攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

お家騒動 の検索結果:

日本史における「変」と「乱」について対談しました

…」こそ少ないものの「お家騒動」は各藩で起きていました。榎本先生によれば、江戸時代は地方分権で、藩という地方政府のあちこちでそういう事件が起きていたものの、全国的にその混乱が波及することはなかったので「変」や「乱」といった名称が用いられてないのだろうとのことでした。 とはいえ戦国時代以前はお家騒動でも「二階崩れの変」とか「天文の乱」とか変や乱を使ってるのでこのネーミングルールはやっぱり謎です。(いちおう影響範囲の大きさである程度の基準がありそうですが) まとめ=大きな流れで理解…

【殿様の左遷栄転物語】藩主の乱心で改易 津山藩森家

…とになるだろうか。 お家騒動の火種は消えたのに 一方、無事に跡を継いだ長成は幕府の命令に従い普請に力を入れたが、1697年(元禄10年)に27歳で病没する。しかしこの時、彼には嗣子となる者がいなかった。そこで長成の叔父にあたる関衆利(忠継・長武らの兄弟)が末期養子とされ、幕府の許可を得て森家を継ぐことになる。 ところが、ここで問題が起きた。相続のために江戸に向かう途中、衆利が発狂してしまったのである。もともと体調の良くなかった衆利に医師が朝鮮人参を大量に加えた薬を処方したとこ…

【江戸時代のお家騒動】津軽騒動 藩主押込め未遂事件の果てに

…し)の時代には二つのお家騒動が起きている。前に紹介した船橋事件と、ここで紹介する津軽騒動(正保の変とも呼ばれる)がそれにあたる。船橋事件は家臣同士の対立だったが、この津軽騒動は藩主自身が排除の対象となった。 事件が起こったのは1647年(正保4年)、船橋事件の主要人物の1人である兼平伊豆が死去した翌年のことである。信義には数人の弟がいたが、そのうち4弟にあたる信光らが、信義を強制的に隠居させ次弟の信英にその座を譲らせようと謀策を立てたのだった。 信義を押し込めようとした理由に…

【江戸時代のお家騒動】加賀騒動 30年以上にも及ぶ江戸三大お家騒動のひとつ

…のだ。他のいくつかのお家騒動と同じように、この事件も脚色されて人形浄瑠璃や歌舞伎の演目となっている。その場合、大槻は加賀藩乗っ取りを企む奸臣として描かれることがほとんどだが、実際のところはどうだったのだろうか。 まず、大槻の簡単な経歴を紹介していく。彼は「伝蔵」「内蔵允」などの通称で知られており、14歳の時から当時の加賀藩主・前田綱紀の子である吉徳に、居間坊主として仕え始めた。大槻は才知に恵まれたために吉徳の寵愛を受け、1723年(享保8年)に綱紀が隠居し吉徳が藩主になると、…

【江戸時代のお家騒動】酒井忠徳による財政改革 豪商・本間光丘の起用

…藩財政は危機的状況 お家騒動というほどの事件にはならなかったが、藩政改革が内部対立に結びついたケースをもうひとつ紹介する。こちらの主役は本間光丘という1人の商人だ。 18世紀後半、庄内藩は歴代藩主の浪費や度重なる飢饉によって財政破綻しかけていた。江戸藩邸にあった七代藩主の酒井忠徳はまだ若く、国元の家臣たちは逼迫する財政に頭を抱えるしかない。そんな時に財政管理者に任命されたのが、庄内藩の豪商・本間光丘だった。 まず、忠徳が藩主となるまでに庄内藩がどのようにして財政難に陥ったのか…

【江戸時代のお家騒動】細川重賢の財政再建 質素倹約藩主が挑んだ宝暦の改革

…生させなかった――「お家騒動」はなかったのである。 にもかかわらず本連載で紹介するのは、事件にならずとも対立・抗争は確実に存在したからだ。そしてその背景にあったのは「主君の信頼を得た新興勢力と、既得権益を守ろうとする保守勢力」の反目であったわけで、構図としてはこの章で紹介しているお家騒動の数々と何も変わらない。そのため、比較対象としてここに紹介する。 細川重賢は熊本藩主・細川宣紀の子ではあったが、あくまで5男であり、家を継ぐべき立場ではなかった。ところが4人の兄のうち3人が次…

