攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

外様 の検索結果:

【戦国時代の境界大名】井伊氏――大勢力の狭間で内紛と戦乱の危機を乗り越える

…万石に及ぶこともある外様大名は幕政に口を出すことを許されぬ、という形でバランスをとっていたとされる。にもかかわらず、井伊氏は彦根35万石の大領を与えられていた。幕臣最上位の職である大老を最も多く務めてきたこともあって異例の厚遇を与えられ、また発言力を備えてきたのが井伊氏であるといっていいだろう。 その近世大名井伊家の祖といえるのが、井伊直政(1561―1602)である。赤備え(武装を赤で揃えた部隊)の精鋭を率い、江戸幕府初代将軍・徳川家康のもとで数多くの軍功を立て、「徳川四天…

【江戸時代のお家騒動】近思録崩れ 隠居した父が息子の藩主を押込め。薩摩藩最大の大獄

…ある。島津家のような外様大名から正室を迎えるなど、例外中の例外だった。しかし、1729年(享保14年)に島津家に嫁いできた竹姫という女性の遺言が、ここで大きく響いた。竹姫は五代将軍・綱吉の養女であり、彼女が嫁いできたことがきっかけで島津家と徳川家の間に結びつきができたという過去がある。 その竹姫は1772年(安永元年)に病で亡くなってしまうのだが、その遺言の中に「重豪に女子が生まれたなら、徳川家に嫁がせなさい」というものがあった。竹姫は、自分の死後に島津家と徳川家の結びつきが…

【江戸時代のお家騒動】仙石騒動 老中首座を狙う水野忠邦が野望実現に利用した事件

…、同じことがいえた。外様大名である脇坂は、寺社奉行以上に昇進することは不可能とされていた。しかしこの事件の成り行き次第では、出世が望めるかもしれない。水野と脇坂の思惑は一致した。 水野らはこの内紛を、主家乗っ取りを企む左京が起こしたものとした。左京は脇坂邸において尋間を受けたものの、それは水野の作った筋書きにそって進められることとなる。つまり、河野たちの訴えを無理やり立証することとなったのだ。 裁きの結果、左京には獄門が言い渡され、左京派の者達にも追放や遠島といった処分が下っ…

【江戸時代のお家騒動】筒井騒動 改易のウラには家康による深謀遠慮があった!

…定次が改易された後に外様大名の藤堂高虎が入れられたことも見逃せない。高虎は外様でありながらも、家康への忠勤ぶりから厚い信頼を寄せられていた。豊臣系の大名でありながら信頼のおける高虎を、大坂にほど近い伊賀に配置することは、大坂城を攻略するにあたって大変心強い拠点となる。つまり、そのために邪魔となった定次は、改易に追いやられたということだ。 これらの理由を見ると、定次の改易は家康の天下統一のための犠牲だったのではないかと見ることができる。重臣の讒言による改易、といういち大名家のお…

【お城の基礎講座】79. 江戸時代の築城

…ら二つのお城は西国の外様大名への備えとして築かれたものです。これらは幕府主導で築城されました。 明石城の坤櫓(左)と巽櫓(右)。現存する三重櫓も貴重だ 天下普請(てんかぶしん) 幕府が命じて作らせる天下普請(てんかぶしん)も引き続き行われています。大坂の陣で焼け落ちてしまった大坂城の再建工事や、二条城の拡張工事、江戸城の増築工事などです。 現在の大阪城の堀や縄張は江戸時代になってから徳川幕府によってつくられたものだ 外様大名(とざまだいみょう)による築城 今までのものは外様大…

