攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

譜代 の検索結果:

【殿様の左遷栄転物語】第3章 廃嫡される跡継ぎ 派閥争いのとばっちり左遷

…かかわりのある親藩・譜代大名はともかく、もともとは徳川家と同格の大名であり、また徳川の天下になる前には豊臣家に臣従していた外様大名たちとしては、お取り潰しを免れるために「豊臣家の味方をするなどの形で謀反をする気はありませんよ」とアピールしていかなければならなかった。 その視点で考えれば、たとえば秀吉と親しく付き合った過去のある人間を跡継ぎにしたりすると幕府に警戒されるのでは、と思えてくる。また、家康の娘を妻に迎えて、彼女が産んだ子を跡継ぎにすれば徳川との縁が深まって取り潰され…

【殿様の左遷栄転物語】政争で潰された大名② 宇都宮藩本多家

…松平)家に仕えてきた譜代の名門で、藤原北家の流れであるという。この一族は大きく「定通系」と「定正系」に分かれ、本流である定通系の代表的な人物としては、立花宗茂の項で紹介した本多忠勝がいる。そして、定正系の代表こそが正信・正純親子である、といっていいだろう。 この正信もまたなかなかに数奇な運命をたどった人物である。彼は家康の幼い頃からの側近であったが、三河一向一揆では一揆側について、反乱鎮圧後に出奔。各地を渡り歩いた末に家康の元へ戻り、以後は謀臣としてさまざまな場面で活躍した、…

【殿様の左遷栄転物語】政争で潰された大名① 小田原藩大久保家

…ではない。ここからは譜代大名――それも、政争に敗れた家のドラマを追いかけたい。 大久保家は下野国の宇都宮家から分かれた血筋であるという。この一族は特に兄弟が多く、「大久保党」と呼ばれる集団として代々徳川家に仕え、活躍した。そうした数々の功績に報われる形で、1590年(天正18年)にはかつて北条家の本拠地であった相模国小田原に大久保忠世が4万5千石を与えられ、大名となっている。4年の在任ののち、忠世が病気のためこの世を去ると、彼の息子である忠隣が跡を継ぐことになった。 忠隣は幼…

【殿様の左遷栄転物語】死後に仕掛けられた罠 加藤清正

…あるために先祖代々の譜代を持たない秀吉の子飼いとなり、多くの功績を立てたことは間違いない。 豊臣政権において、清正は肥後国の熊本に19万5千石余を与えられた。もともとは織田家臣時代の同僚である佐々成政が肥後に入ったが、検地をめぐって地元の国人たちと対立して大きな武力反乱を引き起こしてしまい、切腹に追い込まれてしまう。結局、鎮圧後に清正ともうひとり、小西行長が肥後に入って、この地を治めることになった。 関ヶ原の戦いが起きると、清正は東軍に与して九州の各地を転戦することになった。…

【殿様の左遷栄転物語】第2章 目指せ「お家再興」 失職したけど地位を回復

…川家臣が大名となった譜代大名もまた、少なくない数が改易を受けている。 そのような改易の流れも5代将軍・綱吉の頃で一段落して、改易の数はぐっと減る。また、そもそも「当主が死罪で家は改易、お家復興の道は完全に閉ざされる」というケース自体が大坂の陣・島原の乱のあとは見られなくなって、何らかの形(小大名、旗本、藩士、あるいは大庄屋など)で、お家再興を遂げるケースは決して珍しくない。この章で紹介するのは、そうした再興大名たち――現代風にいうなら、「一度左遷あるいは失職したが再びある程度…

【殿様の左遷栄転物語】波乱万丈の再興 木下勝俊と滝川雄利

…代々仕えてきたような譜代の家臣団を持たなかった。そこで、弟の秀長をはじめとする数少ない血縁を非常に大事にし、自らの政権の中枢に組み込んだ。おねの兄・木下家定もそのうちのひとりだ。その家定の長男が勝俊である。弟のひとりは関ヶ原の戦いで西軍から東軍に寝返って戦いの趨勢を決定付けた小早川秀秋だ。勝俊は若狭国小浜城を拠点とし、6万2千石の大名であった。 関ヶ原の戦いにおいて、家定は妹であるおねを守る形で戦いには参加せず、家康もこの人には特別手出しをしていない。これに対し、子の勝俊は家…

