攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

西軍 の検索結果:

【家康の謎】家康は関ヶ原の戦いで何割くらい勝てると思ってたの?

…陣取る東軍に対して、西軍の諸部隊はその前後左右を半ば包囲する形になっていた。家康が陣を置いた桃配山から見て左手に位置する松尾山の小早川秀秋や、後方に位置する南宮山・毛利氏の軍勢が一気に攻め込んできたなら、ひとたまりもなかったはずだ。 実際にはよく知られている通り小早川に対しては寝返りの交渉が進んでおり、毛利に対しては先鋒の吉川広家との間に不戦の約束が結ばれていたものの、果たして裏交渉の通りに話が進むのか、家康は大いに不安であったはずだ。彼がイライラしている時の癖であった爪噛み…

【家康の謎】家康は関ヶ原の戦いに出陣する前に江戸で誰にどんな手紙を出してるの?

…毛利輝元・石田三成ら西軍も、挙兵に際して「内府ちがひの条々」と呼ばれる書状を全国の大名へ向けて発している。これは家康の非を鳴らすものであり、家康の立場を明らかに悪化させた。家康としても、前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行を自分の味方と計算していたにもかかわらず、実際には「内府ちがひの条々」に彼らの名前があったため、大いに動揺したに違いない。 とはいえ、家康も負けてはいない。西軍挙兵の一報を受け取って戦いを決意した後の7月24日から、一度江戸城へ入り、そしていよいよ出陣する9…

【家康の謎】家康の領地の石高はどのくらいあった?

…ラマにおける未来、関ヶ原の戦い後の徳川の領地を見てみよう。関ヶ原後、豊臣家の蔵入地(直轄領)の大部分および西軍諸大名の所領が没収され、それらは論功行賞に加えて徳川家の直轄地に当てられた。この関ヶ原戦後の徳川家の領地は一般に400万石とされる(徳川家の蔵入地ということだと、大坂の陣後だが約230万石という数字もある。おそらく、旗本や御家人の所領を除いた数字ということだろう)。家康は広大な領地に加え、各地の重要な都市や鉱山などを己の蔵入地に組み込み、江戸時代の礎としたのであった。

【家康の合戦】関ヶ原の戦い 豊臣政権の内部抗争

…軍と、石田三成率いる西軍による天下分け目の決戦が勃発。関ヶ原の戦いはわずか1日で東軍勝利という形で決着がついた戦いです。関ヶ原の戦いといえば、戦国史に残る有名な合戦のひとつです。家康vs三成として描かれ、テレビドラマや映画、書籍など数えきれないほどあります。私たちが以前から知っている関ヶ原の戦いは、先にも示したような徳川家康と石田三成による天下分け目の決戦というイメージですが、近年の研究の成果によって通説が見直されています。つまり、いまは秀吉死去後の豊臣政権における内部抗争と…

室町幕府で三管四職をつとめた有力守護家はやっぱりすごかった

…ひろみち)も関ヶ原で西軍について滅んだ。→赤松の庶流に、一時期「石野」を名乗っていた家系がある。氏満(うじみつ)という人が、別所氏配下で秀吉との戦いで活躍したことから秀吉・前田利家に仕え、その子の氏置(うじおき)が徳川に仕えて旗本に。子孫が赤松を名乗り直し、旗本寄合になる。→赤松の庶流に摂津国の有馬氏がある。秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでは東軍について、江戸時代には筑後久留米藩に21万石を持った。有馬からさらに別れた流れが徳川忠長から紀伊藩の徳川頼宣へ仕え、有馬氏倫(うじのり)が…

【戦国軍師入門】直江兼続――主家存続に生涯を捧げた文武兼備の智将

…は石田三成の、そして西軍の敗北を伝えていた。仕方なく兼続は兵を退くが、報せはもちろん最上軍及びその援軍にやって来た伊達軍にも届いたから、彼らはかさにかかって追撃してくる。戦うにあたって最も難しいのは撤退戦で、大軍を損害少なく退かせようとしたらその難しさは跳ね上がるものだ。それでも兼続は鉄砲隊を並べて散々に撃ちかけることによって最上・伊達勢を押し返す。そこに突っ込んだ前田利益らの活躍によって、どうにか上杉軍は無事撤退することに成功したのだ。 戦後、米沢30万石に減封されながらも…