【お城の基礎講座】76. 江戸時代・慶長期(けいちょうき)の築城ブーム

…国地方、九州地方)に外様大名が多く移り、大城郭を建築したのです。さらに、幕府による天下普請(てんかぶしん)が行われ、大阪城を包囲する形で多くの大城郭が作られました。これらの建築ブームは慶長5年(1600年)から慶長20年(=元和元年、1615年)まで続きました。 武家諸法度(ぶけしょはっと) 元和元年(1615年)になると幕府が武家諸法度(ぶけしょはっと)を出します。これには新しい城を作ることや城の増改築が禁止されることが含まれていました。城の修繕には届出が必要で、幕府の許可…

【江戸時代のお家騒動】有馬氏の出世 騒動を起こさずに主家を吸収合併

… 主君の改易によって外様ながら大出世を果たす 鍋島騒動は、鍋島家が家臣でありながら主家の実権を握っていたことに端を発した騒動だった。しかし、「騒動を起こさずに主家を吸収した」パターンもある。 播磨の有馬氏がそうだ。有馬氏は播磨の名門・赤松氏の支流である。播磨守護である赤松則祐の子・義祐が摂津国有馬郡に配されたことで、有馬氏を称するようになったのだ。八代目・則頼の時には一時所領を失うなど危うい時もあったが、その後の織田信長の中国攻めにおいて、これを担当した羽柴秀吉の補佐にあたっ…

【江戸時代のお家騒動】里見騒動ーー大久保長安事件のとばっちりと見せしめの改易

…易処分となったのが、外様大名・館山藩主の里見忠義である。忠義は10歳の時に父・義康が亡くなったため、幼くして里見家を継ぐこととなった。しかし若年ながらも、重臣たちの補佐を受けて領内の検地や諸役の免除を実行。また商業の面でも、領内における貨幣の交換比を定めるなど、数々の政策を執り行った。 そんな忠義が結婚したのは、1611年(慶長16年)のことだ。妻となったのは、大久保忠隣の孫娘だった。こうして大久保家と姻戚関係になった里見家だったが、その他にも忠義の叔母である光性院殿が徳川家…

【江戸時代のお家騒動】江戸幕府=徳川家内の激烈な生き残り闘争

…のとばっちりを受けた外様大名・里見家の取り潰し」「父の代から辣腕を振るった名政治家・本多正純の失脚」というのがその概要である。 つまり、中央政権の政争(とその波及)という色合いが濃く、これだけ見るとお家騒動とは何の関係もないように思える。これらの事件はすべて、主役を演じた大名たち個人の問題ではなく、幕府政治の主導権争いと密接にかかわっていた点が共通している。すなわち、江戸幕府=徳川家のお家騒動の結果、争いに敗れたりとばっちりを受けたりした大名が失脚させられた、といえるのだ。 …

二条城で開催された二の丸御殿「黒書院三の間」学芸員解説会に参加してきました

…あります。これまでも外様大名は大広間、譜代や親藩(家門)は黒書院で対面するという説明でしたが、データを見ると黒書院は公家――それも身分の高い公家――と対面する用途としてむしろより使われていたようです。 黒書院三の間に描かれた障壁画について つづいて障壁画についての解説です。公家と応対するためにつくられた黒書院はほかの部屋の障壁画と比べてどのような特徴があるのでしょうか。 まず、黒書院の障壁画は長押の上下で場面が変わっている(別の絵が描いてある)のが特徴です。下の写真は北面と西…

江戸時代をデータベース化する

「外様大名40家」と「譜代大名126家」の原稿部分はブログに、後半の大名家名鑑については個別のページとして作成していますが、せっかくなので江戸時代のデータベース化を進めています。まだ途中ではありますが、おおよその形ができてきたので経過報告をしたいと思います。 江戸時代の仕組みを整理する 江戸時代の仕組み、つまり幕藩体制というのは徳川家康が樹立した江戸幕府と、諸大名(諸藩)との連邦国家でした。これをデータベースとして再現するには、構成する項目を整理する必要があります。単純に図式…