【殿様の左遷栄転物語】米五郎左の息子 丹羽長重

…とに取り込み(秀吉は譜代の家臣を持たないので、貪欲に人材を集めたとされる)、また「大大名であっても秀吉にはかなわないのだ」とアピールする「一石三鳥」を狙ったのではないか、というわけだ。 また、秀吉は長秀の死に方を「武士の本意にあらず」(『徳川実紀』)としてそのときすぐに所領を没収しようとしたものの、家康がかばいたてたのでそこでは許された……などという話もあり、そもそも丹羽家という大大名を最初から残すつもりはなかったのでは、と見ることもできるだろう。 「ボンボン大名」長重 その…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府14代・徳川家茂――血筋で選ばれた貴族的将軍 1846年~1866年

…問題で血筋を重視する譜代大名らが彼を担ぎ上げたのは、この将軍家との血筋の近さが理由だった。家茂は穏やかな性格の持ち主で下からの人気もあり、貴族的な容貌の持ち主だった。1858年(安政5年)に将軍として擁立されたが、このときは弱冠14歳だったため、御三卿の田安慶頼(たやす よしより)が後見人としてついている(3年後に解任)。活発な少年で、しばしば虫や動物などを追いかけては家臣たちを困惑させたという。 幕末の動乱期の将軍だけあって、家茂の治世は当初から波乱含みであった。彼を将軍に…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府8代・徳川吉宗――幕府を大改革した、強運の将軍 1684年~1751年

…の発言力を失っていた譜代の名門大名たちを重く扱った。しかし、その一方では側用人と同種の役割を果たす「御側御用取次(おそばごようとりつぎ)」を設置し、ここに紀伊藩主時代からの側近を配置することでバランスのいい政治を試みてもいる。彼が抜櫂した人材は多いが、特に町奉行などを務めた大岡忠相(おおおか ただすけ)は有名だ。 ちなみに、吉宗は「正徳の治」時代の政策を転換していったわけだが、白石を嫌っていたわけではないらしい。むしろ、必要とあれば意見を求めるようなこともあったようで、吉宗と…

最上義光が山形城に瓦葺きの本丸御殿を築いた理由

…たのち入城した親藩・譜代大名が整備したものである。江戸期になると山形城は会津若松城と並んで伊達家への重要な抑えとなった。だから、逆に江戸初期に高石垣で武装することになった。たとえば、家光の異母弟・保科正之は、高遠→山形→会津と転封を重ね、兄のため文字通り徳川の藩屏となる堅城を築いた(そして、それが200年後に戊辰戦争における会津の悲劇を生むことになるとも知らずに)。 過去の名門の矜持を胸に、成り上がりの豊臣政権への文化的キャッチアップをはかった最上の意気地、その豊臣政権から権…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府3代・徳川家光――江戸幕府を完成させた生来の将軍 1604年~1651年

…ようなシステムから、譜代の名門大名から選ばれた老中や若年寄といった役職のものたちが合議によって政治を執り行っていくシステムヘの転換を図った。さらにこの以前から、宗教関係は寺社奉行に、経理関係は勘定奉行に、と権限と役職の整理を行っている。 キリスト教の禁教は家康時代から進められていた。秀忠の時代にはそれまで活発だった外国貿易政策も転換し、中国以外の外国船は平戸・長崎にだけ来航を許されるようになった。このような対外政策が完成し、ついに一部の例外を除いた外国人の来航禁止と日本人の出…

【歴代征夷大将軍総覧】徳川将軍――江戸時代

…前から徳川家臣だった譜代の大名や旗本・御家人が主で、彼らが幕府の重要ポストを独占した。天下統一以後に徳川支配下に入った大名たちは外様大名と呼ばれ、長く幕政にかかわることを許されなかった。これもまた、大名統制のひとつの手段といっていいかもしれない。 巨大な官僚制度というべき江戸幕府体制は長く平和を維持させたが、やがて経済の成長に代表される社会システムの変化や諸外国による外圧、体制そのものの疲弊によって崩壊していく。これが幕末の動乱であり、時代は明治維新へと移り変わっていく。そう…

明智光秀と荒木村重――あるいは「織田を見限った男」たち?

