攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

幕末 の検索結果:

攻城団テレビで南部氏の歴史について話をしました

…馬大作事件 その後、幕末になると南部藩は北方(ロシア)対策に従事したことで20万石への高直し(土地が増えたのではなく名目のみの石高アップ)が行なわれ、また津軽藩も10万石への高直しがありました。そうした状況で起きたのが「相馬大作事件」です。 相馬大作事件(そうまだいさくじけん)下斗米秀之進(しもとまいひでのしん)が偽名として「相馬大作(そうまだいさく)」を名乗っていたことから「相馬大作事件」と呼ばれている。盛岡藩主・南部利敬(としたか)の死により利用(としもち)が後を継ぐが、…

攻城団テレビで相撲の歴史について話をしました

…は相撲が人気となり、幕末の江戸三大娯楽として歌舞伎、吉原遊郭、相撲と数えられるほどでした。ペリーが二度目に来航した際には、幕府側のもてなしとして力士が登場し、米俵を軽々と持ち運んだり、稽古相撲を見せたり、パフォーマンスを披露したそうです。 相撲は国技なのか? 江戸と上方の相撲会所が1925年(大正14年)に合併し、日本相撲協会になって現在へ至ります。つまり、いまぼくらがテレビで見ている大相撲は江戸時代ともつながっているわけですね。 最後にひとつ、(ぼくも含め)相撲を国技と思っ…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】読者からの質問とその回答

…仏語原本・蘭語訳本・幕末の邦訳本、すべて読みました。 戸切地陣屋についての研究を始めた時点、さらにはサヴァール教本に辿り着いた時点でも、教本の日本語訳はおろか「(軍人としての)ザヴァールという人物」についてすら先行する情報は文字通り皆無に等しい状態でしたので、彼の来歴および史的位置づけも含め、今回調査を進めていく中で原典および同時代の史料群の精査・解読の中から整理し知得していったものになります(なのでまだまだ調べる余地は存在すると思います)。どういった文献に目を通しているかは…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】5.おわりに

…究とその教育的展開:幕末期における軍事科学を媒介とした洋学の普及現象」『教職研究』第4号 信州大学全学教育機構・信州大学教職支援センター佐久間象山1850-『及門録』京都大学所蔵、京都大学貴重資料デジタルアーカイブ公開資料佐久間象山1913『象山全集』尚文館佐藤 真/編1940『維新前件名別北海道略年譜稿』昌平坂学問所 1846-1865『昌平黌書生寮姓名録』大阪大学附属図書館蔵 ※国文学研究資料館・新日本古典籍総合データベースのデジタルアーカイブに拠った。白山 友正 196…

【家康の謎】家康のブレーンにはどんな人たちがいたの?

…)」の官位を世襲して幕末まで続くことになる。 もちろん、僧侶ばかりがブレーンではない。いわゆる「神君伊賀越え」の登場人物でもある茶屋四郎次郎(ちゃや しろうじろう)は京都の商人だ。彼の家は永禄年間から徳川氏と取引があったが、家康と同じ歳の四郎次郎の時に特に関係を深め、京都の品や合戦用の物資などの買い付けで重宝されたようだ。また、豊臣政権が立ってからは秀吉との間を取りもったり京都の情報を流したりするのにも尽力し、ブレーンと言って差し支えない人物であったと言える。 最後に、異色の…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】1-2.戸切地陣屋ができるまで(2)-北の守人(もりびと)、父・藤原正蔵と息子・藤原重太(主馬)-

…度こそ高くないものの幕末の北方防衛において欠かせぬ人物だと言えます。 前回の記事:1-1.戸切地陣屋ができるまで(1)-「北方防衛」と松前藩の歴史と、英主・松前崇広の登場- 藤原重太(主馬)、そしてその父・藤原正蔵(ふじわら しょうぞう)については、数年前までは名前のみが知られる程度でしたが、戸切地陣屋研究と併行して行った調査により、その歴史的事績が徐々に明らかになってきました(特に父・正蔵に関してはここ1年の研究成果が非常に大きいです)。ここでは、それらについて簡単にご紹介…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】1-1.戸切地陣屋ができるまで(1)-「北方防衛」と松前藩の歴史と、英主・松前崇広の登場-