【江戸時代のお家騒動】七家騒動 「為せば成る」の名君に立ちはだかった大問題

…生涯をかけた彼にも、お家騒動で苦しんだ時期はあった。 鷹山はもともと高鍋藩主・秋月種美の次男として生まれたが、養子として上杉氏に入ったという経歴の持ち主である。1767年(明和4年)、養父である8代藩主・重定が隠居するのに伴って米沢藩主になった。この時の彼の呼び名は治憲で、鷹山を名乗り出したのは1802年(享和2年)の頃からなのだが、本書では知名度の高い「鷹山」で通す。 さて、藩主となった鷹山が初めに行ったのは大倹約であった。藩主の生活を見直し、1500両あった仕切料を209…

【江戸時代のお家騒動】⑨保守派と改革派の路線対立

…われることの恐怖からお家騒動へ発展 江戸時代も中期から後期に入ると、お家騒動の形も変わっていく。藩政改革をめぐる対立というケースが頻出することになるのだ。 この時代、多くの藩が「制度の硬直化」と「財政の悪化」という問題に直面し、何らかの形で改革を行う必要に迫られた。そんな中、英明と名高い藩主はしばしば低い身分の中から優れた人材を抜櫂し、彼をバックアップすることによって藩政改革を実現しようとしたのである。 硬直化した身分体制を打破し、新しい風を吹き込むという点ではこの試みは非常…

【江戸時代のお家騒動】お由羅騒動 幕末薩摩の後継者争いに幕府も介入

【時期】1850年(嘉永3年)【舞台】薩摩藩【藩主】島津斉興【主要人物】島津斉興、島津斉彬、お由羅の方、調所広郷 藩財政を背景に藩主・斉興と長男・斉彬の路線対立 このお由羅騒動は、近思録崩れの後に薩摩藩で起こった騒動である。藩主・島津斉興の側室であるお由羅の方が、自らの子を後継者にしようと画策したために起きた事件だ。しかしその背景には、近思録崩れの頃から揺れていた薩摩藩の財政事情などがあり、単純に「出世欲に駆られた側室が起こした後継者争い」と片付けることはできない事件となって…

【江戸時代のお家騒動】近思録崩れ 隠居した父が息子の藩主を押込め。薩摩藩最大の大獄

…崩れとも呼ばれるこのお家騒動は、処分者が総勢100名以上にものぼる、薩摩藩史上最大の大獄である。島津家の25代目当主・島津重豪(しげひで)は、父の死によって1755年(宝暦5年)に藩主になって以降、1787年(天明7年)までの32年もの間、藩主を務めた人物だ。重豪が藩主となったのは、薩摩藩が財政面の危機に瀕している頃だった。 薩摩藩はもともと火山灰に覆われた土壌のせいで米が育ちにくく、海外との貿易によって収入を得ていた。しかし幕府が鎖国令を敷くと、海外との貿易に制限が設けられ…

【江戸時代のお家騒動】水野騒動 抵抗勢力の重臣に“押込められた”若き名君の悲劇

【時期】1749年(寛延2年)【舞台】岡崎藩【藩主】水野忠辰【主要人物】水野忠辰 名臣・水野忠之の血を受け継ぐ少壮の君主と譜代家臣らの対立 1737年(元文2年)に家督を継いだ岡崎藩主・水野忠辰(ただとき)は、当時まだ16歳だった。忠辰の祖父は8代将軍・徳川吉宗に仕えていた水野忠之であり、彼は江戸幕府3大改革のひとつに数えられる享保の改革の前半期を指導した人物だ。忠之に可愛がられていた忠辰は、その改革にまつわる苦労話もよく聞かされていたらしく、その影響から藩政改革に意欲的だっ…

【江戸時代のお家騒動】越前騒動 市川雷蔵主演映画にもなった史上名高い殿ご乱行

【時期】1623年(元和9年)【舞台】福井藩【藩主】松平忠直【主要人物】松平忠直、今村盛次、本多富正 譜代VS新参家臣団の2大派閥による主導権争い 徳川家康の次男・結城秀康の子である松平忠直は1607年(慶長12年)に父の死を受けて家督を継ぎ、68万石を譲り受けた。忠直の「忠」の字は将軍・秀忠から一字を賜ったものであり、また1611年(慶長16年)には秀忠の三女・勝姫を正室に迎えており、彼の「特別扱い」がよくわかる。 この時の騒動は、重臣同士の勢力争いだった。まず、領地問題か…