…も紹介した明智の重臣、明智秀満と再婚したという。 信長は多数の配下に裏切られたことで知られ、最大の例こそ「本能寺の変」である。その理由を紐解いてみると、勢力の急激な膨張の中で従った外様の武将が、自分の立場が悪い、織田の情勢が不利だと見て裏切ったケースが多い。村重のケースはまさにそうであろう。光秀もまた、同じように織田政権の不利と己の立場の不安定さを見出したのではないか。譜代家臣のように長年醸成された信頼感のないことが原因だったのではないか。そのように考えるのだが、如何だろう。

【戦国時代の境界大名】有馬氏――内憂外患を周辺大勢力の力で乗り切る

…され、直純はのちに1万3千石を加増されて日向延岡へ移封された。延岡では後代の清純が藩主の際、農民一揆のため3千石減知で越後糸魚川に転封、さらに越前丸岡に移された。以後、有馬氏はここの藩主として続き、幕末、そして明治の廃藩置県を迎えている。 この間、外様から譜代格となっていた有馬氏は、幕末の藩主・道純が若年寄や老中と幕閣につき、2度の長州征討にも参加するなどしたが、戊辰戦争にあっては速やかに新政府側についた。気を見るに敏なところは先祖譲りといったところか。 kojodan.jp

【戦国時代の境界大名】水野氏――天下の趨勢を見極めながら動乱を生き抜き、譜代大名の中核に

水陸の要衝・知多半島 水野氏は尾張国(愛知県)の南に突き出る知多半島北部を中心に勢力を持った国衆である。源頼朝に仕えた2代重清が、春日井郡山田庄水野(愛知県瀬戸市)に移ったことがその名の由来であるという。戦国乱世においては三河国(愛知県)西部の刈谷(同刈谷市)に進出してここを拠点とする一方、知多半島の南部にも進出、勢力拡大に努めている。この時期の知多半島には支配者というべき勢力がおらず、中小勢力による群雄割拠状態になっていた。 といっても、知多半島が価値のない場所だった、とい…

【戦国時代の境界大名】相馬氏――奥州第一の実力者・伊達氏との抗争を戦い抜く

…、伊達氏を支えてきた譜代家臣団にそっぽを向かれたまま戦い続けるのには無理があったのだろう。あるいは、長期戦のなかで晴宗の若さがものをいい出したのかもしれない。 ともあれ、親子の和睦が成立し、稙宗は隠居して伊達氏の実権をすべて息子・晴宗に譲り渡した。こうして伊達氏には平和が戻ったが、なにもかも元通りとはいかない。東北を制覇するかに見えた伊達の勢いは長い内乱のなかで衰え、会津の蘆名や常陸(茨城県)の佐竹といった勢力の手が伸び始める。そしてなによりも、稙宗に味方しながらも勝たせるこ…

【戦国時代の境界大名】真田氏――時代の趨勢そのままに主君を変える

…家に分かれ江戸時代に入ったが、沼田真田家はのちに領内騒動で改易されている。松代藩は江戸城帝鑑間詰の譜代大名扱いで、とくに幕末に養子に入り家督を継いだ真田幸貫は、寛政の改革で知られる松平定信の実子であることもあってか、老中になっている。幸貫は洋学者・佐久間象山を登用するなど佐幕派のなかでも開明的だったが、彼の病没後に松代藩は迷走して尊王思想へと偏り、象山も京で尊攘過激派に暗殺されてしまう。結局、松代藩は早期に倒幕派へと与し、戊辰戦争でも新政府軍に参加した。 kojodan.jp

【戦国時代の境界大名】諏訪氏――武田に滅ぼされた名族がその出自故に蘇る!

…の家督を継承した後、譜代の家臣団と勝頼の仲が険悪になったことにも関わりがあると考えられている。本来あとを継ぐべきではなかった男が、他所から腹心を連れて当主となれば、それは古株にとっては面白くないのも当然である。 その後の諏訪氏 さて、話を諏訪の地に戻そう。1582年(天正10年)、武田勝頼は織田・徳川連合軍との戦いの末、追いつめられて死んだ。甲斐・信濃を占領した織田政権も、同年に起きた「本能寺の変」での信長の横死によって空中分解する。この時、一気に活気づいたのが諏訪周辺の中小…