…かれる前日譚として、幕末における松前藩の状況について。ぼくは松前藩が一時期、東北に移封されていたことも知らなかったのですが、蝦夷地へ復領した松前家にとって北方防衛の成否が藩の存亡に直結しており、かなり危機的な状況の中、開明的で優れた藩主が登場します。 前回の記事:はじめに 江戸時代後半・18世紀のロシアの南下以降、蝦夷地近海は露・英・仏・米ら外国船の跋扈するエリアとなり、江戸幕府にとって北方は国土防衛の重要地となりました。同地を領していた松前家は、1807年(文化4年)にこの…

二条城で開催された学芸員解説会に参加してきました(遠侍・勅使の間)

…29年間続きました。幕末に入った1863年(文久3年)、家茂が上洛をするとこのときも勅使を迎えています。そして最後の将軍である慶喜が将軍宣下を受ける際も勅使がやってきています。 ただこれらは「勅使が二条城へやってきた(迎えた)」という記録であって、勅使の間で何かがおこなわれた記録ではありません。はっきりと勅使が勅使の間に通されたと記録されているのは最後の慶喜のときだけで、このときは勅使は車寄から勅使の間に案内され、儀式が行われる大広間に案内し、休憩時にまた勅使の間に案内する、…

【プレゼントあり】日帰りで行ける福島の城と城下町めぐり〈CJ Monmo〉

…如来堂が建つ土塁は、幕末の戊辰戦争時に、新選組らが戦った激戦地としても知られる。城好きならお気付きかもしれないが、城郭配置は山形の米沢城跡と酷似。景勝は三十万石で米沢に移ったのち、神指城築城の夢をかの地にて叶えたのだろうか。 縄張再現図。左側の土塁欠損部は城址西側を流れる阿賀川(大川)の氾濫により流出したと考えられる ケヤキの下に移されている巨石は、築城の際に本丸へ運び込まれた石垣の基礎石。築城時の石は鶴ヶ城改修に使うためほぼ運び出された 7.神指城跡【住所】会津若松市神指町…

【家康の謎・番外編】十八松平と十四松平、あるいは徳川家康のルーツとは

…御家人の家系が残り、幕末に蝦夷共和国の副総裁をつとめた松平太郎が末裔とされるが怪しい」という話もある。 六代信忠、七代清康 六代信忠(のぶただ)は暗愚だったので、まだ幼い七代・清康(きよやす)に家督を継承したという。ただこれも本当に暗愚だったのかはよくわからず、実は松平一族によるプレッシャーがあったのではないか、という説もある。ここから分かれたうち、十四松平に数えられるのが、・三木(三つ木。みつぎ)…次男・信孝(のぶたか)の家系。なお信孝は甥の広忠よりも勢力を伸ばすのではと疑…

【家康の謎】家康は何回名前を変えてるの?

…公家については文書による正式な手続きが必要であり、江戸時代になっても天皇・朝廷の専権事項として残ったことがわかっている。また、幕末の広島藩で、幕府に改名の許可をもらっていたことを示す史料もある。戦国時代の武士にそこまで明確なルールがあったとはちょっと思えないが、一族の本家や主君への許可は取っていたのではないか。それらを無視して改名するのは独立性の高い勢力であるか、あるいは本家や主君へ反逆する強い意志をもって行なったと考えるべきではないだろうか。家康のケースはまさにそれである。

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…二分するような戦いは幕末までなかった 勝利後に豊臣家を滅ぼす? 1603年(慶長8年)、62歳 征夷大将軍に任官、右大臣に昇任 それまでは諸大名の年始の挨拶も大阪城の秀頼が先で、伏見城の家康へはその後 家康自身も前年までは大坂城へ訪問していたが、将軍就任後は行かなくなった。諸大名も秀頼への挨拶を控えるようになっていった 7/28、家康の孫娘・千姫(7歳)が秀頼(11歳)に嫁ぐ 1605年(慶長10年)、64歳 秀忠に将軍職を譲る。徳川氏による世襲を天下に知らしめる 隠居する?…

【家康の城】二条城 徳川の権威の象徴!