【戦国軍師入門】鍋島直茂――野心なくして遂げた下克上

…関ヶ原の戦い」で一度西軍につきながらも、東軍に寝返ることによって領地を守れたという事情もあった。そして何よりも龍造寺家の当主が政家・高房と二代続いて非常に凡庸な人物であったということが決定的だった。 結果として、高房が成人しても直茂は実権を返さず、本来直茂の上、もしくは同格にいたはずの龍造寺の一族たちもそのことを認めた。これに絶望した高房は自殺してしまい、ついに直茂が龍造寺の家督を継承し、ここから佐賀鍋島藩の歴史が始まる。以上のように、直茂はごく平和裏に下克上を遂げており、戦…

【戦国軍師入門】石垣原の戦い――黒田官兵衛、最後の賭け

…の戦い」にあたっては西軍に参加して毛利の兵を借り、かつての領地を取り戻そうと兵を挙げたのだ。 この義統の軍が東軍側の杵築城を攻めたために官兵衛はその城を救援に向かい、途中の石垣原という溶岩がゴロゴロと転がっていたところで決戦となる。兵力では官兵衛側が勝ったものの、義統の元には大友の旧臣たちが集結して奮戦し、かなり手こずらせたようだ。しかし、結局は官兵衛が圧倒的な勝利を飾り、義統は降伏する。これが奇しくも9月15日、関ヶ原で決戦が行われた日のことだった。 その後、官兵衛は西軍側…

【戦国軍師入門】関ヶ原の合戦――100人を倒すより1000人に裏切らせる

…輝元だったが)率いる西軍は美濃(現在の岐阜)の関ヶ原にて大いに戦い、激戦の末に軍配は家康の東軍に上がった。 ところがこの戦い、戦場での両軍の布陣だけを見ると西軍の方がはるかに有利だった。そもそも西軍の方が数が多い上、東軍は西軍に取り囲まれる形で布陣していたのだ。実際、明治時代に日本陸軍の軍事顧間として来日したドイツのクレメンス・メッケル少佐が、この布陣の様子を見てすぐに西軍の勝ち、と断言したという話が伝わっている。しかし、結果はまったく逆になった。そして、その陰には両軍の軍師…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は⑨――徳川本隊を釘付けにした城――上田城(第二次上田合戦)

…上させた。信濃方面の西軍派勢力を平定させたのちに、京に向かうのが秀忠の役目であった。 その前に立ちふさがったのが真田昌幸であり、上田城であった。昌幸は会津の上杉討伐軍には参加していたが、三成の挙兵後には離れ、西軍に加担する準備を始めていた。これに対し、秀忠はまず使者を送って東軍に付くよう求める。しかし昌幸は返答を先延ばしにし、その間に城の防備を強硬なものにして、再び使者が送られてきた時にはわざと挑発的な回答で、開戦の意思を見せる。 まだ若く、しかもこれが初陣であった秀忠はすっ…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は⑧――関ヶ原の戦い当日まで持ちこたえた城・大津城

…ていたらしい。最初は西軍に従う素振りだった高次だが、家康が会津に出陣するとこれに従い、その後も東軍に味方する動きを見せた。これを知った西軍は大津城を包囲して大砲などで攻撃し、激しい攻防戦が繰り広げられた。 戦いが始まってから数日後、西軍から開城を勧めるため使者が送られてきた。高次にはまだ抗戦する意思があったようなのだが、味方との連絡が取れないこともあり、すでに籠城は厳しくなっていた。周りからの説得を受け入れて高次は開城を決意し、数日間耐え忍んだ大津城はついに落城した。ところが…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は③――落ちなかった支城・長谷堂城

…軍と石田三成の率いる西軍がぶつかっていた頃、各地方でも諸大名が東西に分かれて争っていた。時の最上氏当主・義光は東軍につき、そのために西軍側の上杉氏の攻撃を受けることになったのである。上杉景勝の命を受けた側近・直江兼続は山形城を目指して突き進み、まず支城のひとつである畑谷城を抜いた。この際、畑谷城に入っていた江口五兵衛は撤退を命じる主君の命に反して城に籠もり、熾烈な籠城戦の末に玉砕している。そして、この次のターゲットになったのが長谷堂城であった。 この城を抜かれれば後はない――…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑤――勇ましくも美しき女武将の活躍した城・安濃津城