【戦国時代の境界大名】井伊氏――大勢力の狭間で内紛と戦乱の危機を乗り越える

譜代の名門、彦根藩井伊家 近江国(滋賀県)彦根藩の井伊家といえば、押しも押されもせぬ江戸幕府譜代の重鎮である。通常、江戸幕府においては幕政にあずかる譜代大名はだいたい数万石程度で小領、時には数十万石に及ぶこともある外様大名は幕政に口を出すことを許されぬ、という形でバランスをとっていたとされる。にもかかわらず、井伊氏は彦根35万石の大領を与えられていた。幕臣最上位の職である大老を最も多く務めてきたこともあって異例の厚遇を与えられ、また発言力を備えてきたのが井伊氏であるといってい…

【江戸時代のお家騒動】細川重賢の財政再建 質素倹約藩主が挑んだ宝暦の改革

…を重用したのだから、譜代の家臣たちを中心に藩内部に少なからず反発が生まれ、対立が起きるのはむしろ当然の現象といっていいだろう。平太左衛門は1765年(明和2年)に家老となっていたからなおさらだ。 たとえば平太左衛門の大奉行就任に際しては目付の1人が「堀に三つの悪事あり」と重賢に訴えているし、随分後のことになるが1774年(安永3年)にも十八ヶ条にわたる批判が重賢のもとに届いている。しかし、重賢はあくまで平太左衛門を信用し、重用したため、これらの批判は効果を発揮しなかった。 よ…

【江戸時代のお家騒動】⑨保守派と改革派の路線対立

…してきた保守的な門閥譜代の家臣団にとっては「低い身分のものが自分たちと同格やそれ以上になることの嫌悪」および「既得権益を奪われることへの恐怖」が改革の必要性より先立つものとなり、結果として保守派と革新派の派閥対立が巻き起こることとなったのである。 改革がうまくいったケースでは藩主の威光がうまい方向に作用したり、あるいは革新派がうまく立ち回ってこれらの対立を回避できた。しかし、対立が決定的に破局へつながれば、お家騒動になってしまうケースもあったのである。この⑨では比較的うまくい…

【江戸時代のお家騒動】水野騒動 抵抗勢力の重臣に“押込められた”若き名君の悲劇

…受け継ぐ少壮の君主と譜代家臣らの対立 1737年(元文2年)に家督を継いだ岡崎藩主・水野忠辰(ただとき)は、当時まだ16歳だった。忠辰の祖父は8代将軍・徳川吉宗に仕えていた水野忠之であり、彼は江戸幕府3大改革のひとつに数えられる享保の改革の前半期を指導した人物だ。忠之に可愛がられていた忠辰は、その改革にまつわる苦労話もよく聞かされていたらしく、その影響から藩政改革に意欲的だった。しかし重臣たちは忠辰に幕閣としての活躍を望んでいたようで、その気持ちのズレがやがて両者の溝を深くし…

【江戸時代のお家騒動】越前騒動 市川雷蔵主演映画にもなった史上名高い殿ご乱行

…今村盛次、本多富正 譜代VS新参家臣団の2大派閥による主導権争い 徳川家康の次男・結城秀康の子である松平忠直は1607年(慶長12年)に父の死を受けて家督を継ぎ、68万石を譲り受けた。忠直の「忠」の字は将軍・秀忠から一字を賜ったものであり、また1611年(慶長16年)には秀忠の三女・勝姫を正室に迎えており、彼の「特別扱い」がよくわかる。 この時の騒動は、重臣同士の勢力争いだった。まず、領地問題から領内で1万石を有する久世但馬と、町奉行の要職にあった岡部自休が対立。これがきっか…

【江戸時代のお家騒動】津和野騒動 藩主直臣VS尼子旧臣の争い

…。勘解由らは尼子氏の譜代大名として活躍していた者たちで、主家が滅んだ後もその再興を願って活動してきた。大力の祖父にあたる亀井茲矩もそれに協力していた人物で、彼が豊臣氏から信頼を受けていた時代には、尼子氏の再興の望みもあった。 しかし時代が移り変わり豊臣氏の力も潰えると、主家の再興は難しくなり、勘解由らも時代の流れに従い亀井家の家臣として仕えていくことが求められたのである。そのような状況にあって、新参者でありながら権力を手にしている真清と勘解由らの間に対立の構図が生まれるのは、…