…に築城した二条城は、幕末まで様々な出来事や大きな転換点を見守ってきました。家康時代の二条城はいまとはかなり違う姿をしていたと考えられています。どのような城だったのか見てみましょう。 京での権威の象徴 二条城は歴史の大きな転換点を見守ってきた かつて「二条城」と呼ばれた城は歴史上に複数存在します。室町時代に織田信長が将軍足利義昭のために築城したいわゆる「旧二条城」、豊臣秀吉が1583年(天正11年)に京における拠点として築いた「二条第(妙顕寺城)」、そして徳川家康が築城した「二…

榎本秋先生の最新刊「超約版 家康名語録」の出版記念ライブを生配信しました

…大半は江戸時代中期や幕末にまとめられた書物で紹介されているので、ほんとうに家康が語ったセリフかはわかりません。わからないのですが、ただ「みんなが求める家康像」というか、まさに偶像としての家康の輪郭が見えてくるような名言録になっているので、個人的にはとてもおもしろく読めましたし、また紹介するのも楽しかったです。 本書に掲載されているのは60個の名言ですが、そこから10個の発言をピックアップして約二時間にわたって紹介しました。最後に紹介した東照宮神君御遺訓(とうしょうぐうしんくん…

それなりの戦国大名家は合戦で負けても滅亡しない(ことが多い)

…家が江戸時代へ入って幕末まで続いたのはご存じの通り。 ●即滅亡ではないが実質的に命脈が失われているケース ・中国の二強の片方、一度は戦国時代に上洛まで達成した大内氏のケースを紹介する。→大内氏は古代に百済の王族がやってきて聖徳太子に謁見し、日本に定着したという伝説がある。鎌倉時代より武士として力を持ち、西日本でも有数の大名の一つとして権勢を誇った。戦国時代には新興勢力である尼子氏の台頭もあったが、中国地方を代表する戦国大名だったのは間違いない。・そんな大内氏が揺らいだのは大内…

徳川将軍家の正室(御台所)の出身を調べる

…のことにより薩摩藩は幕末に主導的立場を獲得していくという点もおもしろいです。ついつい男系で歴史を見てしまいますが、女性たちが歴史に与えた影響の大きさをあらためて実感することになりました。 さらにこの島津家の女性たちがいずれも近衛家の養女になっている点を不思議に思って調べてみたら、もともと島津家(当時は惟宗家)は近衛家の家司(けいし=執事のような存在)で、平安時代からの関係だったことがわかりました。おまけに現在の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の時代に源頼朝から島津荘を任され、その…

榎本先生の最新刊「ナンバー2の日本史」について対談しました

…り、卑弥呼の時代から幕末までの大きな流れがつかみやすい構成になっています。ナンバー2の影が薄い時代もあれば、ナンバー2が複数いた時代もあり、そうした強弱も俯瞰して見れると思います。 さらに! これは1月に攻城団テレビで4時間かけて日本史における「変」と「乱」を総ざらいしたこともあって気づいたのですが、ナンバー2はだいたい変と乱の当事者になってますね。だから榎本先生の前著「将軍の日本史」との兄弟本でありながら、「変と乱で読み解く日本史」の書籍化の側面もあるなと思って読みました。…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は⑤――独眼竜の攻撃に晒された城・二本松城

…城した丹羽氏の時代で幕末を迎えることとなる。幕末期には少年ばかりで編成された部隊、二本松少年隊の悲劇で有名である。 1585年(天正13年)、当時の城主・畠山義継は、親交のあったか小浜城主の大内定綱が政宗に敗れたことにより、危険を察して伊達氏に属することを表明した。しかし政宗はこれを受け入れなかった。彼の父・輝宗の説得によってなんとか政宗は態度を和らげて両者の間に交渉が行われることになった。ところがその後、義継はお礼を言うためにと輝宗のもとに行くと、彼を拉致して二本松城に逃げ…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑨――見捨てられた城・上月城