…軍と石田三成が率いる西軍がぶつかった美濃関ヶ原における合戦が有名だが、実際には全国で東軍と西軍に分かれての戦いが巻き起こっており、数々の印象深いエピソードが残されている。もちろん、その中には多数の「籠城戦」が含まれているわけだが、特に面白いものとして伊勢安濃津城(三重県津市)の戦いを紹介したい。なにせ、この戦いでは華やかな女武者が見事な活躍を見せているのだから。 戦国時代の合戦で活躍したのは男性ばかりだと思われがちだが、戦いが女性たちの領域である城にまで及んだ際には、自らの命…

【10大戦国大名の実力】島津家⑥――島津家の歴史

…を安堵している。他の西軍諸将が取り潰しか領地の大幅減を申し渡されていることを考えると、これがどれほどの厚遇かわかる。 1604年(慶長9年)には家督が忠恒に譲られるが、義久・義弘が巨大な権限を残していたことには変わりない。この三者がそれぞれ当主に準じる力をもっていた時期を「三殿体制(さんとのたいせい)」と呼ぶ。1610年(慶長15年)ごろ、この三者の関係が悪化していたのはすでに述べたとおりだが、翌年には義久が病死したので大きな混乱にはつながらなかった。ここでようやく島津家の権…

【10大戦国大名の実力】島津家⑤――朝鮮出兵と関ヶ原の戦い

…ころが、実際の義弘は西軍として関ヶ原の戦いに参加している。どうしてそうなったのかといえば、三成の挙兵後に義弘が家康との約束に従って伏見城に入ろうとしたところ、城を守る徳川勢に拒否され、激怒した義弘は西軍側に参加したのだ、という。連絡の行き違いか、それとも家康が何かを考えていたのか、真相はわからない。 しかし、義弘の味方した西軍は、味方の裏切りもあって敗北が決定的になる。島津軍はここに至るまでほとんど戦っていないが、それは三成との意見の対立から傍観していたためとも、そもそも兵の…

【10大戦国大名の実力】長宗我部家④――負のスパイラルを止められず

…が勃発すると、盛親は西軍に参加して関ヶ原へ出陣した。しかし、毛利勢とともに南宮山に陣取っていたため実際の合戦には参加せず、戦わずに土佐へ戻った後に徳川家康に謝罪した。 ところが、ここで先述した後継者問題の影響が浮上してくる。元親の三男・津野親忠の存在が問題になったのだ。この以前、親忠は先の後継者問題で不満をもち、一度は京都へ脱出しようとしたことなどを咎められ、元親によって領地を没収されていた。しかし、関ヶ原の戦いで長宗我部家が危機に陥ると、親忠が家康派に強いコネをもっていたこ…

【10大戦国大名の実力】毛利家⑤――元就の呪縛

…おいて輝元は名目上の西軍総大将に祭り上げられるが関ヶ原へは出陣せず、大坂城にいた。代わって兵を率いたのは輝元の養子(元は従子弟)の秀元だったが、南宮山に陣取ったままついに動かず、小早川秀秋が東軍に寝返ったのと合わせて、東軍勝利の大きな要因となった。こうした行動の背景には、毛利家存続のために徳川家康と内通した吉川広家(元春の三男、病死した兄に代わって吉川家を継承)の暗躍があったとされる。 戦後、輝元は「毛利の領国には手をつけない」という約束を信じ、速やかに大坂城を出て家康への恭…

【10大戦国大名の実力】織田家⑤――衰退する織田家

…田三成の求めに応じて西軍へ参加。岐阜城に籠もったが東軍に敗れ、降伏。戦後は頭を剃って高野山に籠もったという。 また、信長には一人の兄と十人の弟がいたとされるが、彼らの多くは信長の配下として戦った末に戦死したり、秀吉の支配下に入ったりしている。とくに有名な人物には信秀の十一男にあたる長益がいる。この人物は茶人「有楽斎」として有名な一方で、武将としての活躍はほとんど記録されておらず、それどころか本能寺の変においては信忠と共にいながら一人脱出した――という逸話がある。 信長の死で火…

