見えてくる。 丹羽家は長重…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府13代・徳川家定――趣味は料理の「癇癖将軍」 1824年~1858年

…大きな力を得ながら、外様大名であるために幕政へ参加できない西南雄藩の大名たちが多く参加していたことが挙げられる。 ふたりめの候補者は紀伊徳川藩主の徳川慶福(とくがわ よしとみ)で、「南紀派」たちは彼のほうが血筋が将軍家に近いことを根拠とした。彼らは血筋の権威によって国難に当たろうとしていたのだ。このふたつの問題は、井伊直弼が大老に就任し、豪腕を振るったことで解決する。任命したのは家定だ。それまでまったくリーダーシップを発揮しなかった将軍が、死を前にして初めて将軍らしい行動をし…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府12代・徳川家慶――幕政にかかわらなかった「そうせい」様 1793年~1853年

…る。しかし、前者は国難の時代に強力なリーダーシップを発揮できなかった。むしろ朝廷や諸大名に対外政策について意見を求めたため、幕府権威の低下と朝廷や外様大名らの積極的な政治参加を招いた。後者は強烈な攘夷論(外国を排除するべき、という思想)を展開し、幕政を大いに混乱させる。ふたりの行く末を、あの世の家慶が見ていたとしたらなんと言っただろうか。 また、この人は遺骨が発掘されている。それによると当時の一般よりも小柄な体格で、細長い顔をしており、印象に残る容貌だったろう、とされている。

【歴代征夷大将軍総覧】徳川将軍――江戸時代

…下に入った大名たちは外様大名と呼ばれ、長く幕政にかかわることを許されなかった。これもまた、大名統制のひとつの手段といっていいかもしれない。 巨大な官僚制度というべき江戸幕府体制は長く平和を維持させたが、やがて経済の成長に代表される社会システムの変化や諸外国による外圧、体制そのものの疲弊によって崩壊していく。これが幕末の動乱であり、時代は明治維新へと移り変わっていく。そうして、徳川将軍もまた歴史の表舞台から退場し、長かった征夷大将軍と武家政権の歴史に終止符が打たれるのである。 …

【戦国時代の境界大名】伊東氏――二大勢力との死闘で滅亡するも……

…は病に倒れており、後継ぎの祐慶(1589―1636)が九州において徳川方の東軍として活躍した。そのため戦後も旧領を安堵され、飫肥藩5万7千石余の外様大名として江戸時代に入っている(のち5万1千石)。 江戸時代後期には極度の財政危機に苦しんだ。林業の開発に成功し、飫肥杉ブランドを確立、またこれを貧民の救済に結びつけたもののやはり根本的な解決にはならず、幕末になって藩士の家禄3分の1を削減している。幕末の動乱では近隣の薩摩藩より布告を受けて新政府側についた。 kojodan.jp

【戦国時代の境界大名】井伊氏――大勢力の狭間で内紛と戦乱の危機を乗り越える

…万石に及ぶこともある外様大名は幕政に口を出すことを許されぬ、という形でバランスをとっていたとされる。にもかかわらず、井伊氏は彦根35万石の大領を与えられていた。幕臣最上位の職である大老を最も多く務めてきたこともあって異例の厚遇を与えられ、また発言力を備えてきたのが井伊氏であるといっていいだろう。 その近世大名井伊家の祖といえるのが、井伊直政(1561―1602)である。赤備え(武装を赤で揃えた部隊)の精鋭を率い、江戸幕府初代将軍・徳川家康のもとで数多くの軍功を立て、「徳川四天…

【江戸時代のお家騒動】近思録崩れ 隠居した父が息子の藩主を押込め。薩摩藩最大の大獄

…ある。島津家のような外様大名から正室を迎えるなど、例外中の例外だった。しかし、1729年(享保14年)に島津家に嫁いできた竹姫という女性の遺言が、ここで大きく響いた。竹姫は五代将軍・綱吉の養女であり、彼女が嫁いできたことがきっかけで島津家と徳川家の間に結びつきができたという過去がある。 その竹姫は1772年(安永元年)に病で亡くなってしまうのだが、その遺言の中に「重豪に女子が生まれたなら、徳川家に嫁がせなさい」というものがあった。竹姫は、自分の死後に島津家と徳川家の結びつきが…

【江戸時代のお家騒動】仙石騒動 老中首座を狙う水野忠邦が野望実現に利用した事件

…、同じことがいえた。外様大名である脇坂は、寺社奉行以上に昇進することは不可能とされていた。しかしこの事件の成り行き次第では、出世が望めるかもしれない。水野と脇坂の思惑は一致した。 水野らはこの内紛を、主家乗っ取りを企む左京が起こしたものとした。左京は脇坂邸において尋間を受けたものの、それは水野の作った筋書きにそって進められることとなる。つまり、河野たちの訴えを無理やり立証することとなったのだ。 裁きの結果、左京には獄門が言い渡され、左京派の者達にも追放や遠島といった処分が下っ…

【江戸時代のお家騒動】筒井騒動 改易のウラには家康による深謀遠慮があった!