【江戸時代のお家騒動】⑧自浄作用としての「藩主押込め」

…こまで見てきた通り、お家騒動には様々な終結パターンが存在する。大規模なものに発展する前に「手打ち」になるケースもあれば、行き着くところまで行き着いてしまって幕府が介入、改易処分になってしまうケースもある。そこまでいかなくとも、かかわった関係者(藩主含む)が処刑や切腹、隠居、追放などの処分を受けて決着、というケースも珍しくない。 そんな中、「藩主押込め」という形で決着することがあった。これは家臣たちが藩主を押込め、すなわち強制的に隠居させてしまうケースだ。藩主がよほど暗愚で「ど…

【江戸時代のお家騒動】喜連川騒動 足利氏に連なる名家はなぜ改易となったか?

…を概観すると「家中でお家騒動があり、最終的には幕府が介入してこれを鎮めた」ということになる。ところが、事件の詳しいあらましということになると幕府、喜連川藩、農民という三者の残した史料がそれぞれに食い違い、何が真実なのか見極め難くなっているのが実情なのだ。 まず幕府の認識は「喜連川家の家臣・二階堂主膳と高四郎左衛門の対立が家中を二分する争いに発展したため介入。尊信の責任が大きいとこれを咎め、隠居を命じた」ということになっている。一方、喜連川藩の史料には幕府の認識に加えて「尊信が…

【江戸時代のお家騒動】牛方馬方騒動 豊臣恩顧の加藤家改易のきっかけとなる

…ことに加え、彼の正室が秀忠の養女であったことも大きい。 その後、右馬允正方や棒庵らが忠広を支える形で政権の中心となっていったが、1632年(寛永9年)に加藤家は突然改易となってしまう。理由については、加藤家が豊臣家恩顧の大名だったから等、諸説あってはっきりとしていない。この牛方馬方騒動によって、これまで加藤家取り潰しの機会を窺っていた幕府が「このようなお家騒動が起こるようでは、加藤家も大したことはない」と判断し、折を見て処分を実行に移そうとしたのではないか、とも見られている。

【江戸時代のお家騒動】津和野騒動 藩主直臣VS尼子旧臣の争い

【時期】1635年(寛永12年)【舞台】津和野藩【藩主】亀井茲政【主要人物】多胡真清、多胡勘解由 家康の孫娘を母に持つ3歳の幼き藩主の誕生 1617年(元和3年)、因幡鹿野城主であった亀井政矩が、4万3千石の津和野藩に移封された。津和野藩は、関ヶ原の戦いで戦功を上げた坂崎直盛が成立させた藩だったが、わずか一代で坂崎家が断絶となってしまったため、そこに政矩が入ることになったのだ。 それからわずか2年後の1619年(元和5年)、政矩は落馬により命を落としてしまう。政矩には、大力と…

【江戸時代のお家騒動】仙石騒動 老中首座を狙う水野忠邦が野望実現に利用した事件

【時期】1835年(天保6年)【舞台】出石藩【藩主】仙石久利、仙石政美【主要人物】仙石左京、仙石造酒、仙石主計、松平康任、水野忠邦、脇坂安董 主家の血を引く家臣、仙石式部家と仙石主計家の対立 この仙石騒動は出石藩主・仙石家で起きた権力争いだが、この騒動の特徴は老中・水野忠邦たちの陰謀によって事件が裁かれたところにある。つまり、大名家で起きた騒動が幕府内での権力争いに利用されたのだ。まず、仙石家の家系に触れておこう。出石藩仙石家の祖となったのは、豊臣秀吉に仕えていた秀久だ。関ヶ…

【江戸時代のお家騒動】米沢騒動 幕閣重鎮の後ろ盾でお家断絶を回避する

【時期】1664年(寛文4年)【舞台】米沢藩【藩主】上杉綱勝、上杉綱憲【主要人物】保科正之、吉良義央 3代藩主・綱勝が吉良義央の家で急死する 米沢藩の3代藩主は上杉綱勝である。綱勝は父・定勝が早逝したため、わずか8歳で家督を継ぎ、藩主となった。また網勝は18歳で国元に入ったものの、能楽に熱中したり、狩りに6000人もの家臣を使ったりと、藩財政を顧みない振る舞いが目立った。米沢藩は綱勝が藩主に就任して以来、領内が大火に見舞われたり江戸城の石垣普請を命じられたりと、藩財政を逼迫さ…