7.寵臣の出世と末路

…り、脇坂家はもともと外様大名だったのだ。しかし、有力な譜代大名である堀田家と血縁関係を結んだことで、「願譜代」という立場ではあるものの、譜代大名と同じ扱いを受けるようになった。江戸城での殿席も、外様大名にあてがわれた柳間ではなく、譜代大名のための帝鑑間を使っている。脇坂家は龍野という西国につながる要所を所領とし、安董も奏者番から寺社奉行兼任と出世コースを歩んでいた。そんな折、大奥で延命院事件と呼ばれるできごとが起こる。安産祈願を唱え、大奥や大名家の奥女中の間で信仰を集めていた…

6.譜代大名の懐事情

…っただろう。ゆえに、外様大名に比べれば参勤交代の負担は幾分かましだったといえる。中には老中など幕府の要職を務めて、参勤交代を免除された家もあった。 また、大名には有事の際、幕府に武器や兵力を差し出す軍役が課せられていた。同時に、城の修繕や治水などの土木工事に費用や資材、人足を差し出すことも義務づけられていた。これが御手伝普請である。御手伝普請は当初、任命された大名が全責任を負っていたのだが、あまりに過酷なため、やがて幕府が取り仕切るようになった。しかし、費用は変わらず大名持ち…

5.譜代大名の出世頭「老中」

…保7年)の脇坂安董が外様大名でありながら老中に任命されている。これは「願譜代(外様大名などが譜代大名を希望すること。認められれば、譜代大名と同様の扱いを受けた)」として譜代大名と同様に扱った特殊な例だ。 もちろん、何もせずに出世できるほど世の中甘くない。平たくいえば、賄賂が必要だったのだ。武家社会は身分社会であり、上に立つ者の言うことは絶対だ。権力者に取り入っておけば、なにごともうまくいく。幕閣の役職も思いのままだ。また、当時の武士が持っていた価値観として、何か頼むときに贈り…

4.出世と譜代大名

…幕府政治には朝廷にも外様諸藩にも口を出させない」という大前提を破ってまで意見を求めるが、このせいで幕府の権威を弱めて朝廷の名声を高めることになった。その後、同じく老中の堀田正睦は勅命を得ることによって開国問題を解決しようとしたが、強硬な反発を受けてしまっている。このように、阿部正弘の意見募集は公武のパワーバランスを大いに乱し、幕末の混乱を加速させたとされている。ここで満を持して大老になったのが名門出身の井伊直弼で、彼は強権によって国内を引き締め、問題に当たろうとするも、桜田門…

3.江戸幕府における譜代大名の役割

…り、紀伊にも豊臣方の外様大名の浅野家がいて、この時点では徳川家も手を出すことができていない。さらに北方への対策として、磐城平に鳥居忠政、館林に榊原康政、宇都宮に奥平家昌らを置いた。これらもまた家康の信頼厚い譜代大名で、関東の北の守りを固めることが目的だった。東北や北陸といった関東の北には前田家や伊達家といった外様大名の中でも際立って有力な家がいた。江戸幕府の設立当初、まだ諸大名への支配が確立していなかった頃には、こうした外様大名の存在は幕府にとって脅威だったのだ。 その後、「…

2.譜代家臣団の成立

…っていた十八松平(十四松平)――はすべて松平姓を使っていた。また、徳川直系の保科家や越智家、紀伊徳川の一族になった鷹司家、松井家にも松平の姓が与えられている。さらに家臣でも目覚ましい功績のあった柳沢家や、有力な外様大名の前田家、島津家、伊達家、黒田家、浅野家、毛利家、鍋島家、池田家、蜂須賀家、山内家などにも松平を名乗ることが許されている。これらは毛利家を除いて、明治維新まで松平姓を使い、本来の姓を使わなかったという。 次回「(3)江戸幕府における譜代大名の役割」につづきます。