…定次が改易された後に外様大名の藤堂高虎が入れられたことも見逃せない。高虎は外様でありながらも、家康への忠勤ぶりから厚い信頼を寄せられていた。豊臣系の大名でありながら信頼のおける高虎を、大坂にほど近い伊賀に配置することは、大坂城を攻略するにあたって大変心強い拠点となる。つまり、そのために邪魔となった定次は、改易に追いやられたということだ。 これらの理由を見ると、定次の改易は家康の天下統一のための犠牲だったのではないかと見ることができる。重臣の讒言による改易、といういち大名家のお…

【お城の基礎講座】79. 江戸時代の築城

…ら二つのお城は西国の外様大名への備えとして築かれたものです。これらは幕府主導で築城されました。 明石城の坤櫓(左)と巽櫓(右)。現存する三重櫓も貴重だ 天下普請(てんかぶしん) 幕府が命じて作らせる天下普請(てんかぶしん)も引き続き行われています。大坂の陣で焼け落ちてしまった大坂城の再建工事や、二条城の拡張工事、江戸城の増築工事などです。 現在の大阪城の堀や縄張は江戸時代になってから徳川幕府によってつくられたものだ 外様大名(とざまだいみょう)による築城 今までのものは外様大…

【お城の基礎講座】76. 江戸時代・慶長期(けいちょうき)の築城ブーム

…国地方、九州地方)に外様大名が多く移り、大城郭を建築したのです。さらに、幕府による天下普請(てんかぶしん)が行われ、大阪城を包囲する形で多くの大城郭が作られました。これらの建築ブームは慶長5年(1600年)から慶長20年(=元和元年、1615年)まで続きました。 武家諸法度(ぶけしょはっと) 元和元年(1615年)になると幕府が武家諸法度(ぶけしょはっと)を出します。これには新しい城を作ることや城の増改築が禁止されることが含まれていました。城の修繕には届出が必要で、幕府の許可…

【江戸時代のお家騒動】里見騒動ーー大久保長安事件のとばっちりと見せしめの改易

…易処分となったのが、外様大名・館山藩主の里見忠義である。忠義は10歳の時に父・義康が亡くなったため、幼くして里見家を継ぐこととなった。しかし若年ながらも、重臣たちの補佐を受けて領内の検地や諸役の免除を実行。また商業の面でも、領内における貨幣の交換比を定めるなど、数々の政策を執り行った。 そんな忠義が結婚したのは、1611年(慶長16年)のことだ。妻となったのは、大久保忠隣の孫娘だった。こうして大久保家と姻戚関係になった里見家だったが、その他にも忠義の叔母である光性院殿が徳川家…

【江戸時代のお家騒動】江戸幕府=徳川家内の激烈な生き残り闘争

…のとばっちりを受けた外様大名・里見家の取り潰し」「父の代から辣腕を振るった名政治家・本多正純の失脚」というのがその概要である。 つまり、中央政権の政争(とその波及)という色合いが濃く、これだけ見るとお家騒動とは何の関係もないように思える。これらの事件はすべて、主役を演じた大名たち個人の問題ではなく、幕府政治の主導権争いと密接にかかわっていた点が共通している。すなわち、江戸幕府=徳川家のお家騒動の結果、争いに敗れたりとばっちりを受けたりした大名が失脚させられた、といえるのだ。 …

二条城で開催された二の丸御殿「黒書院三の間」学芸員解説会に参加してきました

…あります。これまでも外様大名は大広間、譜代や親藩(家門)は黒書院で対面するという説明でしたが、データを見ると黒書院は公家――それも身分の高い公家――と対面する用途としてむしろより使われていたようです。 黒書院三の間に描かれた障壁画について つづいて障壁画についての解説です。公家と応対するためにつくられた黒書院はほかの部屋の障壁画と比べてどのような特徴があるのでしょうか。 まず、黒書院の障壁画は長押の上下で場面が変わっている(別の絵が描いてある)のが特徴です。下の写真は北面と西…

江戸時代をデータベース化する

「外様大名40家」と「譜代大名126家」の原稿部分はブログに、後半の大名家名鑑については個別のページとして作成していますが、せっかくなので江戸時代のデータベース化を進めています。まだ途中ではありますが、おおよその形ができてきたので経過報告をしたいと思います。 江戸時代の仕組みを整理する 江戸時代の仕組み、つまり幕藩体制というのは徳川家康が樹立した江戸幕府と、諸大名(諸藩)との連邦国家でした。これをデータベースとして再現するには、構成する項目を整理する必要があります。単純に図式…

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