【江戸時代のお家騒動】越丸騒動 “押込め”された暗君が復帰して大混乱の末、改易に

…し十郎左衛門の死後、譜代家臣の本多織部や寺田蔵之丞といった者たちが台頭してくると、彼らは藩政を任されているのを良いことに不正や専横を極めていった。そのような状況であったため藩政は乱れていき、家臣や領民は不満を募らせていったのだ。 これを憂えた家臣の太田又八は、重益の舅にあたる水戸頼元や老中の大久保忠朝らに相談した。その結果、織部や寺田たちの知行を取り上げ、追放することが決定。1680年(延宝8年)に織部らは、悪政の責任を追及され、藩から追い出された。 押込めされた暗君が復帰し…

【江戸時代のお家騒動】船橋事件 家臣同士の権力闘争は喧嘩両成敗に

…めた。加えて、船橋は譜代の重臣たちに対しても高圧的な態度をとっていたため、より一層反感を買うこととなったのである。 信義が船橋に強い信頼を寄せていたことも、譜代の重臣らの不満を高める原因となった。江戸で暮らしていた信義は、国入りするまで藩を守る譜代の重臣らとの関わりがなかったために、必然的に傅役として長い間傍にいた船橋を重んじるようになったのだ。そのため、信義は国入りしたその年に、船橋に400石を加増している。しかしその一方で、譜代の重臣であった兼平伊豆(かねひら・いず)や乳…

【江戸時代のお家騒動】⑥殿様VS門閥譜代家臣の戦い

…を凌駕するほどの門閥譜代の存在感 譜代、という概念がある。「代々仕えている家臣」程度の意味で考えてもらえばいい。「譜代大名」という言葉が有名だが、これは大名のうち徳川家が天下を取る前から仕えてきた、すなわち譜代のものを指す。 太平の時代が長く続き、藩という組織が硬直化していくようになると、自然と彼ら譜代――その中でも代々重職を世襲する名門が力を持ち、「門閥譜代」などと呼ばれるようになる。彼らは実務面という意味ではしばしば大名を凌駕するほどの力を持ったため、門閥同士の主導権争い…

【江戸時代のお家騒動】大村藩の御一門払い 藩内の抵抗勢力を一掃する

…いを実行に移すことができたものと思われる。 かくして大村氏は8138石の知行地を手に入れることに成功。これらの没収地は藩の直轄領とされた。そのため、大村藩はこれまでになかった経済基盤を確立し、逼迫した財政を改善していくことができたのだ。また、これと時を同じくして家臣団の再編成も行われた。一門に代わり、譜代家臣や在地領主が上層部を占めるようになり、家老や城代に任命されている。ほとんどの庶家一門が藩政の中枢から追放される形となり、その結果本家は権力を取り戻すことができたのだった。

【江戸時代のお家騒動】伊達騒動 バカ殿の押込め、守旧派 vs 革新派、幕府介入

…甲斐宗輔だ。伊達家の譜代の家老である原田家出身の宗輔は、宗勝と手を組んで集権化をはかった。その結果、1668年(寛文8年)ごろになると宗勝が大きく藩政を牛耳ることになっていたのである。 これに反発したのが伊達一門の伊達安芸宗重だ。宗重は以前、領地が隣同士の伊達宗倫と領地の境界の件で揉めたことがあり、この時役人がした検地に不当な点があった。これを家老の宗輔に告発したが相手にされず、宗重は激怒。そのため、このことと同時に宗勝の独裁政治について幕府に訴え出た。宗重は宗勝と対立する亀…

【江戸時代のお家騒動】里見騒動ーー大久保長安事件のとばっちりと見せしめの改易

…つまり徳川家にとって譜代の大名ではなかったことが注目される。「関ヶ原の戦い」ののち、家康が関東周辺を譜代大名で固め、外様大名を警戒して遠方へ追いやったことはよく知られている。しかし里見家は、安房国館山藩という江戸を間近に臨む配置にあった。準譜代という立場にあるとはいえ、結局は外様大名だ。関東の一角に置いておくのは、幕府にとって少々居心地が悪いものだったと思われる。 そして第二に、里見家の改易は他の諸大名に対する「見せしめ」の意味が込められていたという。忠義の改易が言い渡された…

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