【江戸時代のお家騒動】越後騒動 家康のひ孫が当事者となった後継者争い

【時期】1679年(延宝7年)~1681年(天和元年)【舞台】高田藩【藩主】松平光長【主要人物】小栗美作、荻田主馬、永見大蔵 当初は穏便な手法が模索されるが、一転して厳格な処分に この事件が「越後騒動」と呼ばれるのは、舞台となる越後高田藩の当時の藩主、松平光長が官職から「越後中将」と呼ばれていたことに起因する。ちなみにこの光長は、徳川家康の次男である結城秀康、そして三男である徳川秀忠の孫にあたり、御三家に次ぐ名誉ある血筋を引く人物であった。それだけに、この事件は注目されること…

【江戸時代のお家騒動】⑦幕府介入型お家騒動

江戸時代は高度な地方自治体制が成立 江戸時代はかなり高度な地方自治体制が成立しており、中央政権である幕府は地方自治体である諸藩にあまり介入しなかった。江戸時代初期には謀反防止もあってたびたび改易処分を下したが、幕府の支配体制が確立するにつれてなりをひそめていったのである。それでも、幕府が諸藩にまったく手を下さない、というわけではなかった。ここでは、そうした「幕府による介入」が見られたケースについて紹介する。 身につまされる教訓⑦ 幕府の調整機能は意外に有効? 実際のケースで見…

【江戸時代のお家騒動】越丸騒動 “押込め”された暗君が復帰して大混乱の末、改易に

【時期】1680年(延宝8年)~1695年(元禄8年)【舞台】丸岡藩【藩主】本多重益【主要人物】本多重益、本多織部、太田又八 四代藩主・重益は酒色に溺れ、悪政が始まる 越前丸岡藩の藩政が乱れ始めたのは、4代藩主・重益の頃からだ。重益が家督を継いだのは1676年(延宝4年)、父であり3代藩主の重昭が亡くなったためだった。重昭は非常に優れた君主だったと謳われ、丸岡藩の藩体制が確立したのも彼の頃だといわれる。 その子である重益は生まれつきの暗愚だった。昼夜問わず酒と女に溺れ、政治に…

【江戸時代のお家騒動】二の丸騒動 後継者争いも加わり藩内を二分する一大派閥闘争

…島藩諏訪家で起こったお家騒動のことだ。騒動の名前になっている「二の丸」とは、事件の主要人物である諏訪家家老の諏訪図書・大助父子らが高島城二の丸に居を構えていたことから、そのように呼ばれている。そして、彼ら二の丸一派と対立することになったのが、三の丸に居を構える一派だった。こちらは千野兵庫という家老が中心となっており、両派は藩内を二分する勢力となっていた。 二の丸家は初代藩主・頼水の弟である頼雄に連なる家系で、家臣でありながら主家とは血縁関係で結ばれていた。一方の三の丸家も、戦…

【江戸時代のお家騒動】筒井騒動 改易のウラには家康による深謀遠慮があった!

…い。高虎は外様でありながらも、家康への忠勤ぶりから厚い信頼を寄せられていた。豊臣系の大名でありながら信頼のおける高虎を、大坂にほど近い伊賀に配置することは、大坂城を攻略するにあたって大変心強い拠点となる。つまり、そのために邪魔となった定次は、改易に追いやられたということだ。 これらの理由を見ると、定次の改易は家康の天下統一のための犠牲だったのではないかと見ることができる。重臣の讒言による改易、といういち大名家のお家騒動の裏には、実は巨大な陰謀が渦巻いていたのではないだろうか。

【江戸時代のお家騒動】古田騒動 “乗っ取り陰謀阻止”説と藩主“暗君”説

…り、彼の跡目を巡ってお家騒動が起きた。これが古田騒動と呼ばれるものだ。 「藩主乗っ取りの陰謀を阻止」説 この事件の流れには、いくつかの説がある。まずは、特に有力だと思われる説から見ていくことにする。事件の始まりは、江戸藩邸に入っていた重恒が中風を患ったことにあった。重恒が病に臥せってしまった上、彼にはまだ世継ぎがいない。このことを家臣たちが不安に思っていた頃、家臣の古田左京は自分の孫・万吉を藩主にしようと企んでいた。 左京は江戸在勤となっていた年寄の加藤治兵衛や黒田作兵衛を味…