1.譜代大名の定義

…は、対義語を用いて「外様大名」と呼ばれる。原則として、織田家や豊臣家に仕え、徳川家と同列の立場にあった大名は譜代大名とはされない。また、関ヶ原の戦いが一つの目安となっており、それ以前から徳川家に仕えていた者を譜代、そうでない者を外様としている。 ただし、これはあくまで原則であり、江戸幕府が開かれた後から仕え始めた譜代大名もいれば、徳川家とのつながりによって外様から譜代に変わった場合もあった。淀藩・稲葉家は外様大名である豊後の稲葉家の庶流にあたる家だが、稲葉正成の妻が3代将軍・…

5.支配者としての大名たちの苦悩

…戸時代初期にかけて、外様の大名たちは内と外に対してそれぞれ大きな問題を抱えていた。外部に対しては、ここまでずっと見てきたように、次々と移り変わる情勢と、絶対的な強者として様々に圧力をかけてくる天下人の存在が最大の問題であった。隙を見せればいつ言いがかりを付けられて滅ぼされるかわからないのだから、とにかく必死だったはずだ。一方、内に対しては、独自の発言力と既得権益を抱えている有力武士の存在が問題だった。そこで諸大名は知行制度を変更していくことで支配体制を確立する道を選んだ。旧来…

4.江戸幕府のシステムに縛られた外様大名

…費を迫られたのは主に外様の大大名だったが、一方、大名のほぼすべてが大きな負担を背負い、頭痛の種としていたのが、大名が江戸と国元を一年交代で移動する参勤交代制度であった。 関ヶ原の合戦前後、諸大名は徳川家への臣従を示すため、江戸へ自主的に人質(証人)を送った。その後、幕府は証人制度として大名から一定の人質をとっていたのだが、大名たちによる反乱の可能性が薄くなってくると廃止された。その一方で自発的に行われていた大名たちによる江戸への参勤や、江戸屋敷に妻子を置くなどの行為が家光の時…

江戸城での控室は家格によってちがうらしい

…官位を持つ親藩および外様大名。 帝鑑の間 「譜代席」とも呼ばれ、この部屋に詰める大名が譜代大名。ただし真田家など外様でもこの席に移った大名もいる。 柳の間 五位および無官の外様大名。交代寄合や高家などの旗本も。 雁の間 幕府成立後に新規に取立てられた城主大名。 菊の間 幕府成立後に新規に取立てられた無城大名(陣屋大名)。 じっさいにどの部屋にどのくらいの大名が割り当てられていたのかについては『図解 江戸城をよむ』(深井雅海、原書房)に表が記載されています。(松尾美恵子氏の論文…

3.戦国大名から外様大名へ

…、豊臣家と関係のある外様大名や、後継者騒動を起こした大名、家臣団を上手く統制できなかった大名、何らかの失態を犯した大名などが次々と改易されていった。関ヶ原の戦いに西軍として参加した土佐の長宗我部家は、時の当主・盛親の兄で徳川家と親しかった親忠が戦後に謀殺されたことから家康の怒りを買い、改易させられている。謀殺の原因は、かつて兄を差し置いて家督を継承した盛親から、徳川家と親しい親忠に家督が移るのではないかと考えた盛親側近の先走りであったという。 関ヶ原の戦いで家康に与して先鋒ま…

2.織豊政権期のパラダイム転換

…。その理由としては、外様の大大名から腹心を切り離すことで勢力の分断を狙い、優れた武将を取り込もうとしていたのだと考えられている。急激に成り上がったために直臣が少ない豊臣家の台所事情も関係していただろう。これらは露骨な内政干渉であり、もともとは独立した勢力であった諸大名は、腹にすえかねたはずだ。実際には起きなかったが、何らかの大規模な反乱が起きてもおかしくはなかっただろう。秀吉が石田三成を始めとする五奉行によって中央集権的な政治体制の確立を目指す一方で、徳川家康を始めとする有力…