…したのである。ちなみに、あの山中幸盛は捕らえられて殺害された。毛利軍が彼を危険視し、命を助けるという約束を破ったのだろうか。あるいは、勝久の死後も尼子再興の野心を捨てなかった、ということなのかもしれない。もしそうだとするなら、天晴れな執念ではある。 ただ、尼子の残党が完全に壊滅したわけではなく、幸盛の娘婿である亀井茲矩(かめい これのり)が秀吉の下で大名となり、この家が幕末まで続いた。その後、上月城には一時期別の武将が入ったものの、結局廃城となっている。 kojodan.jp

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑦――外交交渉で裸にされた城・大坂城

…亜の城である。のちに幕末の動乱や太平洋戦争で崩壊したものが昭和に入ってから再建され、現在はコンクリート製の城がそびえ立っている。 それでは、どのように大坂城は落ちたのか。大坂の陣の事情について見てみよう。1614年(慶長19年)、両者の衝突が決定的になると、家康は各国の諸大名に出陣を命じ、大坂城を取り囲んだ。一方、大坂城に入ったのは浪人衆ともともとの家臣団だけであり、豊臣恩顧の諸大名が駆けつけることはなかった。このような情勢の中、大坂城内では真田信繁(いわゆる「真田幸村」)な…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】天守閣と高層石垣の近世城郭――「戦国の城」の終わり

…ものとなった。以後、幕末の混乱期まで大名と大名による大規模な合戦が起こることはなくなる。こうして徳川による平和の時代が訪れると、幕府の警戒は豊臣氏から各地の諸大名に向けられることになった。そもそも天下普請で諸大名を動員したこと自体が彼らの力を削ぐ目的だったのだが、さらに多方面から大名の動きを束縛する方向へ向かっていくことになる。その代表例が「武家諸法度」の制定であったが、この法度の中でも特に城の歴史という点からすると重要なのが、いわゆる「一国一城令」だ。 文字通り「ひとつの国…

【10大戦国大名の実力】島津家⑥――島津家の歴史

…の終わりまで残った。幕末期には英才として名高い島津斉彬を輩出、さらに薩摩藩からは西郷隆盛ら多数の維新志士が現れ、長州藩と共に倒幕・明治維新への原動力となった。 複数リーダーは諸刃の刃 戦国大名・島津家は華々しい活躍に飾られた一族である。しかし、その背景には一族の内乱や兄弟の反日、中央権力による干渉などの度重なる苦難があった。むしろ、島津家の凄まじいまでの戦闘能力はそのなかで磨かれたのだ、と思えば納得もいくというものだ。 たとえば、関ヶ原での撤退時に使った戦術は島津家に伝わる「…

【10大戦国大名の実力】毛利家⑤――元就の呪縛

…二百数十年が経過した幕末において、長州藩、すなわち毛利家は再び歴史の表舞台に現れる。幕府の政策に反対して「尊王攘夷」を掲げ、高杉晋作や桂小五郎に代表される数々の維新志士を輩出し、ついには倒幕と明治維新を成し遂げる中心勢力として活躍したのだ。その背景に多くの人々が関ヶ原以来の因縁を見るのは、ごく自然のことかもしれない。 バイタリティの欠如か、元就の方針か 毛利家はこのような経緯をたどった一族であるため、隆元・元春・隆景の代より下の人物には高い評価が与えられないことがほとんどであ…

【10大戦国大名の実力】織田家⑤――衰退する織田家

…たのだが、信雄は豊臣側の旗印にされそうなことを察知して合戦前に城を脱出。戦後、これを評価されて幕府より五万石を与えられている。一方の信益は冬の陣の勃発後も和平に奔走したがかなわず、夏の陣直前に城を脱出。以後は京にとどまった。 江戸幕府の支配下において、織田氏は大名四家・旗本十家が残り、幕末まで続いた。だがそれらも小大名ばかりで、名門としての形式上の優遇があっただけであったという。近年アイススケーターとして有名になった織田信成は旗本のうち一家、織田信長の七男・信高の家系である。