【10大戦国大名の実力】上杉家⑥――その後の上杉家

…の戦いにおいて景勝は西軍側として最上家、伊達家などと戦うも、西軍は敗北。上杉家はどうにか米沢30万石への減封で許され、以後は米沢藩として幕末までその血をつなげることになる。 江戸時代においては、関ヶ原後の減封時に積極的なリストラを行わず、家臣の多くをそのまま残したことなどから、深刻な財政難に襲われた。しかし、「生せば生る 成させねば生らぬ 何事も 生らぬは人の 生さぬなりけり」という言葉で名高い9代藩主の上杉鷹山が財政改革を行い、改善を見ている。 長尾・上杉と「カリスマ」 為…

【10大戦国大名の実力】佐竹家③――優れたバランス感覚

…と親しく、心情的には西軍側であったろう。先述したように豊臣政権の支配下に入る以前から接触があり、常陸の平定にあたっても彼の協力を得たこと。加えて、宇都宮氏が養子問題で改易になった際、縁戚関係にある佐竹家もその余波を受けそうになったが、三成の仲介によってこれを免れる、ということもあった。 1599年(慶長4年)、三成が対立する武断派七将による襲撃を受けそうになった際は、伏見の屋敷から大坂へ急行、自ら三成のいた前田利家の屋敷に赴いて、駕籠に乗せて脱出――と、三成を助けるべく活動し…

日本史における「変」と「乱」について対談しました

…る東軍と山名氏率いる西軍に分かれ、幕府の主導権をめぐり約11年間にわたって継続した内乱。1493年(明応2年)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる 室町時代 1476年(文明8年)〜1480年(文明12年) 長尾景春の乱 関東管領上杉氏の有力家臣・長尾景春による反乱。鎮圧した太田道灌も1486年(文明18年)7月、主君定正により謀殺された 室町時代 1479年(文明11年) 第一次毛利次郎の乱 因幡の国人・毛利貞元(次郎)が守護山名氏に対して起こした反乱 室町時代 …

上州に残る石田三成生存伝説

…とは可能であろう。徳川の世になっても、伝承として語り継がれた。そう、三成は死しても人々の心の中で生き続けていたのです。 上州群馬には他にも、三成の鬼殺伝説の残る退魔寺(伊勢崎市美茂呂)や、三成三女・辰子姫の眠る東楊寺(太田市大舘)があり、意外と繋がりがあります。付近に住まう皆々は是非とも訪れてください。全国にはまだまだ三成を巡る史跡や伝承が残っているかもしれない・・・。この三成ラッシュを逃すことなく、来年の西軍勝利へと皆で繋げていこう!!!!! news.kojodan.jp

【クーデターで読み解く日本史】西軍の有力者が裏切った本当の理由とは?――関ヶ原の戦い

…いる東軍と三成率いる西軍が激突したのは美濃国関ヶ原の地であった。この時、西軍は兵力で勝り、かつ戦場においても盆地の東軍を周囲の山に登って取り囲む必勝の陣形を組んだ。にもかかわらず、勝利したのは東軍であった。西軍側の小早川秀秋が裏切り、また吉川広家ら毛利軍(輝元は大坂城にいた)が戦いに参加しなかったからだ。 家康と三成、その勝敗を分けたのは何だったのか。家康は戦いに先立って諸大名に数多くの書状を出し、恩賞を餌に味方へ引き入れた。合戦での裏切りも、こうした事前工作の賜物である。対…

【クーデターで読み解く日本史】応仁の乱の種をまいた無気力将軍の大罪――文正の政変

…人による幕府の舵取り争いに、先に紹介した斯波氏の家督争い、また同じように家督でもめていた畠山氏の内紛、さらに将軍家の後継者争いまで絡んで対立が激化した結果、京を中心に日本全体が東軍と西軍に分かれて10年を超える内乱に突入することになる。それこそが応仁の乱である。つまり、文正の政変とは応仁の乱の引き金だった、というわけだ。 応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書) 作者:呉座勇一 中央公論新社 Amazon 図解 応仁の乱 (エイムック 3743) エイ出版社 Amazon