1.戦国大名の誕生

…配下となった国人衆や外様衆はもともと大名と同格の国人であったため、従わなければいけない大義はなかったからだ。その戦国大名の力が強く、将来性が豊かなうちはいいが、内紛が重なったり、外敵との戦いに負けたり、周辺に強大な勢力が誕生したりすると、国人たちが一気に離反してしまうことも十分にありうる。 これに対して、戦国大名と同じ一族に属する一族衆や、古くから戦国大名の氏や家に仕えてきた譜代衆などは比較的信頼性が高い武士たちといえる。その一方で同じ一族での内乱が日常茶飯事だったのもまた事…

「氏」と「家」のちがい、武家の広がりについての基礎知識

…「関ヶ原の戦い」をこえて大名として生き残ることができたのが江戸時代の大名家です。ちなみに江戸時代にも分家は生まれています。徳川将軍家における御三家を真似て、宗家が断絶しないように嫡男を宗家の世継ぎにしつつ、弟を分家として独立させ支藩を設立しています。 攻城団では今後、江戸時代の大名家や500以上あったとされる藩のデータベース化を進めていく予定です。その初手として、来週から榎本秋先生の著書「外様大名40家」の再編集版をこのブログに掲載していきますので楽しみにしていてくださいね。

明智光秀と明智氏、あるいは「歴史に埋もれたものたち」

…氏を描いた『おんな城主直虎』はまさにそういう話であったので、ぜひ今回の明智氏の様子と見比べてほしい。若き光秀の気持ちについて、より深く理解することができるはずだ ただ、史料を追っていくと明智氏には別の側面も見えてくる。実は室町時代には名門・土岐の一族として自らも京に出て、外様衆や奉公衆などという役職について活躍していたらしい形跡が見えるのだ。このような京とのつながり、名門一族の末裔としての意識は、先行作品とは違う景色を光秀に、そして私たちに見せてくれるかもしれない。楽しみだ。

【戦国合戦こぼれ話】「本能寺の変」で織田政権が瓦解した真の理由

…た人で、織田家中では外様でありながら出世頭といっていいほど厚く遇された人であった。そんな彼がなぜ謀反を起こしたのかは諸説あってはっきりしないし、本稿でも特に注目しない。 重要なのは、この時期は織田家の兵力のほとんどが各地方に割り振られて中央を留守にしていたこと、そして唯一残っていたのが「近畿方面軍」というべき光秀の軍団だったことである。近畿方面軍には兵力の空白地域において反乱が起きた場合の押さえという役目があったのだろうが、その彼らが謀反を起こしてはひとたまりもない。 しかも…

西国大名に対する抑えの城は複数ある?――「点」ではなく「線」で捉えると歴史はもっと楽しくなる――

…が、この合戦において外様の大大名がたくさん生まれてしまったことに起因します。徳川家康は自分の軍勢を温存したという説もありますが、そもそも朝鮮出兵をまぬがれた徳川軍は弱かったので戦力として計算しづらかったという説もありますね。 以下は東軍につき大幅加増された豊臣系大名の一覧ですが、「親徳川」というよりも「反三成」の立場から東軍についた大名が多いことが伺えます。 東軍についたおもな豊臣恩顧の大名の戦後処置 武将 旧領 新領 前田利長 加賀金沢83.5万石 119.3万石(加増) …

築城の名手(1)藤堂高虎が築いた城

…びっくりです。高虎は外様なのにね。 「藤堂高虎がかかわったお城巡り」というのも楽しそうですね。ぼくもだいたいは攻城済みなんですけど、粉河城や赤木城はまだいったことがないし、甘崎城ははじめて知りました。なんでも甘崎城は海に浮かぶ島がそのまま城郭になっていて、干潮時に歩いて渡れるそうです(江ノ島みたいなものですね)。これはぜひ攻めてみたい! kojodan.jp 攻めたいお城がまた増えてしまいましたが、こうやって知れば知るほど興味が次々と湧いてくるというのが楽しいですね。 ちなみ…

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