【10大戦国大名の実力】上杉家⑥――その後の上杉家

…、以後は米沢藩として幕末までその血をつなげることになる。 江戸時代においては、関ヶ原後の減封時に積極的なリストラを行わず、家臣の多くをそのまま残したことなどから、深刻な財政難に襲われた。しかし、「生せば生る 成させねば生らぬ 何事も 生らぬは人の 生さぬなりけり」という言葉で名高い9代藩主の上杉鷹山が財政改革を行い、改善を見ている。 長尾・上杉と「カリスマ」 為景はカリスマになれなかった男だ。彼はあくまで成り上がり者であり実力によって越後を実質支配することはできたが、常に国人…

【10大戦国大名の実力】佐竹家③――優れたバランス感覚

…は秋田藩の藩主として幕末まで続いている。江戸時代の藩主としては中期に財政対策に奔走する一方で洋画家・小田野直武のパトロンとなり、自身も洋画家として名を残した義敦や、幕末期に財政再建を成功させ、戊辰戦争においては奥羽越列藩同盟から新政府側に寝返って勝利に貢献した義堯などが知られている。 動乱の中を生きる 佐竹家の歴史をたどるというのは、ほとんど中世から近世にかけての東北・関東地域の複雑怪奇な情勢をたどるということであり、これをまとめるにあたってはかなり苦労した。なにせ、非常に複…

日本史における「変」と「乱」について対談しました

…がす事件はそこまで 幕末の尊王攘夷運動がそのまま倒幕運動となり江戸幕府は崩壊する クーデターによって生まれた新政府だが、明治初期には士族反乱と要人暗殺がつづいた 「出る杭は打たれる」というより、権力を握ると腐敗がはじまるといった感じですね。そして権力者を打倒する勢力が結集して政変を起こし、今度は勝利した側での主導権争いがはじまり、最終的な勝者の子孫がまた腐敗していくという流れが何度も確認できました。また討伐も一度で終わることはなく、残党が蜂起して反乱を企てるのもパターンですね…

【10大戦国大名の実力】伊達家⑤――地方勢力の栄光と悲哀

…ともいわれる)として幕末まで存続。また、政宗の長子・秀宗が伊予に所領を与えられ、宇和島藩十万石としても存続していった。宇和島藩八代目の伊達宗城は幕末期に積極的な藩政改革を成功させた人物で、「幕末の四賢侯」としてその名を残している。 このように東北で影響力を誇った名家、というと中央風の文化には縁がないような印象を受けるが、実は全くの間違いである。ここまでに名を挙げた代々の伊達家当主の多くが、風流の面でも逸話を残している。大膳大夫政宗は詩歌を愛した風流人であったといい、稙宗もまた…

仇討ちの歴史について教わりました

… 護持院原の敵討ち 幕末期に、「護持院原(ごじいんがはら)の敵討ち」という事件が起きた。天保の改革の立役者のひとり、鳥居忠耀(とりいただてる)の家臣・本庄辰輔(ほんじのうたつすけ)が御徒士(おかち)・井上伝兵衛(いのうえでんべえ)を殺害した。伝兵衛の弟・熊倉伝之丞(くまくらでのじょう)は松山藩士ながら兄の仇を打つべく江戸へ来たが、辰輔に察知され返り討ちにあう。伝之丞の子・伝十郎(でんじゅうろう)と伝兵衛の剣の弟子・小松典膳(こまつてんぜん)は二人の仇を討つべく辰輔を探し、逮捕…

特別公開中の二条城西門を見てきた

…代・家光の上洛以降は幕末の家茂上洛まで230年ほどの間、二条城が利用されなかったこともあり、城番のモラルも低下していたようで小刀で彫ったと思われる落書きが見事に残っています。 西門最大の見所かもしれません。狐とかはかなりうまいんですが、やっぱり三つ葉葵はむずかしいみたいです。というか三つ葉葵を彫ったりしたら怒られそうですけどね。 見るだけなら5分もかからないと思います。ただ次から次に人がやってくるのでほかのお客さんが写り込まないように撮影するのはむずかしいかもしれません(監視…

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