【殿様の左遷栄転物語】柳川一件

…関ヶ原の戦いにおいて西軍についた宗家の立場を家康に対して釈明したこと、また朝鮮との修好など、大いに活躍している。これらを受ける形で、宗家が肥前に所有していた所領のうち1000石が幕府の指示によって実質的に柳川家に与えられることになった。これが後の事件の遠因になるわけだ。 藩内部の争いが国際問題に! 調信の2代後、柳川調興(やながわ しげおき)の代になって、事件は起きる。きっかけは、宗家と柳川家の関係が悪化していったことであるようだ。時の宗家当主である義成(よしなり)は当主にな…

【殿様の左遷栄転物語】一代の英雄死して山形藩は……最上義光

…いでは東軍に味方し、西軍側の上杉家による攻撃を耐え抜いた。この時、最上家の支城のひとつ、長谷堂城をめぐって争われた戦いは、上杉家の重鎮である直江兼続の活躍もあって、「東国の関ヶ原」などと呼ばれたりもする。 この功績によって、義光は57万石を有する大大名となる。だが、そもそも彼の登場まで長く内乱を続けてきたことからもわかるように、最上家はとても一枚岩とはいえない状況であった。義光は一代の英雄ではあったが、「小規模勢力の寄せ集め」という戦国時代的大名家である最上家を、システムによ…

【殿様の左遷栄転物語】無念の長府藩主 毛利秀元

…輝元が関ヶ原の戦いで西軍について敗れたため、毛利家は防長二国に減封されたのはすでに紹介したとおり。この際、長門国のうち3万6千石余を分与された秀元は、ここに長府藩を設立。他にも一族に領地が分け与えられ、長府藩以外に徳山藩、清末藩、岩国領が成立し、長州藩の支藩とされた。 秀元は長府藩主として、輝元の跡を継いだ秀就の補佐を務めることになる。これは輝元からの直々の依頼でもあり、一時期は彼の嗣子であったというその立場から、秀元が萩藩の藩政の立て直しを強硬に進めることを可能とした。秀元…

【殿様の左遷栄転物語】計算かそれとも私怨の廃嫡か 細川忠隆

…に際して、ガラシャが西軍の人質にされそうになって自ら死を選ぶ有名な悲劇が起きた際、一緒にいた千世は最期をともにすることなく、屋敷から脱出してしまう。これを責めるのも酷だと思うのだが、忠興としては許せなかったらしく、「千世もガラシャと一緒に自害するべきだった」として、ふたりを離婚させようとしたのである。しかし忠隆は千世をかばい、離縁しようとしなかった。このことで父・忠興の怒りを買い、彼は廃嫡されてしまった、というわけだ。 その後の忠隆は この2つの理由のうち、どちらが主原因だっ…

【殿様の左遷栄転物語】二重に抱えた複雑な事情 佐賀藩鍋島家

…る。関ヶ原の戦いでは西軍についたために窮地に陥るが、その後の九州での戦いでは東軍側についたため、本領を安堵された。 龍造寺家の恨みは化け猫へ? このように龍造寺家の実権を鍋島家が掌握しつつあったことに、不満を抱かずにいられなかったのが政家の息子・高房(たかふさ)だ。1607年(慶長12年)に高房は直茂の嫡子である勝茂(かつしげ)を殺そうとしたが結局果たせなかったため、憤慨して自殺した、と伝わる。高房が死に、ついで政家も死んだので、直茂は龍造寺の家督を息子の勝茂に相続させた。こ…

【殿様の左遷栄転物語】伊達政宗の長男が設立 宇和島藩伊達家

…が東軍についたため、西軍の石田三成に人質としてとらわれた。戦いののち、今度は徳川家の人質として江戸で暮らし、大坂冬の陣では政宗とともに出陣して戦功をあげ、伊予国宇和島郡に10万石を与えられて、ここに宇和島藩を設立することになった――そう、秀宗は伊達本家を継承できなかったのである。 その原因は、すでに述べたような豊臣家との深い関係があったのでは、と考えられている。伊達家は東北の大大名であり、幕府から警戒される存在だ。その当主が豊臣家ゆかりの人物では、余計ににらまれるだけだ。かく…

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