【江戸時代のお家騒動】佐竹騒動 銀札流通の失敗で藩内経済が大混乱

【時期】1757年(宝暦7年)【舞台】久保田藩【藩主】佐竹義明【主要人物】石塚孫太夫、岡本又太郎、平元茂助、山方助八郎、梅津外記、大越甚右衛門 財政立て直しのために銀札を発行 出羽久保田藩は北関東の雄・佐竹義宣を藩祖とする。豊臣政権に服属して常陸・下野54万5800石の領土を認められていたが、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで表面上は徳川家康に味方するような素振りを見せながらも、西軍に協力する動きもあったことから、戦後に領土を没収されて久保田藩20万5800石に移封となっ…

【江戸時代のお家騒動】船橋事件 家臣同士の権力闘争は喧嘩両成敗に

【時期】1634年(寛永11年)【舞台】弘前藩【藩主】津軽信義【主要人物】津軽信義、船橋半左衛門、乾四郎兵衛、兼平伊豆、乳井美作 開発事業や神社仏閣の再建に注力した津軽信義 船橋事件とは、弘前藩の三代藩主・津軽信義(つがる・のぶよし)の時に起こった家臣同士の権力闘争である。信義は父の死によって家督を継ぎ、1631年(寛永8年)に13歳の若さで弘前藩主となった。 江戸で育った信義は、その後も2年間は江戸で暮らし、1633年(寛永10年)に初めて領内に足を踏み入れる。信義は「ジョ…

【江戸時代のお家騒動】生駒騒動 バカ殿様と家臣団の対立に幕府が絡む複雑怪奇な構図

…勢を増したわけだが、お家騒動の種はこの時点ですでに蒔かれてしまったのだ。 男色にうつつを抜かす藩主の元で深刻化する内部分裂 1630年(寛永7年)、高虎が亡くなった。高俊の後見人は高虎の子・高次がそのまま引き継いだが、すでにその前年辺りから高俊も藩政に本格的に携わるようになっていたようだ。高俊が11歳で家督を継いでいれば、この頃には20歳を超えている。たしかにそろそろひとりで藩政を取り仕切っても良い頃だ。 ところが高俊は、政治のことは前野らに任せて、自身は男色にうつつを抜かし…

【江戸時代のお家騒動】柳川一件 日朝を揺るがす前代未聞の「国書改竄事件」

…く反対したことから、お家騒動が勃発してしまう。当時の藩主・宗義成に反抗した調興が、幕府に国書改竄の件を訴えたのだ。この件は、1635年(寛永12年)に家光によって裁かれた。両者それぞれに尋問が行われた後、江戸城にて直接取り調べがなされ、裁定がくだされた。その結果、非があるとされたのは調興の方で、彼は弘前藩へと預けられることになったのである。 一方の義成は、罪に問われなかった。幕府の朝鮮に対する認識が充分でなかったこと、それにより宗氏が国書の改竄という手段をとらざるをえなかった…

【江戸時代のお家騒動】黒田騒動 忠臣の中の忠臣・栗山大膳、命懸けの直訴

…こすというのは、他のお家騒動には見られない黒田騒動の特徴である。 この大膳の訴えに対し、幕府は忠之の不行跡を咎めはしたものの、謀反の疑いはないという裁定を下した。ただしお家騒動を招いた罪として忠之から領地を没収。とはいえこれは形式的なものであり、忠之はすぐに再び領土を安堵された。そしてその後、幕府は忠之が独断で藩政を行うことに制限を加えている。 対して大膳は訴えを起こした責任を問われ、盛岡藩預かりの身となった。だが大膳に関しても幕府の措置は寛大で、彼の身内への処罰は禁じられた…

【江戸時代のお家騒動】⑥殿様VS門閥譜代家臣の戦い

…のケースでは、それがお家騒動にまでなってしまうのである……。というわけで⑥としては、彼ら門閥譜代が重要な役割を果たすお家騒動を中心にまとめてみた。 身につまされる教訓⑥ 藩はまさに“老舗企業”のようなもの ⑥パターンのお家騒動は、老舗企業内部の対立に重ねることができる。たとえば設立してから十数年程度の会社であっても、「自分は設立当初から居て、大変な時代を社長と一緒に切り抜けてきたんだ!」と考える古参社員と、「成長し続けるこの会社には、俺のようなエリートが必要なんだ!」と考える…

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